第3話「同じものを見ている必要はない」
観測者分離工程。
進行率、一%。
その紙が出てから。
秩序ちゃんは、誰にも壁の色を尋ねなくなった。
尋ねれば進む。
そう考えたからではない。
まだ、そこまではわからない。
ただ。
昨日まで「異常を調べる」という行為そのものに疑いを持つ必要はなかった。
今は違う。
見る。
比べる。
確認する。
名前をつける。
それらすべてが。
観測である。
そして。
観測する側に継ぎ目があるのなら。
調査とは。
その継ぎ目を広げる行為なのかもしれなかった。
◇
翌朝。
「厨房の壁は白です」
秩序ちゃんは言った。
「はい?」
渾沌ちゃんが聞き返した。
「白です」
「見ればわかるけど」
「いいえ」
秩序ちゃんは壁を見なかった。
「私は白だと認識しています」
「何その言い方」
「渾沌ちゃんは答えなくて結構です」
「じゃあ聞かないでよ」
「聞いていません」
「朝から面倒くさいわね」
秩序ちゃんの視界は。
まだ二つに割れていた。
右目。
いつものぱんでむ。
白い壁。
灰色の床。
通常の厨房。
左目。
淡い花柄の壁。
木目の床。
吊り下げられた小さな照明。
昨日までは、両目を開けると二つが重なった。
今日は違う。
完全には重ならない。
花柄の壁が。
白い壁より。
十五センチほど前にある。
「……ずれてる」
「何が?」
「何でもありません」
手を伸ばす。
右目で見える白い壁までは、一メートル。
左目で見える花柄の壁までは、八十五センチ。
触れない。
まだ。
「ねえ」
渾沌ちゃんが覗き込む。
「ほんとに大丈夫?」
「大丈夫です」
「昨日からずっと片目ずつ閉じてるけど」
「確認しています」
「それを大丈夫じゃないって言うんじゃないの」
「今のところ身体的異常はありません」
「じゃあ精神?」
「違います」
「目?」
「違います」
「じゃあ何」
「観測です」
「意味わかんない」
「私にも全部はわかっていません」
「じゃあそう言いなさいよ」
「言いました」
「かわいくない」
「必要ありません」
いつもの会話。
いつもの声。
それだけが。
今は妙にありがたかった。
◇
開店前。
秩序ちゃんは実験を一つだけ行った。
紙。
ペン。
時計。
以上。
大がかりな測定機器は使わない。
昨日、厨房の壁を客たちに確認した結果。
同じ場所について。
白。
黒。
レンガ。
壁なし。
空。
複数の回答が出た。
重要なのは。
誰も嘘をついている様子がなかったこと。
そして。
回答の直後。
観測者分離工程が一%進んだこと。
だから今日は。
違いを探さない。
逆をやる。
「渾沌ちゃん」
「なによ」
「この紙を見てください」
白紙。
「見た」
「何がありますか」
「何もない」
「私もです」
「それが?」
「終了です」
「は?」
「実験終了です」
「雑!」
「一致だけを確認しました」
「じゃあ何か書けば?」
「書きません」
「なんで」
「差が生じる可能性があるので」
渾沌ちゃんが唇を尖らせた。
「つまんない」
「実験です」
「昨日の方が面白かった」
「昨日は店が多重営業しかけました」
「面白かったじゃない」
「危険だったんです」
「危険と面白いは両立するでしょ」
「あなたの中では両立しすぎです」
秩序ちゃんは紙に記録した。
『共通認識のみを確認した場合、現象変化なし』
その瞬間。
紙の下部に。
勝手に文字が浮かんだ。
『それは共通ではない』
「…………」
秩序ちゃんが止まる。
「何?」
「見ないでください」
「なんでよ」
「見ないで」
渾沌ちゃんは。
珍しく。
素直に背を向けた。
秩序ちゃんだけが読む。
『それは共通ではない』
次の行。
『差異が未観測なだけである』
さらに。
『一致を確認する行為も分離に含まれる』
「…………」
秩序ちゃんは紙を裏返した。
「何て書いてあったの?」
「後で話します」
「今じゃだめ?」
「あなたが見ることで状態が変化する可能性があります」
「昨日からそればっかり」
「昨日からそうなったんです」
渾沌ちゃんは。
少しだけ黙った。
「じゃあさ」
「はい」
「私、何も見ない方がいい?」
秩序ちゃんは。
すぐには答えなかった。
その質問が。
思ったより重かった。
「……わかりません」
「じゃあ見てていい?」
「はい」
「よかった」
「ただし、私と比べないでください」
「努力する」
「本当に?」
「多分」
「不安しかありません」
◇
午前十一時。
営業開始。
異常は。
起きなかった。
レシートは一枚。
