第53話「聞かなかったことを、知らなくていいとは限りません」
火曜日。
午前七時四十六分。
休憩室のバーガーは、まだ二つあった。
「食べていい?」
渾沌ちゃんが聞く。
「確認します」
「誰に?」
秩序ちゃんは止まった。
昨日。
聞きすぎないことを覚えた。
今。
聞く相手がいない。
テーブルの上。
白い包みが二つ。
片方に、赤い丸。
もう片方に、何もない。
「じゃ、食べていいかだけ調べよ」
「そうですね」
その時。
厨房から声がした。
「それ、まだ出さないで!」
◇
パン屋の店員だった。
走ってくる。
白いエプロン。
片手に紙袋。
「どっち?」
渾沌ちゃん。
「両方です」
「誰の?」
「分かりません」
「じゃなんで出しちゃだめなの?」
「朝、厨房の受け取り棚にあったんです。昨日の残りかと思って、こっちに移しました」
秩序ちゃんが包みを見る。
「作った人は?」
「分かりません」
「内容は?」
「分かりません」
「いつ作られましたか」
「分かりません」
渾沌ちゃんが笑った。
「全部分かんない」
「はい」
店員は笑わなかった。
「さっき、倉庫の人に言われたんです。赤い印の注文、間違えると帰れなくなることがあるって」
渾沌ちゃんの手が止まった。
◇
「誰が帰れなくなるんですか」
秩序ちゃん。
「分かりません」
「どこへ?」
「それも」
「食べた場合ですか。渡した場合ですか」
「分かりません」
「赤い印は危険表示ですか」
「たぶん」
「たぶんでは困ります」
「だから持ってきたんです」
昨日のメモ帳が、店員のポケットから出た。
《今、何が分かれば動けるか》
一番上の一行。
店員が指す。
「これ、考えたんですけど」
「はい」
「何が分かればいいのかが、分かりません」
◇
秩序ちゃんは黙った。
昨日の答えが。
今日は入口で止まった。
「じゃ全部聞く?」
渾沌ちゃん。
「聞く相手がいません」
「調べる?」
「何を調べるか決まっていません」
「開ける?」
「それで状態が変わる可能性があります」
「食べる?」
「やめてください」
「これは分かるんだ」
「はい」
◇
午前八時三分。
配送員が休憩室へ来た。
「赤い丸?」
包みを見る。
「知っていますか」
「見たことはあります」
「何の印ですか」
「配送先を変えないやつ」
「危険表示では?」
「知らないです」
「帰れなくなるという話は?」
「それは青じゃないですか」
店員が言う。
「赤って聞きました」
「私は青って聞いた」
渾沌ちゃんが包みを覗く。
「色で決めるのやめよっか」
「賛成です」
◇
八時十七分。
老人が来た。
「朝ごはん?」
「違います」
秩序ちゃん。
「赤い丸、知っていますか」
「昔は辛い方だったねえ」
「昔?」
「いつだったかな」
「ここで?」
「たぶん」
「またたぶん」
渾沌ちゃん。
老人は笑う。
「昔のことは、だいたいたぶんだよ」
◇
八時二十九分。
三人の証言。
危険かもしれない。
配送先固定かもしれない。
辛いだけかもしれない。
どれも。
今の二つの包みについては確定しない。
「情報、増えたね」
「はい」
「分かった?」
「いいえ」
「昨日と逆だ」
「何がですか」
「聞いたのに分かんなくなった」
秩序ちゃんは赤い丸を見る。
「それは、悪いことではありません」
「そうなの?」
「分からない範囲が分かりました」
「それ便利?」
「今は」
◇
午前八時四十一分。
厨房からベルが鳴った。
一回。
誰も動かない。
二回。
店員が言う。
「注文です」
三人で厨房へ戻る。
カウンターに女が立っていた。
昨日の診療所へ行った女ではない。
濡れた髪。
コートから水が落ちている。
外は晴れている。
「受け取りに来ました」
「何をですか」
「朝食」
「内容は?」
「知りません」
「包みの印は?」
「知りません」
「注文した人は?」
「私です」
秩序ちゃんが止まる。
「何を注文しましたか」
「帰れるもの」
◇
渾沌ちゃんが休憩室へ走った。
「二個あるよ!」
女は包みを見た。
赤い丸。
無印。
「どっち?」
