第47話「知らないままでも、通れるようにしてください」
水曜日。
午前六時十二分。
階段下の机は、空だった。
「なくなった」
紙袋も。鉛筆も。昨日の《まだ、書きたくない》もない。
秩序ちゃんは机の脚を見る。
泥。
乾いていない。
そこから細い二本線が伸びていた。
「足跡じゃないね」
「車輪です」
二人は線を追った。
厨房の横。
搬入口。
昨日、配送台車が止まった三センチの段差。
線はそこで切れていた。
向こうから。
きい。
車輪の音がした。
姿はない。
◇
「いる?」
渾沌ちゃんが聞く。
返事なし。
「通りたい?」
こん。
壁が一回鳴った。
秩序ちゃんが顔を上げる。
「はい、ですか」
こん。
「昨日、紙を置きましたか」
沈黙。
「秩序ちゃん」
「何ですか」
「それ、今いる?」
向こうの車輪が少し遠ざかる。
きい。
「待って」
止まった。
渾沌ちゃんが壁へ言う。
「名前いらない。どこから来たかも聞かない」
こん。
「通りたい?」
こん。
「じゃ、通ろ」
◇
渾沌ちゃんが薄い板を持ってきた。
段差へ渡す。
「どうぞ」
きい。
見えない車輪が板へ乗る。
ぎし。
板が大きくたわんだ。
「戻ってください」
秩序ちゃん。
車輪が戻る。
「重い?」
返事なし。
「重量が分からないと危険です」
「でも名前はいらないんでしょ」
「名前と重量は別です」
「何キロ?」
こん。
こん。
二回。
「二?」
こん。
「二十?」
沈黙。
「二百?」
こん。
「二百キロ?」
こん。
秩序ちゃんが頷いた。
「十分です」
「名前より先に重さ知った」
「必要な情報だからです」
◇
金属板を持ってきた。
固定。
滑り止め。
渾沌ちゃんが三回走って渡る。
「平気!」
「あなたは二百キロありません」
「秩序ちゃんも乗る?」
「足りません」
「冷蔵庫持ってくる?」
「やめてください」
昨日の配送員から台車を借りた。
水。
小麦粉。
油。
二百二十キロ積む。
押す。
金属板は動かなかった。
「合格?」
こん。
◇
午前七時四分。
見えない車輪が渡った。
きい。
ごと。
低い位置で風が動く。
渾沌ちゃんのエプロンが揺れた。
「おお」
泥の二本線だけが伸びる。
階段下を通り。
壁の前で消えた。
「行った」
「はい」
「誰?」
「分かりません」
「何運んでた?」
「分かりません」
「どこ行った?」
「分かりません」
渾沌ちゃんが笑う。
「全然分かんないね」
「二百キロ程度であることは分かりました」
「そこだけ!」
◇
午前九時。
若い配送員が来た。
「これ、何ですか」
「段差対策です」
「直したんですね」
「仮設です」
女が台車を押す。
ごと。
「あ、楽」
戻ってくる。
「これ、残してもらえます?」
「あなたも使うの?」
「平日は」
渾沌ちゃんが笑った。
「増えた」
「何がです?」
「使う人」
「通りやすいなら、そりゃ使いますよ」
◇
昼。
パン屋の店員も使った。
粉袋を載せた台車。
「助かります」
「前からここ通ってた?」
「たまに」
「知らなかった」
「聞かれてませんから」
秩序ちゃんが止まる。
渾沌ちゃんが先に笑った。
「まただ」
「はい」
「知らない人、いっぱいいる」
「そうですね」
◇
午後二時。
金属板の横に、小さな札を立てた。
《耐荷重 二百二十キロまで確認》
それだけ。
「名前は?」
「書きません」
「通った時間」
「不要です」
「どこから来たか」
「不要です」
「二回ノックで二百」
「不要です」
「面白かったのに」
「安全に必要な情報ではありません」
「必要になったら?」
「その時に聞きます」
「聞ける?」
秩序ちゃんは答えなかった。
聞けない相手だった。
それでも。
通れる道は作れた。
◇
午後四時。
金属板の端に、小さな六角ナットが二つ置いてあった。
一つは白。
一つは黒。
「朝は白だけだったよね」
「はい」
「ありがと、かな」
「断定しません」
「じゃ何?」
「ナットが二つあります」
「つまんない」
「正確です」
「取っとく?」
秩序ちゃんは少し考えた。
「ここに置きます」
「記録しないの?」
「しません」
「なくなるよ?」
「はい」
二つとも、板の端へ戻した。
◇
閉店前。
一つになっていた。
白がない。
黒だけ。
「持ってった」
「そうかもしれません」
「交換?」
「そうかもしれません」
「また来る?」
「分かりません」
渾沌ちゃんが金属板を踏んだ。
こん。
向こうからは返らない。
「じゃ、何なら分かるの」
秩序ちゃんは札を見る。
《耐荷重 二百二十キロまで確認》
段差のない搬入口。
今日だけで、三台の台車がそこを通った。
「明日、ここを通る人が一人増えても大丈夫です」
「誰か分かんなくても?」
「はい」
照明を消す。
金属板は残した。
黒いナットも。
名前は。
最後まで、増えなかった。




