第54話「残した失敗を、次の人の答えにしないでください」
水曜日。
午前六時五十八分。
赤い丸の包み紙が、なくなっていた。
「ない」
渾沌ちゃんがメモ帳を逆さにする。
鉛筆。
消しゴム。
昨日の質問票。
全部落ちた。
包み紙だけ、ない。
「捨てた?」
「私は捨てていません」
「パン屋さん?」
「確認します」
二人が休憩室を出たところで。
厨房から声がした。
「これ、便利ですね」
◇
パン屋の店員が、赤い紙を持っていた。
昨日の包み紙。
半分に折られていたものを、さらに半分。
四分の一。
「何してるの?」
渾沌ちゃん。
「目印です」
店員が指す。
受け取り棚。
三段。
上段の端に、赤い紙。
「分からない注文を、ここに置くことにしました」
秩序ちゃんが止まる。
「誰が決めましたか」
「私です」
「なぜですか」
「昨日、それを残したでしょう」
店員は笑った。
「答えじゃなくて、間違えかけたものだって」
「はい」
「だから、分からない時に見る印かと思って」
◇
上段には紙袋が三つあった。
白。
茶色。
細長い箱。
「全部、分からないの?」
「はい」
「何が?」
「それも色々です」
一つ目。
受取人が分からない。
二つ目。
中身が分からない。
三つ目。
注文した覚えがある人が二人いる。
「一緒に置いたの?」
「分からないので」
渾沌ちゃんが秩序ちゃんを見る。
「増えたね」
「昨日より悪く」
「言うね」
「私が残したものなので」
◇
午前七時十二分。
配送員が来た。
「茶色の袋、あります?」
店員が上段を指す。
「分からない棚です」
「私のかもしれません」
「受取人の名前は?」
「書いてないです」
「中身は?」
「開けないと」
店員は首を振った。
「じゃ、まだ分からないので渡せません」
配送員が困る。
「でも七時半までに持っていかないと」
秩序ちゃんが袋を見る。
「あなたが探しているものは、何ですか」
「朝便の伝票です」
「袋ですか」
「いえ。伝票が入ってるはずです」
「開けて確認できますか」
「できます」
開く。
伝票。
配送員の字。
「あった」
店員が言う。
「でも受取人は?」
「伝票が私のです」
「袋は?」
「知らないです」
「じゃ袋は残します?」
渾沌ちゃんが笑う。
「伝票だけ持ってけば?」
配送員が伝票を抜く。
茶色い袋を棚へ戻した。
「それでいいです」
◇
「袋、分からないまま」
店員。
「はい」
秩序ちゃん。
「解決してませんよ」
「何が困っていますか」
「え」
「今」
店員は棚を見る。
「……場所を取ってます」
「では、それは別の問題です」
渾沌ちゃんが吹き出す。
「袋の正体じゃないんだ」
「正体が必要になったら調べます」
◇
七時四十分。
細長い箱を、老人が見つけた。
「ああ、これ」
「知っていますか」
「昨日置いたよ」
「中身は?」
「杖の先」
開ける。
ゴムの部品。
三つ。
「なんで分からない棚に?」
渾沌ちゃん。
「知らないよ」
店員が言う。
「誰のか分からなかったので」
「私のじゃないよ」
全員が止まる。
「昨日置いたんですよね」
「置いたよ」
「では誰のものですか」
「知らない」
「なぜ置いたんですか」
「廊下に落ちてたから」
◇
店員が赤い紙を見る。
「やっぱりここで合ってますよね」
「何がですか」
「分からないものを置く場所」
秩序ちゃんは答えなかった。
老人がゴムの部品を一つ取る。
「これ、ちょうど合うかな」
「待ってください」
秩序ちゃん。
「あなたのものではありません」
「分かってるよ」
「では」
「昨日、杖の先が割れた人がいたんだよ」
「誰ですか」
「名前は知らない」
「どこに?」
「今日はまだ見てないねえ」
老人は部品を戻した。
「じゃ、ここにあれば見つけるかもね」
◇
午前八時。
赤い紙の棚を。
何人かが見ていった。
自分のものを探す人。
拾ったものを置く人。
何か分からないまま、誰かが必要かもしれないと持ってくる人。
店員が嬉しそうに言う。
「機能してます」
「何が?」
渾沌ちゃん。
「分からないものが集まってます」
「それ機能なの?」
「探しやすいでしょう」
秩序ちゃんは棚を見た。
七個に増えている。
そのうち。
二つは食べ物。
一つは鍵。
一つは濡れた手袋。
危険かどうかも。
同じではない。
「止めます」
◇
「全部捨てる?」
「捨てません」
「棚なくす?」
「今はなくしません」
「赤い紙?」
秩序ちゃんは紙を外した。