注文も一件。
壁から声もしない。
客の座席も増えない。
商品も正常。
秩序ちゃんは。
逆に警戒した。
異常が止まったのではなく。
こちらが気づけなくなった可能性がある。
その時。
一人の客が来た。
若い女性。
肩から小さなバッグ。
普通の服。
普通の注文。
「ハンバーガーセット、一つお願いします」
「かしこまりました」
「ドリンク、コーラで」
「はい」
入力。
会計。
問題なし。
「番号札をお持ちください」
「ありがとうございます」
女性は席へ向かう。
その途中。
立ち止まった。
「すみません」
「はい?」
「席って」
女性は。
店内を見渡す。
「どこに座ればいいですか?」
「空いている席へどうぞ」
「……空いてる席?」
「はい」
店内。
半分以上。
空席。
女性は。
困ったように笑った。
「全部埋まってますけど」
秩序ちゃんの手が止まる。
「…………」
女性の視線。
テーブル。
椅子。
何もない。
こちらには。
誰も座っていない。
「本当に?」
渾沌ちゃんが口を挟んだ。
「渾沌ちゃん」
「だって気になるじゃない」
女性は頷いた。
「はい。全部」
「誰が座ってるの?」
「え?」
「どんな人?」
「ちょっと」
秩序ちゃんが遮る。
「確認を増やさないでください」
「でも」
「だめです」
女性は。
二人を見比べる。
「……何か、私おかしいですか?」
「いいえ」
秩序ちゃんは即答した。
「あなたの認識が間違っているとは限りません」
「え?」
「申し訳ありません。少しだけ待ってください」
女性は困惑していた。
当然だった。
読者にとっても。
ここまでの現象は。
壁。
注文。
店舗。
そして観測。
段階的に拡大してきた。
だから。
今さら「客席が人によって違う」とだけ描けば。
単なる怪奇現象の追加に見える。
違う。
これは同じ現象だ。
秩序ちゃんは。
そう考えた。
「席そのものが違うんじゃない」
小さく呟く。
「何?」
渾沌ちゃん。
「見えている店の構成が違う」
「それ昨日も」
「違います」
秩序ちゃんは首を振った。
「昨日は、同じ場所を違う見た目で認識している可能性を考えました」
「うん」
「今回は」
女性を見る。
「存在している人数まで違います」
◇
「お客様」
「はい」
「空席がないのであれば」
「はい」
「今、立っている場所には誰かいますか?」
女性は足元を見る。
「いません」
「では」
秩序ちゃんは。
そこに椅子を置いた。
「こちらをお使いください」
「え」
「臨時席です」
「ここに?」
「はい」
女性は。
恐る恐る座った。
何も起きない。
「座れます」
「はい」
「……普通ですね」
「そうですね」
渾沌ちゃんが小声で、
「普通じゃないけどね」
「聞こえています」
「ごめん」
女性は注文を待つ。
その間。
秩序ちゃんは。
絶対に。
「見えている客が何人いるか」
とは聞かなかった。
それを数えさせれば。
また進む。
そんな気がした。
◇
商品完成。
「六百三十二番のお客様」
女性が立つ。
バーガーを受け取る。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
女性は。
臨時席へ戻る。
そして。
座らなかった。
「……どうしました?」
「椅子」
「はい?」
「ないです」
そこには。
ある。
秩序ちゃんには見えている。
さっき置いた椅子。
渾沌ちゃんにも。
「あるわよ」
「渾沌ちゃん!」
「だってあるし!」
女性は青ざめる。
「どこですか?」
「そこ」
「見えません」
「さっき座ってたでしょ」
「……座ってました」
「じゃあ」
「でも」
女性は。
震える指で。
空間を指した。
「今は、その椅子に」
言葉が止まる。
「何ですか」
秩序ちゃん。
「…………」
「何が見えていますか」
聞いてしまった。
女性は答える。
「私が座っています」
店内の空気が。
変わった。
◇
秩序ちゃんは。
臨時席を見る。
誰もいない。
女性は立っている。
だが。
女性には。
椅子に座って。
バーガーを食べている自分自身が見えている。
「それ、動いてます?」
渾沌ちゃん。
「渾沌ちゃん」
「もう聞いちゃったし」
「開き直らないでください」
女性は。
頷いた。
「食べてます」
「こっち見てる?」
「……いえ」
「話しかけられる?」
「やめてください!」
秩序ちゃんが強く言った。
女性が肩を震わせる。
「あ、ごめんなさい」
「いえ」
秩序ちゃんは。
すぐに声を落とした。
