第45話「書いてあるほうを、私より先に信じないでください」
月曜日。
午前七時十二分。
灰色の扉に《三日後を目安に再確認》と残した、その三日後だった。朝の搬送経路は使えている。森さんと女の子の道も、昨日は晴れたまま残った。二人はどちらも固定ルールにはせず、今日の利用者を見てから続け方を決めることにした。
パン屋の前に、椅子が一脚あった。
赤い看板。
小さな傘立て。
その隣。
白い丸椅子。
「昨日あった?」
渾沌ちゃんが座った。
「先に聞いてから座ってください」
「座れるよ」
「そういう確認ではありません」
パン屋はまだ閉まっている。
シャッターの下に、紙袋が二つ。
《晴れの日》
《雨の日》
昨日と同じ。
ただし。
中身が増えていた。
「なんか入ってる」
渾沌ちゃんが《晴れの日》を開く。
紙。
細長い紙が七枚。
「レシート?」
「違います」
秩序ちゃんが一枚取る。
《黄色い帽子 土曜 九時ごろ》
次。
《森 雨 パン一斤 ロール六》
次。
《黄色い帽子 あんパン》
次。
《森 クリームパン》
渾沌ちゃんが覗く。
「覚えてる」
「昨日の内容ですね」
「パン屋さんが書いたのかな」
秩序ちゃんは紙の端を見る。
鉛筆。
全部、同じ字。
「開店を待ちます」
◇
七時三十分。
シャッターが上がった。
パン屋の店員が出てきた。
「あ」
秩序ちゃんが紙を見せる。
「これを書きましたか」
「何です?」
「昨日のお客さんの記録です」
店員は一枚ずつ見る。
「書いてないですね」
「誰か他の店員が?」
「今日は私一人です」
「昨日は?」
「私です」
渾沌ちゃんが紙袋を持ち上げた。
「じゃ、これ誰が書いたの?」
「さあ」
店員は少し考えた。
「でも、合ってますよ」
秩序ちゃんの指が止まった。
「何がですか」
「森さん。雨の日はそのくらい買います」
「前から知っていた?」
「ええ」
「黄色い子は?」
「土曜に来る子でしょう」
「知り合いじゃないって言ってたよ」
「森さんとはね」
店員はシャッターの鍵をポケットへ入れた。
「私は二人とも知ってます」
◇
午前九時。
女の子が来た。
黄色い帽子。
今日は傘なし。
「おはよう」
「おはようございます」
渾沌ちゃんが紙を一枚出した。
「ねえ、これ合ってる?」
《黄色い帽子 土曜 九時ごろ》
「うん」
「これも?」
《黄色い帽子 あんパン》
「昨日はね」
「じゃ正解」
秩序ちゃんが紙を戻しかける。
「待って」
女の子が言った。
「何ですか」
「毎回あんパンじゃないよ」
秩序ちゃんが止まる。
「昨日は、でしょう?」
「書いてないじゃん」
紙を見る。
《黄色い帽子 あんパン》
日付はない。
「……確かに」
「先週はクリームパン」
「その前は?」
「メロンパン」
渾沌ちゃんが笑う。
「いっぱい食べてる」
「一個ずつだよ!」
◇
十時十八分。
森さんが来た。
青いテープの傘を杖みたいに持っている。
晴れている。
「道、あったわよ」
「確認しました」
秩序ちゃんが紙を見せる。
《森 雨 パン一斤 ロール六》
「これは正しいですか」
「昨日はね」
同じ答えだった。
「今日は?」
「今日は食パンいらない」
「雨ではありませんしね」
「雨でも買わないわよ」
「え?」
「まだ家にあるから」
渾沌ちゃんが紙を見る。
「じゃあ、これ間違い?」
「昨日なら合ってるわよ」
「でも明日には間違う?」
「明日にならなくても、今もう違うわね」
森さんは笑った。
秩序ちゃんは笑わなかった。
◇
紙は増えた。
十一時。
《森 晴れ 食パン不要》
十一時五分。
《黄色い帽子 月曜 学校》
十一時十二分。
《黄色い帽子 今日は来店済》
「誰が書いてるの」
渾沌ちゃんが紙袋を逆さにした。
何も落ちない。
戻す。
一枚増えている。
《渾沌 袋を逆さにする》
「見られてる!」
「そうですね」
「怖くない?」
「少し」
「少しなんだ」
秩序ちゃんは紙を取る。
裏。
白紙。
匂い。
パンの匂い。
店内の伝票と同じ紙ではない。
「記録主体は不明です」
「パン屋じゃない?」
「決めません」
「じゃどうする?」
秩序ちゃんは紙を並べた。
昨日。
今日。
同じ人。
違う内容。
「まず、記録があることと、現在そうであることを分けます」
◇
午後一時二十分。
問題が起きた。
パン屋の店員が、森さんへ袋を渡した。
「いつものです」
「頼んでないわよ」
食パン一斤。
ロールパン六個。
「でも」
店員が紙を見る。
《森 雨 パン一斤 ロール六》
「これ、昨日のよ」
「そうでしたっけ」
