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第55話「返す場所がなくても、借りたことまで消さないでください」


 木曜日。


 午前七時六分。


 空だった細長い箱に。


 青いボタンが一つ入っていた。


「これ?」


 渾沌ちゃんがつまむ。


「触る前に見てください」


「もう触った」


「……見せてください」


 直径二センチ。


 青。


 四つ穴。


 裏に、白い糸が残っている。


「服の?」


「可能性はあります」


「昨日の夜、誰か入れてたやつかな」


「決めません」


 棚には。


 鍵。


 乾いた手袋。


 《杖先ゴム 一個使用中》の紙。


 それから。


 青いボタン。


 赤い紙はない。


「今日はこれ調べる?」


 秩序ちゃんはボタンを見る。


「困っている人がいれば」


「いなかったら?」


「置いておきます」


 ◇


 午前七時二十一分。


 困っている人が来た。


 昨日の杖の女だった。


「返しに来ました」


 杖の先。


 昨日借りたゴムが付いている。


「もういいの?」


 渾沌ちゃん。


「新しいの買いました」


 女は紙袋から新品を出した。


「じゃ、そっち付ければ?」


「はい」


 古いゴムを外す。


 棚へ置く。


「ありがとうございました」


 女が帰ろうとする。


 秩序ちゃんが紙を見る。


《杖先ゴム 一個使用中》


「待ってください」


「はい?」


「この紙は、どうしますか」


 女が読む。


「もう返したので、捨てていいんじゃないですか」


「分かりました」


 秩序ちゃんが紙を取る。


 渾沌ちゃんが言う。


「終わったね」


「はい」


 その時。


 老人が来た。


「あ、返しちゃった?」


 ◇


「何がですか」


「杖の先」


 老人が棚を見る。


「昨日、もう一人いたんだよ」


「杖が壊れた人?」


 渾沌ちゃん。


「そうそう」


「昨日の女の人じゃなくて?」


「違う人」


 秩序ちゃんが手を止める。


 紙は、まだ捨てていない。


「その人も、この部品を必要としていましたか」


「たぶんね」


「本人に確認しましたか」


「してないよ」


「では、必要とは決めません」


「でも置いとけば使うかもねえ」


 老人は歩いていった。


 渾沌ちゃんが紙を見る。


「終わってない?」


「昨日の貸し借りは終わっています」


「でも部品はまだ使える」


「それは別です」


「紙は?」


 秩序ちゃんは少し考えた。


「これは、終わっています」


 紙を破る。


「破った」


「返却済みです」


「次の人、知らなくなるよ」


「昨日の人が借りたことを知る必要はありません」


「じゃ部品だけ残す?」


「はい」


 ◇


 午前八時十三分。


 パン屋の店員が棚の前で止まった。


「増えてますね」


「一つです」


「青いボタン」


 店員が触る。


 胸元。


 白いシャツ。


 上から二番目のボタンがない。


「あ」


 渾沌ちゃん。


「ぴったりじゃん」


「色が違います」


 店員のシャツは白いボタン。


「でもサイズ同じ」


 店員が穴へ合わせる。


「使っていいですかね」


 秩序ちゃんは答えない。


「誰のか分かりません」


「昨日の棚なら、使ってるって書けばいいんじゃないですか」


「必要なら」


「必要です。厨房で引っかかるので」


 店員がボタンを持つ。


「じゃ借ります」


「返す方法はありますか」


「毎日います」


「はい」


 店員は針と糸を取りに行った。


 ◇


 八時二十六分。


 白いシャツに。


 青いボタン。


 一つだけ。


「かわいい」


 渾沌ちゃん。


「浮いてますよ」


「だからいいんじゃん」


 店員が笑う。


「返すまでです」


 秩序ちゃんが紙を置く。


《青いボタン 一個使用中》


 書いて。


 止まった。


「どうしたの?」


「昨日と同じです」


「何が?」


「返す前提で書きました」


「借りたんでしょ?」


 店員が言う。


「借りました」


「持ち主、返してほしいって言った?」


「言っていません」


「持ち主が誰かも分かりません」


 渾沌ちゃんが紙を覗く。


「じゃ『使用中』だけ?」


 秩序ちゃんは鉛筆を置く。


「本人に聞きます」


 ◇


「返したいですか」


「持ち主が来たら返します」


「来なかったら?」


 店員が青いボタンを見る。


「このまま使っていいなら、使いたいです」


「いつまで?」


「取れるまで?」


「それだと、持ち主が来ても分かりません」


「じゃ、持ち主が来るまで」


 渾沌ちゃんが首を傾げる。


「来なかったら一生?」


「シャツの方が先に駄目になると思います」


「そっか」


 秩序ちゃんは紙に書く。


《青いボタン 使用中》


《持ち主が必要なら返す》


 昨日と似ている。


 でも。


 名前はない。


 返却期限もない。


「これでいいですか」


「はい」


 ◇


 午前九時五分。


 客が来た。


 黒いコート。


 左袖。


 青いボタンが三つ。


 一番下だけ、ない。


 渾沌ちゃんが店員を見る。


 白いシャツ。


 青いボタン。


「来た」


 秩序ちゃんも見た。


 同じ大きさ。


 同じ色。


 四つ穴。


 客はカウンターへ向かう。


 ボタンを見ない。


「聞く?」


 渾沌ちゃん。


「はい」


 秩序ちゃんが客へ近づく。


「すみません」


「はい」


「コートのボタンを一つ、なくしていますか」


 客が袖を見る。


「ああ」


「いつからですか」