「その人を観察しないでください」
「でも私です」
「だからです」
女性は。
視線を逸らした。
その瞬間。
消えた。
「…………」
女性が言う。
「いなくなりました」
秩序ちゃん。
息を吐く。
「見えなくなっただけかもしれません」
「え?」
「今は判断しません」
判断しない。
それが。
初めて。
意図的な対処になった。
◇
午後一時十四分。
進行率を示す紙は出ていない。
秩序ちゃんは。
それを良い兆候とは考えなかった。
変化を確認すること自体が観測なら。
「進んでいないか確認する」も。
同じだからだ。
だから。
紙を待たない。
測らない。
比べない。
ただ。
営業を続ける。
ところが。
問題は。
秩序ちゃん以外が。
その方針を知らないことだった。
「秩序ちゃん」
スタッフ側から声。
別のクルーだった。
「はい」
「冷蔵庫、変じゃない?」
秩序ちゃんの顔がこわばる。
「どう変ですか」
「中に」
止めるべきだった。
しかし。
声は続いた。
「私がいる」
◇
冷蔵庫の扉。
開いている。
中。
食材。
トレー。
ソース。
正常。
秩序ちゃんには。
普通の冷蔵庫。
「どこですか」
「奥」
「指差さないでください」
「なんで?」
「いいから」
クルーは手を下ろした。
「何をしていますか」
「こっち見てる」
「あなたを?」
「うん」
「何か言っていますか」
「…………」
「言っていますね」
「うん」
「内容は?」
「『入らない方がいい』って」
秩序ちゃんは。
冷蔵庫を閉じた。
「今日は使用禁止です」
「食材どうするの」
「別保管へ移します」
「でも」
「開けないでください」
その時。
冷蔵庫の中から。
こん。
音。
昨日の壁と同じ。
こん。
「秩序ちゃん」
「はい」
「ノックしてる」
「無視してください」
こん。
こん。
こん。
「でも私なんでしょ?」
「だからです」
こん。
そして。
内側から。
声。
『秩序ちゃん』
今度は。
そのクルーの声ではなかった。
秩序ちゃん自身。
『開けないでください』
「…………」
渾沌ちゃんも来た。
「何これ」
『渾沌ちゃんも』
「私?」
『そこから離れて』
渾沌ちゃん。
一歩下がる。
「なんで?」
冷蔵庫の向こうの秩序ちゃん。
少し沈黙。
『そちらでは』
ノイズ。
『まだ』
ノイズ。
『一人ずつに見えているから』
全員。
黙った。
◇
『聞いてください』
冷蔵庫越し。
秩序ちゃん自身の声。
『継ぎ目は、分断ではありません』
こちらの秩序ちゃんが答える。
「では何ですか」
『翻訳です』
「翻訳?」
『世界ごとに』
声が歪む。
『同じものを』
『その世界で成立する形へ』
『…………』
音が飛ぶ。
『だから』
『あなたたちは』
『違うものを見ても』
『同じものを見ています』
渾沌ちゃんが眉を寄せる。
「意味わかんない」
『意味は』
『世界ごとに違います』
「余計わかんない」
「黙ってください」
『秩序ちゃん』
「はい」
『一つだけ』
『間違えないで』
「何を?」
『差異を』
雑音。
『異常だと』
雑音。
『判断しないで』
冷蔵庫。
静かになる。
「…………」
渾沌ちゃんが。
ぽつり。
「つまり?」
「まだわかりません」
「また?」
「はい」
「でも今の私たちより詳しそうだった」
「そうですね」
「未来の秩序ちゃん?」
「判断できません」
「別世界の?」
「判断できません」
「冷蔵庫の秩序ちゃん?」
「それは場所です」
「冷蔵秩序ちゃん」
「名付けないでください」
「はい」
◇
秩序ちゃんは。
冷蔵庫の前に。
一枚の紙を貼った。
『故障中』
渾沌ちゃんが見る。
「故障なの?」
「いいえ」
「嘘じゃん」
「お客様向け表示です」
「じゃあ『別世界の自分がいるので開けないでください』って書けば?」
「余計に開けられます」
「確かに」
店は営業を続けた。
そして。
秩序ちゃんは。
一つだけ方針を決めた。
違いを消さない。
同じものに揃えない。
どちらが本物か決めない。
見えているものが違っても。
営業上問題がない限り。
それを矛盾として扱わない。
この方針は。
思った以上に。
効果があった。
壁は増えない。
レシートも増えない。
声も聞こえない。
客席も。
少なくとも問題は起きない。
午後三時。
午後四時。
午後五時。
何もない。
「やった?」
渾沌ちゃん。
「言わないでください」
「何も起きてないよ」
「それを確認しないでください」
「面倒くさ!」
「我慢してください」
午後六時。
閉店準備。
異常なし。
