第56話「待つと決めた人が、来ないと決めたとは限りません」
金曜日。
午前七時五十二分。
PANDEMONIUMの前で、男が立っていた。
店には入らない。
道路も見ない。
時計だけを見る。
七時五十三分。
七時五十四分。
「待ち合わせ?」
渾沌ちゃんが窓越しに言った。
「そのようです」
「聞く?」
「まだ聞きません」
「珍しい」
「困っているとは限りません」
七時五十五分。
男は店の入口から三歩離れた。
また戻った。
◇
八時。
男が店へ入ってきた。
「すみません」
「はい」
秩序ちゃんが向く。
「ここ、入口って一つですか」
渾沌ちゃんが笑った。
「その聞き方する人、久しぶり」
「一つとは限りません」
秩序ちゃん。
男の顔が曇った。
「やっぱり」
◇
約束は八時だった。
妹と。
PANDEMONIUMの前で。
「どのPANDEMONIUMかは?」
「言ってません」
「どの入口かは?」
「言ってません」
「連絡は?」
「できません」
「なんで?」
渾沌ちゃん。
「妹、携帯持ってないんです」
「家は?」
「帰れば分かります。でも今日、一緒に病院へ行く約束で」
予約。
九時。
ここから三十分。
「あと三十分待ったら、間に合わない」
渾沌ちゃんが言う。
「はい」
男は時計を見る。
「でも、帰ったらすれ違うかもしれない」
◇
秩序ちゃんは店の外へ出た。
朝の空気。
晴れ。
歩道。
PANDEMONIUMの看板。
入口。
一つ。
少なくとも、今ここから見えるのは。
「妹さんは、ここを知っていますか」
「知ってます」
「どのように?」
「前に一回来ました」
「あなたと?」
「はい」
「その時も、この入口でしたか」
男が答えようとして。
止まった。
「……たぶん」
「たぶん?」
「店の向かい、花屋でしたっけ」
道路の向こう。
コインランドリー。
花屋はない。
◇
「違うとこだ」
渾沌ちゃん。
「可能性があります」
「探しに行ける?」
「どこへですか」
「花屋があるPANDEMONIUM」
「場所が分かりません」
「じゃ全部の入口開ける?」
「開けません」
「即答」
「待ち合わせのために境界を増やしません」
男が二人を見る。
「境界?」
「入口です」
秩序ちゃんは言い直した。
◇
八時七分。
男は外へ戻った。
「もう少し待ちます」
「何分?」
渾沌ちゃん。
「十分」
「なんで十分?」
「……なんとなく」
「九時に間に合いますか」
秩序ちゃん。
「走れば」
「妹さんも?」
男が黙った。
「走れません」
「では、その十分は誰のためですか」
男は時計から目を離した。
「妹のためです」
「妹さんが十分待ってほしいと言いましたか」
「言ってません」
「じゃ自分のため?」
渾沌ちゃん。
男は少し笑った。
「そうかもしれない」
◇
八時十二分。
道路の向こうから女が走ってきた。
「来た?」
渾沌ちゃん。
男が顔を上げる。
違った。
女はPANDEMONIUMへ入る。
「おはようございます」
「おはようございます」
そのまま注文。
男はまた時計を見る。
◇
八時十七分。
「十分過ぎた」
渾沌ちゃん。
「はい」
男は動かない。
「行かないの?」
「あと五分」
「増えた」
「すみません」
「私に謝らなくていいよ」
秩序ちゃんが聞く。
「病院の予約を失っても、待ちますか」
「それは困ります」
「妹さんが別の入口で待っていて、同じ理由で動かなかったら?」
男が目を閉じた。
「もっと困ります」
◇
「じゃ、どっちかが動かなきゃね」
渾沌ちゃん。
「でも動いた方が悪いみたいになる」
男。
「なぜですか」
「待つ約束だから」
「約束は、待つことですか」
「……一緒に病院へ行くことです」
秩序ちゃんは頷いた。
「なら、待つことと約束を守ることが、今は同じではありません」
◇
男は店へ戻った。
「紙、借りてもいいですか」
渾沌ちゃんと秩序ちゃんが同時に棚の方を見た。
男も見る。
「あ、いや。何でもいいです。レシートでも」
秩序ちゃんがレジから白紙のレシートを一枚出した。
男は書く。
《八時二十分まで待った。病院へ先に行く》
その下。
《九時。いつもの病院》
「置いとけばいい?」
渾沌ちゃん。
男は首を振った。
「ここじゃないかもしれない」
「じゃどうする?」
男は考える。
紙を二つに破った。
一枚を入口の内側へ。
もう一枚をポケットへ。
