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第50話「動かせるからって、今動かしていいとは限りません」


 土曜日。


 午前六時三分。


 金属板は、なかった。


「外れた?」


 渾沌ちゃんがレールを見る。


 二本。


 昨日付けたまま。


 白い四角も薄く残っている。


 でも板だけがない。


「持っていかれた可能性があります」


「誰が?」


「分かりません」


「戻ってくる?」


「分かりません」


「じゃ今日は渡れないね」


 きい。


 向こうから。


 見えない車輪が来た。


「ごめん、ないよ」


 車輪は止まらなかった。


 レールの端。


 何もない段差へ。


 ごと。


 音が消えた。


「え」


 渾沌ちゃんが駆け寄る。


 向こう側にも。


 板はなかった。


 ただ。


 泥の二本線だけが、空中を横切っていた。


 ◇


「通れた?」


 こん。


「板なくても?」


 こん。


 秩序ちゃんは段差へ手を伸ばした。


「触らないで」


 渾沌ちゃんが止める。


「なぜですか」


「今、使ってるかも」


 二人とも黙った。


 泥の線。


 ゆっくり。


 向こうへ伸びている。


 見えない車輪は。


 まだ渡り終わっていなかった。


「……そうですね」


 秩序ちゃんは手を戻した。


 ◇


 六時九分。


 泥の線が途切れた。


 こん。


 向こうで一回。


「終わった?」


 こん。


 秩序ちゃんがレールを確認する。


 異常なし。


 段差。


 三センチ。


 昨日と同じ。


「板はどこ?」


 渾沌ちゃん。


 返事なし。


「使った人が持ってった?」


 沈黙。


「戻してほしい?」


 こん。


「じゃ探そ」


「待ってください」


「なんで?」


 秩序ちゃんは泥の線を見る。


「板がないのに、通れました」


「うん」


「こちらから見えないだけかもしれません」


「あっちにはある?」


「決めません」


「またそれ」


「必要なところだけ確認します」


 ◇


 午前七時。


 配送員が来た。


「板ないですね」


「はい」


「今日、ここ使えます?」


「今は判断できません」


「荷物あるんですけど」


 台車。


 水の箱。


 三段。


 渾沌ちゃんが段差を見る。


「押してみる?」


「空で確認します」


 荷物を下ろす。


 空の台車。


 段差へ。


 ごつ。


 止まった。


「こっちは普通」


「そうですね」


 配送員が腕を組む。


「じゃ、別ルート行きます」


「何分かかりますか」


「十二分くらい」


 秩序ちゃんが時計を見る。


「待てますか」


「何分?」


「分かりません」


「それは待てないですね」


「そうですね」


 配送員は荷物を積み直した。


「じゃ、またあとで」


 行った。


 渾沌ちゃんが見る。


「止めなかったね」


「待たせる理由がありません」


「直さないの?」


「今、何を直すのか分かりません」


 ◇


 七時三十八分。


 老人が来た。


 杖。


 段差の前で止まる。


「あれ、なくなった?」


「見えなくなっています」


「見えなく?」


「はい」


「あるの?」


「分かりません」


 老人は笑った。


「難しい道だねえ」


「別の道をご案内します」


「遠い?」


「七分です」


「じゃそっちでいいよ」


 老人が向きを変える。


 その時。


 きい。


 見えない車輪が戻ってきた。


 段差を越える。


 泥の線が、空中をこちらへ伸びる。


 老人が止まった。


「何の音?」


「利用者です」


「どこ?」


「見えません」


「そう」


 老人は少し考えた。


「じゃ、先どうぞ」


 誰も見えない場所へ言った。


 こん。


 壁が鳴った。


 老人が笑う。


「返事したね」


 ◇


 八時。


 見えない車輪が渡り終わる。


 泥の線が切れた。


 老人が段差へ杖を置く。


「私は?」


 こん。


 一回。


「行っていいって?」


「断定できません」


「でも、待ってくれたんじゃない?」


 秩序ちゃんは答えなかった。


 老人が一歩出す。


「待ってください」


 止まる。


「こちら側には板がありません」


「さっきの人は通ったよ」


「さっきの利用者と、あなたが同じ条件とは限りません」


「じゃあ、やめとく」


 老人は素直に戻った。


「慎重だねえ」


「すみません」


「謝ること?」


「通せませんでした」


「落とされるよりいいよ」


 ◇


 午前九時二十一分。


 パン屋の店員が来た。


「板、店にありますよ」


「え?」


 渾沌ちゃん。


「朝から店の裏に」


 二人で行く。


 あった。


 金属板。


 黄色い布。


 斜めの取っ手。


 裏口と倉庫の間。


 床に置かれている。


「持ってきた?」


「私は触ってません」


 店員。


「じゃ誰?」


「朝来たらありました」


 秩序ちゃんが板を見る。


 裏面。


 ローラー。


 泥。


 新しい傷。


「戻しますか」


 店員が聞く。


 秩序ちゃんは答えかけた。


 止まる。


「まだ戻しません」


「なんで?」


 渾沌ちゃん。


「今、向こうで使われている可能性があります」


「板ここにあるよ?」


「こちらでは」


 ◇


 午前十時。


 金属板の横で待った。


 パン屋の裏。


 パンの匂い。


 オーブンの熱。


 店員が何度も横を通る。


「邪魔です?」


