第43話「戻せるように残した道を、誰も使わないとは限りません」
土曜日。
午前九時五十八分。
昨日、四人で確認を終えたあと、向こう側の秩序ちゃんと渾沌ちゃんは自分たちのPANDEMONIUMへ戻った。朝の搬入を支える仕事は、接続が閉じても残っている。
こちら側に残った二人の前で、灰色の扉の取っ手に、黄色い帽子が掛かっていた。
昨日のまま。
内側の文字。
《あしたもつかいます》
「来るかな」
渾沌ちゃんが帽子のつばを指で弾く。
「来ると書いてあります」
「予定変わるかもじゃん」
「昨日、あなたが言ったことです」
「覚えてた?」
「記録しました」
「そっちかあ」
秩序ちゃんは扉の横の札を見る。
《使う日 未固定》
《次に来る人へ》
十時。
扉が開いた。
「おはよう」
黄色い帽子の女の子だった。
「帽子!」
「忘れていました」
「知ってる」
渾沌ちゃんが渡す。
女の子は被った。
「今日、おばあちゃんのところ?」
「ううん」
「じゃ、どこ行くの?」
「パン屋さん」
◇
女の子がいつもの順番で歩く。
灰色の扉。
客席。
厨房脇。
階段。
昨日は途中で消えていた道だった。
今日は。
「あった」
階段の下に、細い通路が伸びている。
五メートル。
先にガラス戸。
向こうにパン屋の赤い看板が見えた。
「戻った!」
女の子が走る。
「走らないでください」
もう遅い。
ガラス戸を開ける。
焼いたパンの匂いが入ってきた。
女の子が振り返る。
「五分!」
渾沌ちゃんが時計を見る。
「四分三十八秒」
「勝った!」
「何にですか」
「昨日の三十七分」
秩序ちゃんも時計を見る。
「復旧を確認します」
◇
女の子はパン屋で、あんパンを二つ買った。
一つを自分の袋。
一つを別の袋。
「おばあちゃんの?」
「うん」
「行かないんじゃないの?」
「午後に行く」
帰りも同じ道を使った。
今度は四分五十一秒。
「遅くなった」
「パンがありますから」
「十一秒だよ」
「十一秒でも遅延です」
「秩序ちゃん、そういうとこだよ」
女の子が笑う。
◇
午前十時二十七分。
秩序ちゃんは札に書いた。
《旧経路 復旧確認》
《変更前状態 保存中》
「保存いる?」
渾沌ちゃんが聞く。
「必要です」
「道、戻ったよ」
「再び消えた場合に戻せるようにします」
「なるほど」
昨日の紙。
《5:45-6:00 接続停止》
《三日後を目安に再確認》
これも残っている。
二つの状態。
朝の搬送を優先する状態。
女の子の道を優先する状態。
どちらにも戻せる。
「これで安心?」
「少なくとも、昨日よりは」
秩序ちゃんが答えた。
そのとき。
階段の下から音がした。
ばさ。
何かを置く音。
◇
通路に、傘があった。
透明なビニール傘。
壁に立て掛けてある。
「女の子の?」
「今日は晴れています」
「置き傘かも」
「先ほどはありませんでした」
秩序ちゃんが触れずに見る。
持ち手に青いテープ。
油性ペンで一文字。
《森》
「もり?」
「名前かもしれません」
「森に行く傘かも」
「断定しないでください」
ガラス戸の向こう。
パン屋の前を、人が歩いている。
誰もこちらを見ない。
「落とし物?」
「置いた音がしました」
「じゃ、誰かいた?」
「分かりません」
渾沌ちゃんが傘の横にしゃがむ。
「濡れてる」
傘の先から。
一滴。
床へ落ちた。
外は晴れていた。
◇
十一時十二分。
傘はそのままにした。
十一時四十八分。
まだある。
十二時十九分。
消えた。
「持ってった」
「そのようです」
「見てないけど」
「はい」
床には丸い水跡。
その横。
小さな紙袋。
パン屋の袋だった。
中は空。
「パン食べた?」
「可能性はあります」
「ここで?」
「可能性はあります」
「誰が?」
「分かりません」
渾沌ちゃんが紙袋を持ち上げる。
底に文字があった。
《ここ、雨の日だけ近い》
二人は黙った。
◇
午後一時。
パン屋へ行った。
店員に青いテープの傘を聞く。
「ああ、森さん」
すぐ返事が来た。
「毎週じゃないですけど、雨の日に来ますよ」
「どちらから?」
「さあ」
店員はトングを動かしながら言う。
「裏から来るから、近所の人だと思ってました」
「裏?」
「そこの戸です」
さっきのガラス戸。
「いつからですか」
「二、三年じゃないですかね」
渾沌ちゃんが秩序ちゃんを見る。
秩序ちゃんも見る。
また。
二年。
「黄色い帽子の子とは会いますか」
「たまに」
「知り合い?」
「知らないと思いますよ」
店員はあんパンを棚へ足した。
「時間が違うから」
◇
店へ戻った。
「いたね」
「はい」
「いない人」
「いました」
「変な言い方」
「あなたが言ったんです」
秩序ちゃんは昨日の札を外した。
《現在ここにいない利用者がいる可能性があります》
裏返す。
新しく書く。
《現在ここにいない利用者がいます》
渾沌ちゃんが覗く。
「でも森さん、まだ会ってないよ」
「はい」
「何したいかも聞いてない」
「はい」
「じゃ、また変えられない?」
秩序ちゃんのペンが止まる。
昨日なら。
戻せるように残しておけばいいと思った。
でも。
残した道は。
残している間にも、誰かの道になる。
「永久には止めません」
「じゃ、どうする?」
「会いに行きます」
◇
雨は降っていない。
「どうやって?」
渾沌ちゃんが窓を見る。
「森さん、雨の日だけなんでしょ」
「はい」
「次の雨まで待つ?」
秩序ちゃんは少し考えた。
それから。
透明なビニール傘を一本持ってきた。
「これを置きます」
「晴れてるよ」
「知っています」
青いテープを巻く。
紙を一枚。
《森さんへ》
《この道について、お話を聞かせてください》
《パンデモニウム・バーガー》
「返事くるかな」
「分かりません」
「傘持ってかれたら?」
「一本減ります」
「そこ?」
◇
午後五時。
透明な傘はまだあった。
午後七時。
まだある。
閉店前。
渾沌ちゃんが階段を見に行く。
「あ」
傘が二本になっていた。
置いた一本。
その隣に。
青いテープの傘。
濡れていた。
外は一日中、晴れだった。
持ち手に紙が結んである。
《日曜ならいます》
その下に。
《この道、なくなるんですか》
秩序ちゃんは紙を読んだ。
返事を書く。
《まだ決めません》
書いて。
止まる。
線を引いた。
「消すの?」
「はい」
書き直す。
《日曜日に、一緒に決めたいです》
渾沌ちゃんが笑った。
「明日も仕事?」
「はい」
「休みじゃないの?」
「勤務予定を確認します」
「そこから!?」
二本の傘が並んでいた。
片方は乾いている。
片方は濡れている。
同じ晴れの日の店内で。
明日の天気だけが。
二つあった。