「さあ。昨日かな」


「探していますか」


「いいえ」


 秩序ちゃんが止まる。


「必要ではありませんか」


「別に」


 客は笑った。


「取れたから、そのままにしてます」


 ◇


 渾沌ちゃんが走ってくる。


「あるよ!」


「何が?」


「青いボタン」


 店員の胸を指す。


 客が見る。


「ああ、似てる」


「あなたのものか確認できますか」


 秩序ちゃん。


「たぶん私のです」


「返します」


 店員が糸切りばさみを取ろうとする。


「いらないです」


 手が止まった。


「え」


「そのまま使っててください」


「でも、あなたの」


「たぶんね」


「確認しなくていいんですか」


「返してもらっても、付けないので」


 渾沌ちゃんが笑う。


「じゃ、あげる?」


 客は少し考えた。


「それも違うかな」


 ◇


「違う?」


「いらないだけです」


「店員さんが使うのは?」


「どうぞ」


「じゃあげたんじゃん」


「そうなるの?」


 客が困る。


 秩序ちゃんが言う。


「決めなくていいです」


「でも記録は?」


 店員。


《青いボタン 使用中》


《持ち主が必要なら返す》


 三人で見る。


 客が読む。


「私は返してほしくないですよ」


「返してほしくない?」


 渾沌ちゃん。


「返されると持つことになるでしょう」


「あー」


「捨てるのもなんか嫌だし」


 客は店員の胸を見る。


「そこにあるなら、それでいいです」


 ◇


 秩序ちゃんが紙を外す。


「消す?」


「書き換えます」


《青いボタン 使用中》


 その下。


 鉛筆が止まる。


「何書くの?」


「……返却不要」


「それも違うって言ってなかった?」


「はい」


 消す。


「じゃ『もらった』?」


「それも決まっていません」


「『いらない』?」


 客が笑う。


「それはちょっと寂しいね」


 渾沌ちゃんも笑う。


 秩序ちゃんは紙を見た。


 何も足さない。


《青いボタン 使用中》


 それだけ。


「返すことになったら?」


 店員。


「その時に確認します」


「この人、もう来ないかもしれませんよ」


「はい」


「じゃ返せない」


「はい」


「借りたまま?」


 秩序ちゃんは客を見る。


 客はもう注文をしている。


 袖の穴を気にしていない。


「返す場所がなくても、借りたことまで消す必要はありません」


 ◇


 昼。


 青いボタンは店員の胸にあった。


 客はバーガーを食べて帰った。


 自分のボタンだったか。


 最後まで確定しなかった。


 店員も追わなかった。


 ◇


 午後一時四十分。


 棚の鍵がなくなった。


「取られた!」


 渾沌ちゃん。


「そうとは限りません」


「じゃ使ってる?」


「それも分かりません」


 棚を見る。


 紙はない。


 誰も何も残していない。


「どうする?」


「今、鍵を必要としている人がいるか確認します」


「持ち主じゃなくて?」


「両方です」


 ◇


 鍵を探している人はいなかった。


 午後二時。


 午後三時。


 午後四時。


 誰も来ない。


「じゃいい?」


 渾沌ちゃん。


「まだ分かりません」


「ボタンみたいに使ってるかも」


「そうかもしれません」


「返さなくていいかも」


「それは決められません」


「紙ないよ」


「はい」


「困る?」


「少し」


「なんで?」


 秩序ちゃんは空いた場所を見る。


「昨日、私は記録を中央に残しすぎない方へ動きました」


「うん」


「でも、何も残さないこととは違います」


「また反対側きた」


「反対ではありません」


「じゃ何?」


「借りた人が、自分で覚えていられるとは限りません」


 ◇


 閉店前。


 棚の前。


 秩序ちゃんは新しい札を作らなかった。


 ルールも書かなかった。


 小さな紙を数枚。


 鉛筆一本。


 置くだけ。


「書けって書かないの?」


「書きません」


「何書けばいいかも?」


「書きません」


「じゃ誰も書かないかもよ」


「はい」


「鍵みたいに」


「はい」


 渾沌ちゃんが紙を一枚取る。


《渾沌ちゃん 鉛筆一本使用中》


「やめてください」


「練習」


「今使っているので、間違ってはいません」


「じゃ置いとく?」


「不要です」


「何が違うの!」


「私が見ています」


「めんどくさ!」


 ◇


 渾沌ちゃんが紙を丸める。


 ごみ箱へ投げる。


 外れる。


「外しました」


「見てたなら拾って」


「あなたが投げました」


「覚えてるじゃん」


「はい」


 二人で笑う。


 ◇


 照明を落とす前。


 パン屋の店員が通った。


 白いシャツ。


 青いボタン。


「まだ付けてる」


 渾沌ちゃん。


「はい」


「明日も?」


「取れなければ」


 店員が言う。


「返す人、もういないかもしれないですけどね」


 秩序ちゃんは頷いた。


「それでも、今日ここに来た経緯はなくなりません」


「覚えておく?」


「はい」


「誰が?」


 店員は自分の胸を見る。


「私が」


 ◇


 二人が廊下を曲がる。


 棚には。


 紙。


 鉛筆。


 乾いた手袋。


 空の箱。


 鍵はない。


 少しして。


 誰かが来た。


 紙を一枚取る音。


 鉛筆。


 さらさら。


 棚へ置く。


 誰も見ていない。


 翌朝まで。


 そこに何が書かれたのか。


 秩序ちゃんも知らなかった。

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