第6話「普通のぱんでむ」
自動ドアが開いた。
「いらっしゃいませー」
明るい声。
それだけだった。
警報は鳴らない。
床も増えない。
天井から肉も降らない。
空間も裂けない。
秩序ちゃんは入口で立ち止まった。
「……入らないの?」
後ろから渾沌ちゃん。
「入ります」
「三分くらい入ってないけど」
「観察しています」
「普通の店を?」
「だからです」
秩序ちゃんは一歩踏み込んだ。
床はタイル。
右にカウンター。奥に厨房。客席は二十席ほど。壁際には返却口。油と焼けた肉の匂い。
制服姿の店員がポテトを揚げている。
高校生くらいの男の子がトレーを拭いている。
窓際では母親が子供の口を紙ナプキンで拭いていた。
何もおかしくない。
そのことが、ひどくおかしい。
「二名様ですか?」
レジの女性が尋ねた。
「……はい」
「店内で?」
「はい」
「ご注文お決まりでしたらどうぞ」
頭上のメニュー。
チーズバーガー。
ダブルバーガー。
フィッシュバーガー。
ポテト。
ナゲット。
コーラ。
コーヒー。
知らない商品はない。
知っている商品しかない。
「秩序ちゃん」
「何ですか」
「食べよ」
「待ってください」
「なんで」
「先ほどの表示を忘れましたか」
『世界適応率 0%』
『翻訳率 0%』
『店舗変形率 0%』
『ORIGINAL』
秩序ちゃんはカウンターを見た。
もし本当にここが基準なら。
自分たちが日常としてきたあの店の方が、何かに合わせて変形した姿ということになる。
「ご注文は?」
「あ、チーズバーガーセット二つ」
「渾沌ちゃん」
「ポテトで。飲み物コーラ」
「勝手に」
「秩序ちゃんも同じでいい?」
「……もうそれで結構です」
「千五百六十円です」
渾沌ちゃんが払った。
普通の電子音がした。
番号札。
37
普通だった。
◇
「おいしい」
渾沌ちゃんが言った。
秩序ちゃんも一口食べる。
普通においしい。
肉。
チーズ。
ピクルス。
ケチャップ。
バンズ。
星は入っていない。
世界も挟まっていない。
食べても知らない人生の記憶は流れ込んでこない。
「……普通ですね」
「うん」
「普通すぎます」
「褒めてる?」
「警戒しています」
「バーガーに?」
「全部にです」
隣の席で老人が新聞を畳んだ。
その向こうでは会社員がコーヒーを飲んでいる。
子供がポテトを一本落とした。
母親が拾う。
店員が床を拭く。
秩序ちゃんは十分ほど観察した。
異常。
なし。
「ねえ」
渾沌ちゃんがポテトを摘んだ。
「この世界、ぱんでむ以外も普通なのかな」
秩序ちゃんの手が止まった。
窓の外。
信号。
電柱。
自転車。
犬を散歩させる女性。
「確認します」
「どこ行くの?」
「外です」
「まだポテトあるよ」
「持ってきてください」
「行儀悪い」
「あなたに言われたくありません」
二人は店を出た。
夕方の住宅街。
渾沌ちゃんは紙袋を持っている。
秩序ちゃんは歩いた。
コンビニ。
美容室。
小さな公園。
クリーニング店。
交番。
自動販売機。
どれも普通。
公園のベンチには学生が二人。
空には飛行機。
鳥。
雲。
「平和だね」
「そうですね」
「怪獣いない」
「いません」
「空から目玉も見てない」
「見ていません」
「道路も人を食べない」
「通常、道路は人を食べません」
「うちの近所は食べるじゃん」
「三回だけです」
渾沌ちゃんが笑った。
秩序ちゃんは笑わなかった。
交差点。
信号が赤になる。
二人は止まる。
向こう側。
小学生たちがランドセルを揺らしている。
その一人がこちらを見た。
目が合う。
すぐ逸らされた。
「……渾沌ちゃん」
「うん」
「気づいていますか」
「何が?」
「私たち」
黒と白。
フリル。
リボン。
明らかに、この街では浮いている。
それだけだった。
誰も逃げない。
誰も跪かない。
誰も武器を構えない。
警報も鳴らない。
変な服の二人組として見られている。
「コスプレだと思われてる?」
「おそらく」
「新鮮」
青。
二人は渡った。
◇
一時間歩いた。
異常は見つからなかった。
ぱんでむへ戻る。
店はまだ営業していた。
客が増えている。
夕食時らしい。
入口横の注意書きもそのまま。
『世界線・異常存在・超常現象・観測災害・実在変換その他、架空概念に関するお問い合わせには対応しておりません』
秩序ちゃんはそれを指差した。
「これだけです」
「何が?」
「この世界で確認できた、唯一の異常です」
「書いてあるだけじゃん」
「だから不自然なんです」
ドアが開く。
今度は男性店員。
「いらっしゃいませー」
秩序ちゃんはカウンターへ向かった。
「質問があります」
「はい」
「入口の注意書きについて」
店員の笑顔が。
ほんの少しだけ止まった。
「どの部分でしょう」
「世界線」
「はい」
「異常存在」
「はい」
「実在変換」
「はい」
「これは何ですか」
「お問い合わせには対応しておりません」
