第4話「あなたが見たものを、私が覚えている」
最初に混ざったのは、記憶だった。
午前九時十七分。開店準備中の厨房で、秩序ちゃんは冷蔵庫の扉を閉めたところで足を止めた。
昨日、そこから自分自身の声がした。
『一人ずつに見えているから』
観測者分離工程は九九%まで進み、最後には二人が手を繋いだことで停止した。その直後に表示されたのが《観測者接続工程 0%》だった。
そこまでは、自分の記憶だ。
問題は、その続きだった。
冷蔵庫を開ける。青い海。水平線。白い雲。水面すれすれを翼の長い鳥が飛ぶ。潮の匂いと、夏の風。
秩序ちゃんは、その景色をはっきり覚えていた。
だが、見ていない。
今朝、冷蔵庫に入っていたのは食材だけだった。
「秩序ちゃん?」
後ろから渾沌ちゃんが覗く。
「何してるの」
「確認があります」
「やだ」
「まだ何も聞いていません」
「最近、確認するとろくなこと起きないじゃない」
秩序ちゃんは、いつもの質問を飲み込んだ。見えたものを直接照合すれば、また差異そのものを固定するかもしれない。
「今日、海を見ましたか」
「見てない」
即答だった。
「でも夢では見た」
秩序ちゃんの指が止まる。
「冷蔵庫の中が海になってた。鳥が一羽いて、夏っぽくて」
「潮の匂いがしましたか」
「した」
完全に一致した。
「なんで知ってるの」
「知りません」
「全部当てたじゃん」
「だから困っています」
渾沌ちゃんは夢の中で泳ぎ、海へ落としたバーガーを拾って食べたという。
その話を聞いた瞬間、秩序ちゃんの口に塩と肉とチーズ、湿ったバンズの味が広がった。
「……塩辛いです」
「食べてないでしょ」
「あなたが夢で食べたものです」
「海に落としたやつ?」
「衛生観念まで共有しないでください」
「夢に衛生観念いる?」
「今はそこが問題ではありません」
問題は、景色だけではなかった。
午前十時。渾沌ちゃんが鉄板に一瞬触れた。秩序ちゃんは事務室にいたのに、その熱と、反射的に手を引いた感覚を知っていた。
昨日の夕食を思い出すなと言えば、味噌汁と焼き魚とご飯が頭へ流れ込んできた。
営業が始まると、接続は客へも広がった。
テリヤキバーガーを注文した女性が、突然その甘いソースを嫌悪した。本人はずっと好きだったという。
初来店の男性は厨房を見て、「昔ここでポテトを揚げていた気がする」と言った。客席から見えないトングの欠けまで知っていた。
秩序ちゃんは、それ以上を思い出そうとしないよう頼んだ。
記憶、感覚、感情、癖。
誰かから消えるのではない。同じものが、複数の人間に増えていく。
午後一時十二分。秩序ちゃんは紙に書いた。
《観測者接続工程》
《視覚共有ではない》
《記憶・感覚・経験の相互参照》
そのとき、頭の中に声がした。
『そこまで考えないで』
厨房の渾沌ちゃんは口を動かしていない。
「今、そう考えましたか」
「……うん」
現在の思考まで届いた。
「営業を止めます」
「昨日、止めたら全部止まりかけたよ」
「営業ではありません。観測者を減らします」
設備点検を理由に客を外へ案内した。店を出た客は数歩で首を傾げ、借り物の記憶を薄く忘れていった。
中心は、やはりぱんでむだった。
最後の客が出る。
静かになった店内で、渾沌ちゃんが言った。
「チョコ食べたい」
「今、言う前に聞こえました」
「まだ繋がってる?」
「私たちは特に強いようです」
理由は思い当たる。
観測者分離工程が九九%へ達したとき、二人は互いを離さなかった。違うものを見ていても、同じ場所にいられると証明した。
その行為が、今度は接続を強くした可能性がある。
店内放送が鳴った。
『観測者接続工程』
『進行率 二%』
「二%でこれですか」
「九九%まで行ったら?」
「考えないでください」
『接続は統合ではありません』
『個体境界を保持したまま、観測可能領域を共有します』
続いて表示された個体境界保持率は、99.9998%。
ほとんど何も失っていない。それでも、他人の味や記憶や思考が自分の内側へ届く。
「接続工程を止めます」
「どうやって?」
「わかりません」
「そこは聞こえなかった」
「聞こえなくて結構です」
その夜、二人は別々の部屋へ移った。
壁も廊下も扉も挟んだ状態で、秩序ちゃんが数字の七を思い浮かべる。
インカムが鳴った。
『七って考えた?』
次は渾沌ちゃん。
秩序ちゃんの頭に、ピンク色の象が浮かんだ。
「答えません」
『わかったんだ』
「答えません」
向こうで笑う気配がして、秩序ちゃんも一瞬だけ楽しくなった。
そこで笑みが消えた。
「今のは、私の感情でしょうか」
『どっちでもよくない?』
「良くありません」
『私が笑って、秩序ちゃんも楽しくなったなら。それは秩序ちゃんが楽しいってことでしょ』
答えられなかった。
考えることさえ、一人だけの行為ではなくなりつつある。
机のプリンターが勝手に紙を吐いた。
《観測者接続工程 3%》
《接続された観測内容について、所有者を確定しないでください》
記憶の所有者。
感情の所有者。
認識の所有者。
意味の所有者。
すべてに横線が引かれている。
《観測されたものは、観測された時点で、誰のものでもありません》
「違う」
秩序ちゃんは声に出した。
「記憶は、誰かが生きた結果です」
紙に一行増えた。
《では、共有された瞬間、誰のものになりますか》
インカムから、渾沌ちゃんの震えた声がした。
『秩序ちゃん。その文章、私、知ってる』
「見えているんですか」
『見えてない。紙が出る前から知ってた』
秩序ちゃんは紙を見た。
共有され始めたのは過去の記憶でも、現在の思考でもない。
次の紙が出る。
《観測者接続工程 次段階》
《未観測情報共有》
《開始まで 00:59:59》
数字が減る。
「渾沌ちゃん。今すぐ来てください」
『もう向かってる』
「まだ言っていません」
廊下の向こうから足音が近づいた。
『でも、呼ばれるの知ってたから』
秩序ちゃんはカウントダウンを見る。
違うものを見ていた。
見たものが混ざった。
そして次は、まだ誰も見ていないものまで共有される。
残り五十九分。
その先を、二人ともまだ知らない。
そう信じられる時間だけが、減っていた。




