第44話「晴れているほうだけを、今日にしないでください」
日曜日。
午前九時五十六分。
階段の下に、傘が三本あった。
昨日、秩序ちゃんが置いた透明傘。
青いテープの傘。
それから、黄色い子供用の傘。
「増えてる」
「三本です」
「見れば分かるよ」
「確認しました」
黄色い傘の持ち手に紙が結んである。
《きょうはこっち》
「女の子?」
「可能性は高いです」
窓の外は晴れ。
通路の先のパン屋にも朝日が差している。
なのに、青いテープの傘だけが濡れていた。
ぽた。
「森さん、もう来てる?」
秩序ちゃんは傘を見た。
「行きます」
◇
ガラス戸を開ける。
雨が降っていた。
「うわ」
渾沌ちゃんが一歩戻る。
赤い看板が雨粒の向こうで滲んでいる。道路は濡れ、側溝を水が走っていた。
「こっち雨じゃん」
「はい」
「店の窓から見たとき晴れてたよね?」
「はい」
振り返る。
ガラス戸の向こう、PANDEMONIUMの窓には青空が映っていた。
境目だけで、日曜日が割れている。
「傘、持ってくればよかった」
秩序ちゃんが戻ろうとする。
「あるじゃん」
青いテープの傘がこちら側にも立っていた。
「……二本?」
PANDEMONIUM側にもある。
同じ青いテープ。同じ白い傷。どちらも濡れている。
「借りよ」
「所有者の許可がありません」
「いいですよ」
雨の向こうから声がした。
◇
森さんは六十代くらいの女性だった。
紺色のレインコート。買い物袋。長靴。傘は持っていない。
「それ、私のです」
「お借りしてもよろしいですか」
「どうぞ。こっちにあるなら」
「こっちに?」
「向こうには置いてないから」
渾沌ちゃんがPANDEMONIUM側を見る。
「向こうにもあるよ」
「そうなの?」
「ある」
「じゃあ、二本になったのね」
森さんはそれ以上驚かなかった。
「いいなあ」
「いいんですか?」
「傘は多い方が便利でしょう」
渾沌ちゃんが笑う。
「森さん、強いね」
「雨の日は荷物が多いから」
理由が違った。
◇
森さんは歩き始めた。
「どこ行くの?」
「パン屋さん」
「昨日も?」
「昨日は行ってないわよ」
渾沌ちゃんが止まる。
「袋あったよ」
「何の?」
「パン屋の」
「知らないわねえ」
森さんは歩く。
「じゃあ傘は?」
「昨日?」
「うん」
「雨だったから置いたわよ」
「昨日、こっちは晴れだったよ」
森さんが初めて振り返った。
「こっちは雨だったわ」
◇
パン屋まで三分。
森さんは食パン一斤、ロールパン六個、小さなクリームパンを一つ買った。
「毎週?」
「雨の日だけ」
「なんで?」
「晴れの日は駅前まで歩くから」
「遠い方行くの?」
「散歩になるでしょう」
「雨の日だけ近道なんだ」
「そうよ」
森さんはクリームパンを袋から出した。
「これだけ今食べる」
軒下で、ぱく。
「おいしい」
渾沌ちゃんがじっと見る。
「食べたい?」
「ちょっと」
「買いなさい」
「はい」
秩序ちゃんが先に答えた。
「なんで秩序ちゃんが返事するの!?」
森さんが笑った。
◇
帰り道。
黄色い傘が向こうから来た。
「あ」
女の子だった。黄色い帽子も被っている。
「おはよう!」
「おはよう」
森さんが返す。
二人は知り合いではない。
でも、すれ違う時、女の子が止まった。
「今日、雨なんだ」
「そうね」
「こっちだけ?」
「たぶん」
女の子はPANDEMONIUMの方を見る。
ガラス戸の向こうは晴れている。
「変なの」
それだけ言って、パン屋へ走った。
「走らないでください!」
秩序ちゃんの声が雨に消えた。
◇
森さんの家は通路から二分だった。
古い集合住宅の一階。玄関の横に植木鉢が三つ。雨樋から水が落ちている。
「パンデモニウム、近いね」
「雨の日はね」
「晴れの日は?」
「ないわよ」
「店が?」
「道が」
森さんは鍵を開ける。
「晴れると、あのガラス戸の先は駐車場の壁」
「じゃあ、森さんにとっては雨の日だけPANDEMONIUMがある?」
「店の名前は昨日の紙で初めて知ったけどね」
秩序ちゃんが聞く。
「この道がなくなると、困りますか」
森さんは買い物袋を玄関へ置き、長靴の泥を落とした。
「困るわよ」
「どの程度ですか」
「駅前まで十五分」
「昨日の女の子は、この道がないと三十七分でした」