そして。
午後六時二十三分。
最後の客が帰った。
秩序ちゃんは。
ようやく。
小さく息を吐いた。
その瞬間。
店内放送。
『本日の営業を終了します』
いつもの音声。
『ご利用ありがとうございました』
照明が。
一段暗くなる。
そして。
『本日の観測者分離工程』
秩序ちゃん。
顔を上げる。
『進行率』
渾沌ちゃんも止まる。
『九十八%』
「…………」
「…………」
昨日。
一%。
今日。
何も観測しないようにした。
差異を問題にしなかった。
揃えなかった。
その結果。
九十八%。
「逆だった?」
渾沌ちゃんが言う。
秩序ちゃんは。
答えられない。
続けて放送。
『分離安定』
『相互干渉低下』
『観測翻訳固定』
秩序ちゃんの視界。
左右のずれが。
急速に大きくなる。
右目。
白い店。
左目。
花柄の店。
十五センチ。
一メートル。
十メートル。
距離ではない。
互いが。
違う世界へ。
離れていく。
「渾沌ちゃん!」
「何!」
「私から離れないでください!」
「離れてない!」
「手を!」
手を伸ばす。
右目。
渾沌ちゃんが手を伸ばす。
左目。
別の渾沌ちゃんも。
同じ動き。
しかし。
指先。
届かない。
「秩序ちゃん?」
「掴んでください!」
「掴んでるわよ!」
「…………え?」
感触。
ある。
手。
確かに握っている。
でも。
視界では。
誰とも触れていない。
「秩序ちゃん」
「はい」
「私、ここにいるから」
「……はい」
「見えてなくても」
「はい」
放送。
『九九%』
店が。
二つに割れる。
いや。
割れていない。
ただ。
見える形が。
それぞれの観測へ固定されていく。
『最終確認』
声。
『観測者単位を確定します』
秩序ちゃんは。
そこで。
初めて。
意味を理解した。
「違う」
「何が?」
「店を分けているんじゃない」
「じゃあ?」
「私たちです」
渾沌ちゃんの手を。
強く握る。
「世界ごとでもない」
「何?」
「一人ずつです」
放送。
『観測者単位』
『個体』
「……個体?」
渾沌ちゃん。
秩序ちゃんは叫ぶ。
「却下します!」
放送が止まる。
「個体単位の固定を拒否します!」
『…………』
「私は」
言葉を選ぶ。
「渾沌ちゃんと同じものを見る必要はありません」
隣。
手の感触。
「でも」
「何」
「違うものを見ているからといって」
白い店。
花柄の店。
二つ。
どちらも本物。
「別々にされる必要もありません」
長い沈黙。
放送。
『矛盾』
「矛盾ではありません」
『観測内容不一致』
「一致は必要条件ではありません」
『世界認識不一致』
「それでも同じ場所にいられます」
『証明不能』
「できます」
『方法』
秩序ちゃん。
渾沌ちゃんの手を。
さらに強く握った。
「これです」
「雑じゃない?」
「黙ってください」
「はい」
放送。
沈黙。
十秒。
二十秒。
そして。
『接触情報を確認』
『観測内容不一致』
『位置情報不一致』
『外観情報不一致』
『世界翻訳不一致』
一拍。
『接続継続』
秩序ちゃんの目。
左右。
白。
花柄。
まだ違う。
でも。
手は繋がっている。
『分離工程』
進行率。
九九%。
九十八。
九十。
七十二。
四十。
十二。
一。
ゼロ。
照明が戻る。
店は。
一つに見えなかった。
右目では白。
左目では花柄。
最後まで。
違ったまま。
それでも。
渾沌ちゃんは。
隣にいた。
「終わった?」
「おそらく」
「じゃあ目、戻った?」
「いいえ」
「え」
「違うままです」
「大丈夫なの?」
秩序ちゃんは。
少し考えた。
そして。
初めて。
「大丈夫です」
と答えた。
◇
その夜。
新しい報告書。
件名。
《観測内容不一致状態における接続維持について》
原因。
不明。
危険度。
継続評価。
対応。
差異の統一を行わない。
そして備考。
秩序ちゃんは書いた。
《同じ世界にいるために、同じ世界を見る必要はない。》
保存。
その瞬間。
画面。
勝手に一行追加。
《訂正不要。》
秩序ちゃんは。
しばらく。
その文字を見た。
初めてだった。
向こうから。
訂正されなかったのは。
そして。
電源を落とそうとした時。
もう一行。
増えた。
《次工程へ移行します。》
「…………」
その下。
《観測者接続工程》
進行率。
0%。
秩序ちゃんは。
ゆっくり椅子から立った。
分ける工程が終わった。
なら。
次は。
何と。
何を。
繋ぐつもりなのか。
答えは。
その時点では。
まだ誰にも見えていなかった。