「分かりません」
「え」
「注文した時は、包まれていませんでした」
「何入ってた?」
「覚えていません」
「味は?」
「まだ食べてません」
「じゃ何なら分かる?」
女は少し考えた。
「一つじゃなかったです」
◇
秩序ちゃんが二つの包みを見る。
「両方ですか」
「分かりません」
「二つとも受け取りますか」
「それも、怖いです」
「一つだけなら?」
「間違えたら帰れないんでしょう?」
店員が目を伏せた。
「それ、確定してません」
女は困った顔をした。
「じゃ、どうしたらいいんですか」
昨日なら。
必要なことだけ聞く。
でも。
何が必要か分からない。
聞かないことも。
選択だった。
◇
「開けます」
秩序ちゃんが言った。
「さっき開けないって」
渾沌ちゃん。
「状況が変わりました」
「誰のか分かったから?」
「受取人が、開けることを選べるからです」
女を見る。
「開けてもいいですか」
「はい」
「両方?」
女が迷う。
「赤い方から」
「理由は?」
渾沌ちゃんが聞く。
秩序ちゃんが見る。
「それ、いる?」
「……いらない」
◇
赤い包みを開く。
バーガー。
普通に見える。
上のバンズ。
レタス。
パティ。
白いソース。
ただ。
底の紙に、水が溜まっていた。
女のコートから落ちる水と同じ匂い。
「雨?」
渾沌ちゃん。
女が息を止めた。
「私のところの」
「分かりますか」
「はい」
「食べますか」
「待って」
女は無印の包みを見る。
「そっちも開けたい」
「はい」
◇
無印。
開く。
バーガー。
同じ形。
でも底の紙は乾いている。
小さな砂が三粒。
女が触る。
「これも、私のところです」
「同じ場所?」
渾沌ちゃん。
「違います」
「二つ帰るとこあるの?」
女は答えない。
秩序ちゃんも聞かなかった。
◇
「どちらを受け取りますか」
女は二つを見る。
雨。
砂。
「両方」
「怖くない?」
渾沌ちゃん。
「怖いです」
「帰れなくなるかもだよ」
「それも、まだ分からないんですよね」
「はい」
秩序ちゃん。
女は二つを紙袋へ入れた。
「一つ選ぶ方が、怖いです」
◇
午前九時十二分。
女は帰った。
エレベーターは使わなかった。
店の正面から。
晴れた歩道へ出る。
三歩。
四歩。
五歩。
六歩目で。
傘を開いた。
雨は降っていない。
でも。
傘の表面だけが濡れ始めた。
七歩目。
足元に砂が落ちた。
女は止まらない。
角を曲がる。
見えなくなった。
◇
「帰れた?」
渾沌ちゃん。
「分かりません」
「聞かなかったね。帰る場所」
「はい」
「よかった?」
「まだ分かりません」
「じゃ、昨日のやつ間違い?」
秩序ちゃんは首を振った。
「昨日は、聞かなくてよいことを聞きました」
「今日は?」
「聞くべきことが何か分からないまま、聞かないことを正しいと思いかけました」
「むずかし」
「はい」
◇
店員がメモ帳を出した。
《今、何が分かれば動けるか》
「これ、消します?」
「消しません」
「増やす?」
「増やしません」
「じゃどうするの」
秩序ちゃんは鉛筆を取った。
一行の横に。
小さく書く。
《分からない時は、分からないまま止めない》
渾沌ちゃんが読む。
「またルール増えた」
秩序ちゃんは止まった。
消しゴム。
今書いた一行を消す。
「消した!」
「これは、次にそのまま使うと危険です」
「じゃ何残すの?」
秩序ちゃんは何も書かなかった。
代わりに。
赤い丸が付いていた包み紙を半分に折る。
メモ帳へ挟んだ。
「それだけ?」
「今日、判断を間違えかけたものです」
「答えじゃないじゃん」
「はい」
◇
昼前。
別の注文が来た。
紙袋。
青い丸。
店員が三人を見る。
「これ、帰れなくなるやつですかね」
配送員が通りかかる。
「ほら、青でしょ」
渾沌ちゃんが笑う。
「聞く?」
秩序ちゃんは青い丸を見る。
それから。
紙袋を持ってきた客を見る。
「まず、何に困っていますか」
客が答える。
「冷めます」
渾沌ちゃんが吹き出した。
秩序ちゃんも。
青い丸ではなく。
時計を見た。