「それは読みました」
「でしたら」
「なぜ、そんな注意書きが必要なんですか」
店員は答えなかった。
後ろでフライヤーが鳴った。
別の店員がポテトを上げる。
塩を振る。
客が注文する。
「ダブルバーガー単品で」
「ありがとうございます」
日常は止まらない。
「……いつから貼ってありますか」
「お問い合わせには対応しておりません」
「誰が決めたんですか」
「お問い合わせには対応しておりません」
「この店が何なのか、あなたは」
「次のお客様どうぞ」
秩序ちゃん。
動かない。
店員も。
笑顔のまま。
渾沌ちゃんが袖を引いた。
「秩序ちゃん」
「まだ」
「後ろ並んでる」
見る。
三人。
「…………」
秩序ちゃんは退いた。
「すみません」
「いえ」
次の客。
「てりやきセット」
「お飲み物はいかがなさいますか?」
「アイスコーヒーで」
完全に戻った。
ただの店員に。
◇
「知ってるね」
渾沌ちゃんが言った。
店の外。
「断定はできません」
「じゃあ、知らないのにあんな顔した?」
「顔だけなら証拠になりません」
「秩序ちゃんって面倒くさい」
「必要な手順です」
そのとき。
店の裏口が開いた。
さっきの男性店員。
ゴミ袋を二つ持っている。
二人に気づく。
止まる。
「…………」
「…………」
店員は何も言わず、ゴミ置き場へ。
袋を入れる。
戻る。
秩序ちゃんが呼び止めた。
「一つだけ」
店員は振り返らない。
「ここが最初のぱんでむなんですか」
沈黙。
五秒。
十秒。
「……質問が違います」
秩序ちゃんの目が細くなる。
店員はドアノブに手をかけた。
「では、何を聞けば?」
「知りません」
「あなたは知っているでしょう」
「知りません」
「先ほどと答えが違います」
「勤務中なので」
ドアを開ける。
「待ってください」
「あと」
店員が初めて振り返った。
「その服で厨房には入らないでくださいね」
「……なぜですか」
「衛生規則です」
閉まった。
「…………」
「…………」
渾沌ちゃんが吹き出した。
「笑うところではありません」
「だって」
「戻ります」
「どうやって?」
秩序ちゃんは止まった。
正面。
ぱんでむ。
さっき入ってきた扉。
しかし。
どこにも継ぎ目はない。
店内へ戻っても。
普通の客席。
普通の厨房。
普通のトイレ。
普通の非常口。
「……ありません」
「うん」
「入口が」
「あるよ」
「私たちのです」
「ないね」
渾沌ちゃんは残っていたポテトを一本食べた。
「閉店まで待つ?」
「それで何が」
「普通のぱんでむが閉店したらどうなるか見たい」
秩序ちゃんは言い返しかけて。
やめた。
時計。
21:47
閉店まで十三分。
◇
22時。
最後の客が出る。
入口の札が裏返る。
『CLOSED』
店員たちは淡々と片づけた。
テーブルを拭く。
床を掃く。
フライヤーを落とす。
レジを締める。
看板の照明が消える。
何も起こらない。
「帰ろっか」
女性店員が言った。
「お疲れさまでした」
「お疲れー」
一人。
二人。
三人。
従業員が裏口から帰っていく。
最後は、あの男性だった。
鍵を閉める。
シャッターを下ろす。
秩序ちゃんたちの横を通る。
「お疲れさまです」
渾沌ちゃんが言った。
「お疲れさまです」
普通に返された。
男は歩いていく。
十歩。
秩序ちゃんが声を上げる。
「明日も営業しますか」
「しますよ」
振り返らない。
「十時からです」
遠ざかる。
秩序ちゃんは閉じた店を見る。
「……本当に終わりですか」
「何が?」
「今日の営業です」
「閉まったじゃん」
「ぱんでむが」
「閉まったね」
「閉店したんですよ」
「だから?」
秩序ちゃんは答えなかった。
自分たちのぱんでむに。
閉店という状態があっただろうか。
少なくとも。
思い出せない。
その瞬間。
シャッターの奥。
カチ。
小さな音。
自動ドアの鍵が。
内側から開いた。
「…………」
誰もいないはずの店内。
照明が一列だけ点いた。
厨房ではない。
客席でもない。
店の最奥。
さっきまで。
ただの壁だった場所。
細い通路がある。
白い床。
白い壁。
その先に。
別の自動ドア。
頭上の表示。
『従業員専用』
その下。
小さな液晶。
文字が切り替わった。
『本日の通常営業は終了しました』
一拍。
『境界営業を開始します』
駐車場の向こうから音がした。
車ではない。
夜空が。
縦に開いた。
そこから巨大な指が一本、道路へ降りた。
反対側ではマンホールが浮き上がり、中から三人の王冠を被った老人が出てくる。
公園の滑り台がゆっくり起き上がった。
電柱の影から、影だけの客が列を作る。
空には。
さっきまでなかった月が。
七つ。
「…………」
渾沌ちゃんが笑った。
「秩序ちゃん」
「はい」
「こっちが本番みたい」
自動ドアが開く。
昼間と同じ音声が流れた。
『いらっしゃいませ』
ただし。
今度は。
街じゅうから返事がした。




