第49話「戻せるようにするのは、戻すためだけじゃありません」
金曜日。
午前六時十一分。
取っ手が、二つになっていた。
「増えた」
渾沌ちゃんが片方を持つ。
昨日外した銀色の取っ手。
その隣に。
短い木の棒。
黄色い布が巻かれている。
金属板の端へ、針金で固定されていた。
「戻した?」
「同じものではありません」
秩序ちゃんがしゃがむ。
木の棒は低い。
床から三十二センチ。
昨日の取っ手は五十八センチだった。
「誰用?」
「分かりません」
渾沌ちゃんが笑う。
「聞けるかも」
きい。
見えない車輪が来た。
◇
「これ?」
渾沌ちゃんが木の棒を指す。
こん。
「昨日の取っ手、外したから作り直した?」
こん。
「高さが違うのは?」
沈黙。
秩序ちゃんが言う。
「必要な高さですか」
こん。
「では、残します」
渾沌ちゃんが金属板を見る。
「パン屋さん通れる?」
沈黙。
「試そ」
◇
午前七時二分。
配送員の台車。
通れた。
七時四十分。
老人。
木の棒を握った。
「あ、これいいね」
「あなたが付けた?」
「違うよ」
「使うんだ」
「杖を上げなくて済むからね」
老人は棒を支えにして板を渡った。
八時五十三分。
パン屋の店員。
粉袋を積んだ大きな台車。
曲がる。
がつ。
木の棒に当たった。
「やっぱり」
渾沌ちゃんが言う。
「通れませんね」
秩序ちゃん。
店員が台車を戻す。
「外していいですか」
昨日と同じ質問。
秩序ちゃんは木の棒を見る。
見えない車輪。
老人。
パン屋。
「今日は、すぐには外しません」
「じゃ、どうします?」
「待ってください」
◇
秩序ちゃんは倉庫から蝶番を持ってきた。
二つ。
渾沌ちゃんが覗く。
「折るの?」
「倒せるようにします」
木の棒の根元。
針金を外す。
蝶番を付ける。
立てる。
老人と見えない車輪が使える高さ。
倒す。
板とほぼ平らになる。
「おお」
渾沌ちゃんが立てる。
ぱたん。
倒す。
立てる。
ぱたん。
「楽しい」
「遊ばないでください」
「何回まで?」
「壊れるまで試すつもりですか」
「違うよ。壊れないか試してる」
秩序ちゃんが止まった。
「……では、二十回お願いします」
「急に仕事になった」
◇
二十回。
緩みなし。
パン屋の台車。
棒を倒す。
通る。
配送員。
立てたまま。
通る。
老人。
握る。
通る。
見えない車輪。
きい。
棒の前で止まった。
「どう?」
こん。
「倒せるの、平気?」
こん。
秩序ちゃんが札を置く。
《使う時は立てられます》
《邪魔な時は倒せます》
その下。
《戻す必要はありません》
渾沌ちゃんが読む。
「戻さなくていいの?」
「はい」
「次の人が困らない?」
「必要なら次の人が動かせます」
「じゃ、正しい向きないんだ」
「使用中の向きがあります」
「それ、正しい向きと何が違うの?」
秩序ちゃんは少し考えた。
「次の人に残さなくてよいことです」
◇
午前十一時。
棒は立っていた。
十一時十分。
倒れていた。
十一時二十二分。
立っていた。
十二時。
斜めだった。
「斜め?」
渾沌ちゃんが触る。
蝶番の横に、小さな穴が増えている。
三段階。
立つ。
斜め。
倒れる。
「誰か増やした」
「そのようです」
「勝手に?」
「変更可能範囲です」
「便利?」
「確認します」
午後十二時十四分。
老人が来た。
「あ、ちょうどいい」
斜めの棒を握る。
「さっきより?」
「立ってると高かったから」
「言ってよ!」
「使えたからねえ」
昨日も聞いた答えだった。
◇
午後一時。
問題は別のところで起きた。
金属板そのものが、十センチ左へ動いていた。
「誰!?」
渾沌ちゃんが叫ぶ。