「昨日、あなた見てたでしょう」
「見てましたけど」
店員は紙を見る。
森さんを見る。
もう一度、紙を見る。
「……すみません」
森さんは怒らなかった。
でも。
袋を受け取らなかった。
「紙に食べてもらいなさい」
店員が困った顔をした。
渾沌ちゃんが吹き出す。
秩序ちゃんは笑わなかった。
◇
「外します」
秩序ちゃんが言った。
紙袋を持つ。
《晴れの日》
《雨の日》
二つとも。
「捨てるの?」
「いいえ」
「じゃあ?」
「店員から見えない場所へ移します」
「なんで?」
「参照すると、過去の記録が現在の注文として扱われるからです」
店員が頭を下げた。
「すみません」
「あなた一人の問題ではありません」
秩序ちゃんは紙袋を抱える。
「書いてある内容が正しかったから、使ってよい情報だと思いました」
「それ、秩序ちゃんも?」
渾沌ちゃんが聞いた。
秩序ちゃんが止まる。
「……はい」
「女の子に言われるまで?」
「はい」
「そっか」
渾沌ちゃんはそれ以上言わなかった。
◇
午後二時。
女の子が学校から帰ってきた。
「まだいるの?」
「います」
「暇なの?」
「仕事です」
渾沌ちゃんが紙を一枚渡した。
《黄色い帽子 あんパン》
「直していいよ」
「何を?」
「好きに」
女の子は鉛筆を借りた。
《黄色い帽子 あんパン》
横に書く。
《きのう》
「これでいい」
紙を袋へ戻す。
数秒。
新しい紙が出た。
《黄色い帽子 あんパン きのう》
「お」
渾沌ちゃんが目を丸くする。
秩序ちゃんはすぐに別の紙を森さんへ渡した。
《森 雨 パン一斤 ロール六》
「直してもらえますか」
森さんは鉛筆を持つ。
《森 雨 パン一斤 ロール六》
雨に線を引いた。
横に。
《昨日は雨だった》
さらに。
《買ったのも昨日》
「これでいい?」
「はい」
「本当に?」
秩序ちゃんは少し考えた。
「いいえ」
「どっち」
「私が決めることではありません」
森さんが笑った。
「じゃあ、これでいいわ」
「はい」
◇
午後三時。
紙袋を戻した。
ただし。
パン屋の外ではない。
PANDEMONIUMの階段下。
低い机。
鉛筆を一本。
消しゴムを一つ。
紙袋を二つ。
その横に。
白紙を置いた。
渾沌ちゃんが書く。
《ちがったら、書いてね》
秩序ちゃんが見る。
「軽すぎませんか」
「じゃ秩序ちゃん書いて」
鉛筆を渡す。
秩序ちゃんは下に一行足した。
《書いてある内容より、本人の現在の申告を優先します》
「重い」
「必要です」
「二人とも置いとこ」
二枚を並べた。
◇
午後五時。
最初の訂正が入った。
知らない男だった。
作業着。
紙を一枚持っている。
《青い帽子 配送 十六時》
「これ、俺じゃないです」
「どこが?」
渾沌ちゃんが聞く。
「帽子」
「そこ?」
「今日は被ってない」
「配送は?」
「しました」
「十六時?」
「十六時三分」
秩序ちゃんが鉛筆を差し出す。
「訂正してください」
男は書いた。
《帽子なし》
《16:03》
少し考えて。
《急いでた》
渾沌ちゃんが覗く。
「それも?」
「それが一番大事」
男は紙を戻して帰った。
新しい紙が出る。
《帽子なし 配送 16:03 急いでた》
秩序ちゃんはその紙を長く見た。
「どうしたの?」
「記録項目が増えました」
「だめ?」
「いいえ」
紙を戻す。
「私たちが必要だと思わなかった項目です」
◇
閉店後。
紙袋は十二枚になっていた。
事実。
訂正。
昨日。
今日。
理由。
本人が大事だと思ったこと。
全部、同じ大きさの紙だった。
「ぐちゃぐちゃだね」
渾沌ちゃんが言う。
「はい」
「整理する?」
秩序ちゃんはしばらく考えた。
「しません」
「ほんとに?」
「今は」
秩序ちゃんは紙袋を閉じた。
「整理すると、また私たちが項目を決めます」
「じゃ、このまま?」
「このままではありません」
「どっち!」
「本人が探せなくなったら、その時に一緒に考えます」
渾沌ちゃんは笑った。
「めんどくさくなったね」
「はい」
「前より?」
「かなり」
階段を上がる。
電気を消す。
暗くなる直前。
紙袋から一枚。
する。
床へ落ちた。
秩序ちゃんが拾う。
《秩序 記録を整理しなかった》
渾沌ちゃんが読む。
「合ってる?」
秩序ちゃんは鉛筆を取った。
横に書く。
《今日は》
紙を戻す。
少し待つ。
新しい紙。
《秩序 今日は記録を整理しなかった》
「明日は?」
渾沌ちゃんが聞く。
「明日の私に聞いてください」
「りょーかい」
電気が消えた。