「これは外します」
店員が驚く。
「なんでですか。昨日残したものなのに」
「昨日、私が判断を誤りかけた証拠です」
「だから使ったんです」
「はい」
「間違ってました?」
秩序ちゃんは少し黙った。
「あなたの使い方が、ではありません」
「じゃ何が?」
「私が、残せば意味まで残ると思っていました」
◇
渾沌ちゃんが赤い紙を取る。
「紙、何もしゃべんないもんね」
「はい」
「でも昨日見てた私たちは分かる」
「はい」
「パン屋さんは見てたけど、違う意味にした」
「はい」
「じゃ残す意味ない?」
「それも違います」
「また?」
「残ったものが、次の判断を代わりにしてはいけません」
◇
午前八時二十二分。
棚の前に女が来た。
右手に杖。
先端のゴムが割れている。
「あ」
老人が言う。
「この人」
女が箱を見る。
「これ、使っていいんですか」
店員が秩序ちゃんを見る。
秩序ちゃんは答えない。
渾沌ちゃんも。
老人が言う。
「落ちてたやつだから、誰のか知らないよ」
女は部品を手に取る。
杖の先へ合わせる。
ぴったり。
「もらっていい?」
誰も答えられない。
◇
「困ってる?」
渾沌ちゃんが聞く。
「はい。滑るので」
「今使いたい?」
「はい」
「あとで持ち主来たら?」
女が部品を見る。
「返します」
「なくしたら?」
「同じものを買います」
秩序ちゃんが聞く。
「その約束を、ここに残してもいいですか」
「はい」
紙に書く。
《杖先ゴム 一個使用中》
《必要なら返す》
名前は書かなかった。
女が言った。
「名前、いらないんですか」
「返す必要が出た時に、探せる方法はありますか」
「毎朝ここ通ります」
「では、今はそれで」
◇
女が歩いていく。
杖。
こつ。
こつ。
滑らない。
老人が満足そうに頷いた。
「置いといてよかったねえ」
「はい」
店員も言う。
「やっぱり棚、必要でしょう」
「はい」
「赤い紙も?」
「それは別です」
「厳しい」
渾沌ちゃん。
◇
午前九時。
棚を三つに分けた。
名前は付けなかった。
上段。
食べ物。
中段。
持ち主が分からないもの。
下段。
使っている人がいるもの。
「名前ないの?」
店員。
「今は」
「また分からなくなりません?」
「なったら変えます」
「赤い紙みたいに?」
「はい」
店員は少し考えた。
「じゃ、この並べ方も答えじゃない?」
「今日の使い方です」
◇
昼。
茶色い袋の持ち主が来た。
袋だけ持って帰った。
鍵は誰も取らなかった。
濡れた手袋は乾いた。
食べ物は時間が来たので処分した。
杖先のゴムは戻らなかった。
でも。
女は午後にも同じ廊下を通った。
杖をついて。
「まだ使ってます」
「はい」
それだけ確認した。
◇
閉店前。
店員が赤い紙を持ってきた。
「これ、どうします?」
四分の一になった包み紙。
昨日。
帰れるものを包んでいた。
今日。
分からないものを集める印になった。
「捨てる?」
渾沌ちゃん。
秩序ちゃんは受け取る。
メモ帳へ戻そうとして。
止めた。
「戻さないんだ」
「はい」
「じゃ捨てる?」
「いいえ」
秩序ちゃんは紙を店員へ返した。
「あなたが持っていてください」
「私が?」
「今日、これを使ったのはあなたです」
「でも元は秩序ちゃんのでしょう」
「昨日の意味は、私が覚えています」
店員は赤い紙を見る。
「今日の意味は?」
「あなたが覚えてください」
◇
店員はポケットへ入れた。
「明日、別の意味にしたら?」
渾沌ちゃんが聞く。
「その時は、その時の使い方を確認します」
「止めない?」
「必要なら止めます」
「正しい意味に戻さない?」
秩序ちゃんは首を振った。
「戻す正しい意味はありません」
渾沌ちゃんが笑う。
「昨日の失敗なのに?」
「だからです」
◇
照明を落とす。
棚には。
鍵。
乾いた手袋。
空になった細長い箱。
《杖先ゴム 一個使用中》の紙。
赤い印はない。
店員が厨房へ戻る。
ポケットから、赤い紙の角だけ見えていた。
渾沌ちゃんが言う。
「明日、何になるかな」
「分かりません」
「気になる?」
「はい」
「見に来る?」
秩序ちゃんは少し考えた。
「必要になったら」
「気になるだけじゃ?」
「来ません」
「えらい」
「評価しないでください」
二人が廊下を曲がる。
その後ろで。
棚の前に誰かが止まった。
鍵を持ち上げる音。
戻す音。
それから。
空の細長い箱へ。
何か小さなものを入れる音がした。