白いチョークの線の内側。
変更してよい範囲。
だから、違反ではない。
でも。
配送員の台車が壁に当たる。
「これだと曲がれないです」
パン屋は通れる。
老人も通れる。
見えない車輪は。
まだ来ない。
「戻す?」
渾沌ちゃん。
秩序ちゃんは昨日ならそうした。
今困っている人のために。
けれど。
板の右端を見る。
泥の跡。
太い車輪が一度通った跡。
左へ動かした誰かにも、理由があった。
「元の位置へは戻しません」
「じゃ配送員さんは?」
「今、通れる位置へ動かします」
「それ戻すのと同じじゃない?」
「違います」
秩序ちゃんはチョークを取った。
板の現在位置を囲む。
日付。
時刻。
《13:08》
それから。
板を右へ六センチ動かした。
配送員が通る。
ごと。
「通れました」
「はい」
新しい位置も囲む。
《13:12》
渾沌ちゃんが首を傾げる。
「何してるの?」
「消さずに動かしています」
◇
午後二時。
床に白い四角が増えた。
一つ。
二つ。
三つ。
板はそのたび少し動いた。
誰が動かしたかは書かない。
理由も、分からなければ書かない。
ただ。
どこにあったかだけ残す。
「足跡みたい」
渾沌ちゃんが言う。
「板の?」
「はい」
「板、歩くんだ」
「比喩です」
「秩序ちゃんが比喩使った!」
「今のはあなたです」
◇
午後三時十七分。
見えない車輪が来た。
きい。
止まる。
今の板の位置では渡らない。
「だめ?」
こん。
渾沌ちゃんが最初の白い四角を指す。
「ここ?」
こん。
「でもここだと配送員さんが困る」
沈黙。
「じゃ、毎回動かす?」
こん。
「重いよ?」
沈黙。
秩序ちゃんは板の固定ボルトを見る。
昨日まで六本。
今日も六本。
毎回外すには時間がかかる。
「固定方法を変えます」
◇
夕方。
六本のボルトを外した。
代わりに。
床へ細いレールを二本。
金属板の裏へ、小さなローラー。
押す。
ごろ。
二十センチ動く。
戻す。
ごろ。
「軽っ」
渾沌ちゃんが片手で動かす。
「端までです」
「分かってる」
ごろ。
「遊ばないでください」
「確認!」
◇
配送員。
右へ六センチ。
通る。
パン屋。
中央。
通る。
老人。
棒を斜めに。
通る。
見えない車輪。
左へ十センチ。
きい。
渡る。
誰かが使うたび。
板の位置が変わった。
誰も。
前の位置へ戻さなかった。
◇
閉店前。
白い四角が七つ。
途中から、増えていない。
「もう書かないの?」
「はい」
「なんで?」
「動かすことが通常になったからです」
「最初は残したのに」
「戻れるようにするためではありません」
秩序ちゃんは最初の四角を指す。
「動かしてよいと分かるまで、残しました」
「前の場所を?」
「前にも場所があったことを、です」
渾沌ちゃんが白い線を踏む。
少し消える。
「消していい?」
「自然に消えるなら」
「掃除は?」
「明日はしません」
「明後日は?」
「明後日の私に聞いてください」
「それ好きだね」
「便利に使わないでください」
◇
照明を落とす前。
金属板は中央にあった。
取っ手は斜め。
黄色い布。
レール。
薄い白い四角。
黒い六角ナットは、線の内側に残っている。
渾沌ちゃんが最後に板を踏んだ。
「明日の朝、どこにあると思う?」
「分かりません」
「真ん中じゃない?」
「なぜですか」
「みんな使ったあとだから」
「根拠になっていません」
「じゃ、賭ける?」
「賭けません」
電気を消した。
暗くなる。
その向こうで。
ごろ。
板が動く音がした。
渾沌ちゃんが振り返る。
「もう変わった」
秩序ちゃんは電気を点けなかった。
「明日、使う人が決めます」