「じゃあ、あの子の方が困るわね」
「譲りますか」
「何を?」
「この道を」
森さんは少し考えた。
「道って、一人分なの?」
◇
午後一時。
四人で通路へ戻った。
女の子もパン屋から戻っていた。あんパンを一つ持っている。
「おばあちゃんの?」
「今日は自分の」
雨は続いている。
ガラス戸の向こうは晴れ。
境目を雨粒は越えない。
森さん側の靴跡は濡れている。
女の子側の靴跡は乾いている。
二つの足跡が同じ床で交差する。
「二人とも、ここを使いたいんですよね」
「うん」
「雨の日はね」
「では、両方を残せるか確認します」
秩序ちゃんが一歩動いた。
渾沌ちゃんが腕を掴む。
「待って」
「何ですか」
「昨日も、それやったよ」
「何をですか」
「戻せるように残すやつ」
秩序ちゃんが止まる。
「今日は、二人いるよ」
渾沌ちゃんは女の子を見る。森さんを見る。
「聞けばいいじゃん」
◇
「雨、いる?」
渾沌ちゃんが聞いた。
「雨?」
女の子が首を傾げる。
「道じゃなくて。雨」
「いらない」
即答。
「森さんは?」
「いるわよ」
「なんで?」
「雨が降らないと、この道がないから」
「道だけあれば?」
森さんは考えた。
「それなら晴れててもいいわね」
秩序ちゃんがガラス戸を見る。
「雨は条件であって、希望ではない」
「そういうこと」
「じゃ、道だけ残せる?」
「試します」
◇
午後二時十二分。
二人は何も動かさなかった。
扉も。通路も。境目も。
ただ。
森さんが濡れた傘を閉じた。
女の子が黄色い傘を閉じた。
二本を同じ傘立てへ入れた。
「これで?」
「分かりません」
秩序ちゃんが答える。
「でも、条件を一つ減らせます」
「どうやって?」
「次に晴れた日、この道を使ってみてもらえますか」
「いいわよ」
「女の子も」
「明日学校」
「では、次の土曜日」
「いいよ」
「一週間待つの?」
「はい」
「その間どうする?」
「今日の道は閉じません」
「雨も?」
秩序ちゃんは雨を見る。
「雨は、私たちが止めるものではありません」
「そっか」
◇
午後四時。
雨が弱くなった。
午後四時十三分。
止んだ。
森さんが通路へ来た。
「止んだわよ」
灰色の雲が割れ、光が落ちる。
道は消えなかった。
「あ」
森さんが一歩。二歩。三歩。
ガラス戸を開ける。
PANDEMONIUMへ入る。
窓の外。こちらも晴れていた。
「ある」
女の子が椅子から立つ。
「雨じゃないのに?」
「あるわね」
秩序ちゃんは何も書かなかった。
「記録しないの?」
「あとでします」
「珍し」
「今は確認中です」
森さんが店内を見回した。
「ここ、ハンバーガー屋さんだったのね」
「そこから!?」
◇
森さんはチーズバーガーを注文した。
女の子はポテト。
二人は同じテーブルへ座った。
知り合いではなかった。
話すことも、ほとんどない。
森さんがケチャップを取る。
女の子がナプキンを取る。
たまに窓の外を見る。
晴れている。
通路は残っている。
「ねえ」
女の子が言った。
「明日もある?」
秩序ちゃんは答えようとした。
渾沌ちゃんが先に言った。
「分かんない」
女の子が口を尖らせる。
「でも」
渾沌ちゃんはポテトを一本取った。
「なくなったら、また来て」
「いいの?」
「いいよ」
秩序ちゃんを見る。
「いいよね?」
「はい」
少し間を置いて。
「私たちも、見に来ます」
◇
閉店後。
傘立てには二本。
透明な傘と、黄色い傘。
どちらも乾いていた。
青いテープの傘は森さんが持って帰った。
「一本減った」
「はい」
「昨日言ってたやつ」
「何ですか」
「持ってかれたら一本減ります、って」
秩序ちゃんは傘立てを見る。
「そうですね」
「困る?」
「いいえ」
渾沌ちゃんが笑う。
秩序ちゃんは昨日の札を外した。
《変更前状態 保存中》
裏返す。
何も書かない。
「空欄?」
「違います」
秩序ちゃんは札を引き出しへしまった。
「もう、札では決めません」
階段の下。
晴れた通路の先で、パン屋の赤い看板が消灯した。
その隣。
昨日までなかった小さな傘立てがあった。
青いテープが巻かれている。
中には、傘ではなくパン屋の紙袋が二つ入っていた。
一つに。
《晴れの日》
もう一つに。
《雨の日》
どちらも。
空ではなかった。




