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第46話「消したいことまで、なかったことにしないでください」


 火曜日。


 午前六時五十八分。


 階段下の机が、半分になっていた。


「ちっちゃ」


 渾沌ちゃんがしゃがむ。


 昨日は紙袋を二つ並べても余った。


 今日は、一つでいっぱい。


《晴れの日》


 だけ。


「雨の日がありません」


「森さん持ってった?」


「確認します」


 机の下。


 なし。


 階段の裏。


 なし。


 パン屋。


 まだ閉まっている。


 傘立てにもない。


「消えた?」


「そう見えます」


 渾沌ちゃんが《晴れの日》を開く。


 中に一枚。


《雨の日の記録は、いりません》


「森さんの字?」


「昨日の訂正と似ています」


 下に、もう一行。


《あの人には見せないで》


 ◇


 七時四十分。


 森さんが来た。


 青いテープの傘。


 今日は畳んだまま。


「これを書きましたか」


 秩序ちゃんが紙を見せる。


「書いたわよ」


「雨の日の記録を消したのも?」


「私じゃないわ」


「では、誰が」


「知らない」


 森さんは階段下を見る。


「でも、なくなってよかった」


「なぜですか」


「もう雨の日だけの人じゃないでしょう」


 秩序ちゃんが黙る。


 森さんは晴れた通路を指した。


「道は残った。晴れててもパン屋へ行ける。なら、雨の日に何を買ったとか、何分かかったとか、もういらない」


「記録が嫌?」


 渾沌ちゃんが聞く。


「嫌というより」


 森さんは少し考えた。


「古いのよ」


 ◇


 午前八時十二分。


 男が来た。


 昨日の配送員。


 帽子なし。


 今日は急いでいない。


「昨日の紙、あります?」


「どれ?」


「俺のです」


《帽子なし 配送 16:03 急いでた》


「晴れの日の袋にあります」


 秩序ちゃんが渡す。


 男は読む。


「これ、残しといてください」


「本人が希望するなら」


「俺じゃなくて」


「誰のためですか」


「次の人」


 男はパン屋の横を指した。


 細い搬入口。


「昨日、十六時にここ通ったら、台車が引っかかったんです」


「記録にはありません」


「だから急いでた」


 男は紙を裏返す。


 鉛筆を借りる。


《16:03 搬入口の段差で台車が止まった》


《荷物一箱落とした》


「これなら、次の人が気をつけるでしょう」


 渾沌ちゃんが覗く。


「昨日、一番大事って言ってたの、急いでたことじゃなかった?」


「昨日はね」


 男が笑った。


「今は、こっち」


 秩序ちゃんが紙を見る。


 本人の現在。


 他人の明日。


 同じ紙に乗っていた。


 ◇


 午前九時。


 黄色い帽子の女の子が来た。


「雨の日のなくなった?」


「はい」


「よかった」


「あなたも消したかった?」


「ううん」


「では、なぜ」


「森さん、嫌そうだったから」


「でも」


 女の子は階段下を見る。


「私のは残して」


「どれを?」


「三十七分のやつ」


 秩序ちゃんが止まった。


「あなたは、もう三十七分かかりません」


「知ってる」


「なら、なぜ必要ですか」


「お母さんに見せるから」


「何のために?」


「前、遅いって怒られた」


 女の子は靴の先で床を擦った。


「寄り道したって思われたから」


 渾沌ちゃんが笑うのをやめた。


「三十七分かかったって、紙に書いてあったでしょ」


「ありました」


「それ、消さないで」


 ◇


 十時。


 机の上に三枚。


《残したい》


《消したい》


《まだ分からない》


 渾沌ちゃんが書いた。


「また分けるの?」


「分類ではありません」


 秩序ちゃんが答える。


「希望を聞くためです」


「昨日、整理しないって言ったじゃん」


「今日は、です」


「あ」


「昨日の私に拘束されません」


「便利だね、それ」


「便利に使わないでください」


 ◇


 森さんの紙を並べた。


《雨 パン一斤 ロール六》


《昨日は雨だった》


《買ったのも昨日》


 秩序ちゃんが聞く。


「全部消したいですか」


「そうね」


「理由も?」


「理由?」


「雨の日だけ近道があったことも」


 森さんは少し考える。


「それは、残してもいい」


「買ったパンは?」


「いらない」


「十五分歩くことは?」


「今は違う」


「以前は?」


「以前はそうだった」


「残しますか」


 森さんは眉を寄せた。


「細かいわねえ」


「すみません」


「謝るくらいなら聞かないで」


「では聞きます」


「そこは聞くのね」


 森さんは笑った。


 紙を三枚に分ける。


「これはいらない」


 パン。


「これは残す」


 雨の日だけ道があったこと。


「これは」


 十五分。


 少し迷って。


「残して」


「今は違うのに?」


 渾沌ちゃん。


「違うからよ」


 ◇


 昼。


 雨の日の紙袋が戻ってきた。


 階段の一段目。


 ぺしゃんこ。


 中身は空。


「戻った」


 渾沌ちゃんが広げる。


「でも空ですね」


「入れ直す?」


「勝手には入れません」


 秩序ちゃんは森さんを見る。


「残すと選んだものを、こちらへ入れてよいですか」


「いいわよ」