「片方持ってくの?」
「妹が病院に来た時、説明できるように」
「来なかったら?」
「帰ってから話します」
「怒られたら?」
「それも話します」
男は外へ出た。
八時二十一分。
走らなかった。
早足で。
病院の方へ歩いていった。
◇
八時二十八分。
女が来た。
四十代くらい。
杖。
ゆっくり歩く。
入口の前で止まった。
店を見る。
道路を見る。
「妹さん?」
渾沌ちゃんが小声で言う。
「決めません」
女が入ってくる。
「すみません」
「はい」
「ここ、前に花屋が向かいにありませんでした?」
◇
秩序ちゃんは入口の紙を指した。
「これを読む前に、一つ確認します」
「はい」
「八時に、誰かと待ち合わせていましたか」
「兄と」
「病院へ行く予定ですか」
女の顔が変わった。
「兄、来ました?」
「来ました」
女が息を吐く。
「よかった」
「二十分まで待って、先に病院へ向かいました」
「……行ったんだ」
声が少し硬くなった。
渾沌ちゃんが紙を見る。
「読む?」
女は頷いた。
◇
《八時二十分まで待った。病院へ先に行く》
《九時。いつもの病院》
女は二回読んだ。
「二十分」
「はい」
「私、こっちで二十五分待ったのに」
「こっち?」
渾沌ちゃん。
「花屋の前です」
「やっぱ別の入口あるんだ」
「渾沌ちゃん」
「はい」
女は紙を握った。
「兄、昔から待てないんです」
秩序ちゃんは答えない。
「五分くらいで帰る人で」
「今日は二十分待ちました」
「そうみたいですね」
女の声はまだ硬い。
でも。
紙は捨てなかった。
◇
「病院、間に合う?」
渾沌ちゃん。
「ここからなら、たぶん」
「走れる?」
女が杖を見る。
「無理です」
「送る?」
渾沌ちゃんが秩序ちゃんを見る。
「何でですか」
「なんかあるでしょ。近道」
「使いません」
「あるんだ」
「今は使いません」
女が笑った。
「タクシー呼べますか」
「はい」
◇
八時三十五分。
タクシーが来た。
女は乗る前に紙を見た。
「これ、持ってっていいですか」
「あなた宛てです」
秩序ちゃん。
「じゃ、持ってきます」
「返さなくていいよ」
渾沌ちゃん。
女は首を振った。
「兄に見せます」
「あ、そっち」
「私も二十五分待ったって言います」
タクシーへ乗る。
扉が閉まる。
走り出す。
◇
「怒るかな」
渾沌ちゃん。
「分かりません」
「どっちが悪い?」
「決めません」
「入口違ったの、二人とも知らなかったもんね」
「はい」
「でも兄ちゃん先行った」
「はい」
「妹ちゃんも二十五分待った」
「はい」
「じゃ同点?」
「競争ではありません」
「じゃ正解は?」
秩序ちゃんは道路を見る。
もう誰もいない。
「ありません」
「ないの?」
「少なくとも、私たちが決めるものは」
◇
昼。
男が戻ってきた。
一人で。
「病院どうだった?」
渾沌ちゃん。
「間に合いました」
「妹さんは?」
「家に帰りました」
「怒ってた?」
「はい」
「やっぱり」
「私も怒りました」
「両方!」
男が笑った。
「でも、次は入口じゃなくて病院で待ち合わせることにしました」
秩序ちゃんが言う。
「それなら同じ場所になりますか」
男の笑顔が消えた。
「……たぶん」
渾沌ちゃんが吹き出す。
「そこから!?」
◇
「確認します」
秩序ちゃん。
「いや、今度は自分たちで確認します」
男が言った。
秩序ちゃんが止まる。
「場所の写真を見せ合って、同じか確かめます。妹、携帯ないので、家で」
「はい」
「それで違ったら、別の場所にします」
「はい」
「それでも駄目だったら」
男は少し考えた。
「その時、また決めます」
◇
男が帰る。
渾沌ちゃんが言った。
「紙、残ってないね」
「妹さんが持っていきました」
「棚にもない」
「はい」
「記録しなくていいの?」
秩序ちゃんは店の入口を見る。
朝と同じ。
一つ。
向かいはコインランドリー。
「私たちが覚える必要はありません」
「忘れていい?」
「忘れるかどうかも、今は決めません」
◇
閉店前。
道路の向こうに。
花屋はなかった。
入口も増えなかった。
何も直していない。
何も置いていない。
それでも。
朝、ここで待っていた二人は。
明日は同じ待ち方をしない。
渾沌ちゃんが扉を閉める。
「何も残ってないのに、変わったね」
秩序ちゃんは鍵をかけた。
「人が持って帰りましたから」