「ちょっと」


「動かしていいですか」


「今は待ってください」


「何時まで?」


 秩序ちゃんは時計を見る。


 答えられない。


 渾沌ちゃんが言った。


「五分」


「え?」


「五分待って。何もなかったら動かそ」


 秩序ちゃんを見る。


「だめ?」


「根拠は?」


「ずっと待つのは店員さん困るから」


「五分の根拠です」


「今決めた」


「それは根拠ではありません」


「じゃ三分?」


「短くすればよい問題ではありません」


 店員が笑った。


「十分なら平気ですよ」


 二人が見る。


「次の生地、十分後なんで」


 秩序ちゃんが頷く。


「では十分待ちます」


「急に決まった」


「当事者の都合です」


 ◇


 十分。


 何も起きない。


「動かします」


 三人で板を持つ。


 その瞬間。


 きい。


 遠くで車輪の音。


「待って!」


 渾沌ちゃん。


 板を下ろす。


 きい。


 近づく。


 でも。


 音はパン屋の裏口からではない。


 PANDEMONIUM側。


 二人が走る。


 ◇


 段差の前。


 泥の線が伸びている。


 途中で。


 止まっていた。


「まだ渡ってる」


 渾沌ちゃんが息を整える。


 こん。


「今、板動かしたら困る?」


 こん。


「でも板はパン屋にあるよ」


 沈黙。


 秩序ちゃんはレールへ手を置かなかった。


「終わったら、二回鳴らしてください」


 こん。


 一回。


「一回じゃなくて二回!」


 こん。


 こん。


「できるじゃん」


「今のは了解ではなく、試した可能性があります」


「細かい!」


 ◇


 十一時七分。


 こん。


 こん。


 二回。


 泥の線が途切れた。


「終わった?」


 こん。


「今度は一回」


 秩序ちゃんが立つ。


「板を動かします」


 返事はない。


 パン屋へ戻る。


 三人で板を持つ。


 今度は音がしない。


 レールへ戻す。


 ごろ。


 中央。


 ◇


 十一時二十分。


 配送員が戻ってきた。


「あ、直った」


「戻りました」


「朝の十二分、損したなあ」


「すみません」


「まあ仕事なんで」


 台車を押す。


 板へ乗る。


 その瞬間。


 渾沌ちゃんがレールへ手を伸ばした。


「動かしてみよ」


「やめてください」


 秩序ちゃんが腕を掴んだ。


「冗談!」


「今は冗談でも触らないでください」


 配送員が笑う。


「乗ってるから?」


「はい」


「昨日は自由に動かしていいって」


「使っている人がいない時です」


 渾沌ちゃんが言う。


「昨日それ言ってないよ」


「はい」


「じゃ、増えた?」


「増えました」


 ◇


 秩序ちゃんは札を持ってきた。


 書きかける。


《使用中は》


 止まる。


「書くの?」


 渾沌ちゃん。


「必要だと思いました」


「でも、見えない人は読める?」


 秩序ちゃんが止まる。


「分かりません」


「老人さん、札読まなくても待ったよ」


「はい」


「音聞いて」


「はい」


「じゃ、札だけじゃ足りないね」


 秩序ちゃんは札を置いた。


 書かなかった。


 代わりに。


 レールの端へ、小さな鈴を付けた。


「何それ」


「板が動くと鳴ります」


 ごろ。


 ちりん。


「かわいい」


「警告です」


「かわいい警告」


「必要なら変えます」


 ◇


 午後。


 配送員が板へ乗る。


 別の誰かが動かそうとする。


 ちりん。


 手が止まる。


 誰の手かは見えなかった。


 老人が渡る。


 ちりん。


 向こうで。


 こん。


 板は動かない。


 パン屋の台車。


 渡り終わる。


 少しして。


 ごろ。


 誰かが位置を変える。


 ちりん。


 今度は止めない。


 ◇


 午後四時。


 鈴が二つになっていた。


「増えた」


 渾沌ちゃんが笑う。


 最初の鈴。


 その反対側。


 小さな青い鈴。


「誰か付けた?」


「そのようです」


「向こうにも聞こえるように?」


「可能性はあります」


 渾沌ちゃんが板を少し動かす。


 ちりん。


 少し遅れて。


 ちり。


 青い鈴が鳴った。


「返事みたい」


「音です」


「つまんない」


「正確です」


 ◇


 閉店前。


 金属板は左寄り。


 取っ手は倒れている。


 白い四角は、ほとんど消えた。


 鈴が二つ。


 札はない。


 渾沌ちゃんが聞いた。


「今日、誰が決めたの?」


「何をですか」


「板の場所」


「最後に使った人です」


「取っ手は?」


「最後に必要だった人です」


「鈴は?」


 秩序ちゃんは青い鈴を見る。


「少なくとも、一つは私たちではありません」


「じゃ、ルールは?」


 秩序ちゃんは答えなかった。


 照明を一つ落とす。


 その時。


 きい。


 見えない車輪。


 金属板へ乗る。


 反対側で。


 誰かが板に触れた。


 ちりん。


 手が止まる。


 車輪が渡る。


 きい。


 ごと。


 向こうへ消える。


 こん。


 こん。


 二回。


 少しして。


 ごろ。


 板が動いた。


 ちり。


 青い鈴が鳴る。


 渾沌ちゃんが小声で言った。


「私たち、何も言ってないね」


「はい」


「でも待った」


「はい」


 秩序ちゃんは電気を消した。


「今日は、それで十分です」

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