 二枚。


《以前、雨の日だけ近道があった》


《以前、駅前まで十五分かかった》


 袋へ入れる。


 紙袋が少し膨らんだ。


 何も増えない。


「今日は自動で書かないね」


「そうですね」


「拗ねた?」


「記録に感情があるとは判断しません」


「私はあると思う」


「根拠は?」


「ぺしゃんこだった」


「物理状態です」


「ほら、拗ねてる」


「違います」


 ◇


 午後一時。


 配送員が戻ってきた。


 若い女を連れている。


「次の人」


「今日からこのルート入ります」


 女は紙を読む。


《16:03 搬入口の段差で台車が止まった》


《荷物一箱落とした》


「ここですか」


「そう」


「直ってない?」


「たぶん」


「たぶん?」


 秩序ちゃんが立った。


「確認します」


 四人で搬入口へ行く。


 段差。


 三センチ。


 台車の小さな前輪なら、斜めに当たる。


 渾沌ちゃんが空の台車を押した。


 がつん。


「止まった」


「昨日と同じですか」


 男が見る。


「同じ」


 若い女が台車の角度を変える。


 まっすぐ。


 押す。


 ごと。


 越えた。


「正面なら行けますね」


「昨日、俺斜めから入ったんだ」


「急いでたから?」


「そう」


 渾沌ちゃんが紙を見る。


「急いでた、いるじゃん」


 男が笑った。


「いるな」


 ◇


 階段下へ戻る。


 男は昨日の紙を取った。


《急いでた》


 消さない。


 横に書く。


《斜めに入った》


 若い女が下へ書く。


《正面からなら通れた》


「これで次の人に分かる」


 男が言う。


「次の人、私だけど」


「その次」


「気が早いですね」


「昨日は自分で終わると思ってたから」


 秩序ちゃんが紙を見る。


「記録する人が、使う人とは限らない」


「うん」


 渾沌ちゃんが頷く。


「でも、使う人が書き足せる方がいいね」


「はい」


 ◇


 午後三時。


 女の子のお母さんが来た。


 女の子の後ろから。


 少し気まずそうに。


「これです」


 女の子が紙を渡す。


《以前、この道がない日は三十七分かかった》


 母親は読む。


「本当に?」


「ほんと」


「寄り道じゃなくて?」


「違う」


 母親が秩序ちゃんを見る。


「三十七分だったんですか」


 秩序ちゃんは答えかけた。


 止まる。


「私は、その日の全行程を見ていません」


 女の子を見る。


「本人は、三十七分かかったと話しています」


「紙にも書いてあるよ」


 女の子。


 母親はもう一度読む。


「……そっか」


 紙を返す。


「ごめん」


「何が?」


「怒ったこと」


「いいよ」


 女の子はすぐ答えた。


 それから。


「でも次は先に聞いて」


 母親が頷いた。


「うん」


 女の子は紙を袋へ戻さなかった。


 半分に折る。


 ポケットへ入れた。


 ◇


「持って帰った」


 渾沌ちゃんが言った。


「本人の記録ですから」


「なくなるよ?」


「こちらからは」


「いいの?」


 秩序ちゃんは女の子の背中を見る。


「はい」


「昨日は残すって言ってたよ」


「残す場所を、私たちが決めるとは言っていません」


「また便利なやつ」


「今回は本当に違います」


 ◇


 夕方。


 三枚の札を外した。


《残したい》


《消したい》


《まだ分からない》


「もういらない?」


「質問としては使えます」


「じゃ残す?」


「はい」


 秩序ちゃんは三枚を重ねる。


 引き出しには入れなかった。


 机の端。


 誰でも取れる場所へ置く。


 その横に、渾沌ちゃんが白紙を置いた。


「何用?」


「どれでもない人用」


「何と書きますか」


「書かない」


 秩序ちゃんが見る。


「昨日、秩序ちゃん言ったじゃん」


「何をですか」


「私たちが必要だと思わなかった項目もあるって」


 秩序ちゃんは白紙を見る。


「……そうですね」


 何も書かなかった。


 ◇


 閉店前。


 雨の日の袋に三枚。


 晴れの日の袋に九枚。


 机の上に白紙。


 渾沌ちゃんが数える。


「減ったね」


「はい」


「でも、増えた?」


「何がですか」


「持ってる人」


 森さん。


 配送員。


 新しい配送員。


 女の子。


 パン屋。


 それぞれが、違う紙を知っている。


「そうですね」


「前はここに全部あったのに」


「はい」


「なくした感じする?」


 秩序ちゃんは少し考えた。


「いいえ」


 階段下の小さな机を見る。


「ここにないものが増えただけです」


 その時。


 白紙が一枚、なくなっていた。


「誰か持ってった?」


「分かりません」


 代わりに。


 机の角に、小さな紙が置いてあった。


 知らない字。


《まだ、書きたくない》


 渾沌ちゃんが読む。


「これ、残す?」


 秩序ちゃんは紙に触れなかった。


「残したいか、本人に聞けません」


「じゃあ?」


 しばらく。


「今夜は、ここに置きます」


「明日は?」


「明日もあるとは限りません」


 二人は電気を消した。


 暗い階段下に。


《まだ、書きたくない》


 だけが残った。

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