第3話「同じものを見ている必要はない」
観測者分離工程。
進行率、一%。
その紙が出てから。
秩序ちゃんは、誰にも壁の色を尋ねなくなった。
見る。
比べる。
確認する。
名前をつける。
もし観測する側に継ぎ目があるのなら。
調べること自体が、それを広げるかもしれない。
まだ仮説でしかない。
だから。
今までと同じ調べ方はできなかった。
翌朝。
「厨房の壁は白です」
「はい?」
渾沌ちゃんが振り返る。
「私は、白だと認識しています」
「何その言い方」
「渾沌ちゃんは答えなくて結構です」
「じゃあ聞かないでよ」
「聞いていません」
「朝から面倒くさいわね」
秩序ちゃんの視界はまだ二つに割れていた。
右目。
白い壁。
灰色の床。
左目。
花柄。
木目。
しかも今日は、位置までずれている。
白い壁まで一メートル。
花柄まで八十五センチ。
「ねえ」
渾沌ちゃんが顔を覗き込む。
「ほんとに大丈夫?」
「大丈夫です」
「昨日から片目ずつ閉じてるけど」
「確認しています」
「それを大丈夫じゃないって言うんじゃないの」
「身体的異常はありません」
「じゃあ何」
「観測です」
「意味わかんない」
「私にも全部はわかっていません」
「じゃあそう言いなさいよ」
「言いました」
「かわいくない」
「必要ありません」
いつもの声。
いつもの会話。
それだけが、今は妙にありがたかった。
開店前。
秩序ちゃんは白紙を一枚出した。
「渾沌ちゃん。これを見てください」
「見た」
「何がありますか」
「何もない」
「私もです」
「それが?」
「終了です」
「は?」
「実験終了です」
「雑!」
違いではなく、一致だけを確認した。
秩序ちゃんが記録する。
『共通認識のみを確認した場合、現象変化なし』
紙の下に文字が浮いた。
『それは共通ではない』
秩序ちゃんの手が止まる。
『差異が未観測なだけである』
『一致を確認する行為も分離に含まれる』
紙を伏せた。
「何て書いてあったの?」
「後で話します」
「今じゃだめ?」
「あなたが見ることで状態が変わる可能性があります」
「昨日からそればっかり」
「昨日からそうなったんです」
渾沌ちゃんは少し黙った。
「じゃあさ」
「はい」
「私、何も見ない方がいい?」
秩序ちゃんはすぐには答えなかった。
「……わかりません」
「じゃあ見てていい?」
「はい」
「よかった」
「ただし、私と比べないでください」
「努力する」
「本当に?」
「多分」
「不安しかありません」
午前十一時。
営業開始。
何も起きなかった。
レシートは一枚。
壁から声もしない。
商品も普通。
だからこそ。
秩序ちゃんは警戒した。
異常が止まったのか。
気づけなくなったのか。
区別できない。
そこへ若い女性が来た。
「ハンバーガーセット、一つお願いします」
普通の注文。
普通の会計。
女性は番号札を受け取る。
その途中で立ち止まった。
「すみません」
「はい?」
「席って、どこに座ればいいですか?」
「空いている席へどうぞ」
女性は困ったように笑った。
「全部埋まってますけど」
秩序ちゃんの手が止まる。
こちらには空席がいくつもある。
「本当に?」
渾沌ちゃんが聞いた。
「はい。全部」
「誰が座ってるの?」
「渾沌ちゃん」
秩序ちゃんが遮った。
「確認を増やさないでください」
女性が不安そうに二人を見る。
「……私、おかしいですか?」
「いいえ」
即答した。
「あなたの認識が間違っているとは限りません」
秩序ちゃんは女性の足元を見る。
「今立っている場所には、誰かいますか?」
「いません」
椅子を一脚運んだ。
「では、こちらをお使いください」
「ここに?」
「はい。臨時席です」
女性が座る。
何も起きない。
「……普通ですね」
「そうですね」
「普通じゃないけどね」
「聞こえています」
女性が少し笑った。
それでよかった。
何人見えるかは聞かなかった。
誰が座っているかも。
違いを数える必要はない。
商品が完成した。
女性が受け取り、席へ戻る。
そこで止まった。
「……椅子」
「はい?」
「ないです」
秩序ちゃんには見える。
さっき置いた椅子。
「あるわよ」
「渾沌ちゃん!」
「だってあるし!」
女性が青ざめる。
「見えません」
「さっき座ってたでしょ」
「座ってました。でも」
震える指が空間を指した。
「今は、その椅子に」
「何が見えていますか」
聞いてしまった。
女性は答えた。
「私が座っています」
店内の空気が変わった。
秩序ちゃんには誰も見えない。
女性本人は立っている。
だが女性には。
椅子に座り、バーガーを食べている自分が見えている。
「その人を観察しないでください」
「でも、私です」
「だからです」
女性が視線を逸らす。
「……消えました」
「見えなくなっただけかもしれません」
「え?」
秩序ちゃんは椅子を見た。
「今は判断しません」
判断しない。
それが初めて、意図的な対処になった。
午後。
冷蔵庫の前で別のクルーが止まった。
「秩序ちゃん。冷蔵庫、変じゃない?」
「どう変ですか」
「中に私がいる」
扉の奥。
秩序ちゃんには食材しか見えない。
「何をしていますか」
「こっち見てる」
「何か言っていますか」
「『入らない方がいい』って」
秩序ちゃんは冷蔵庫を閉じた。
「今日は使用禁止です」
こん。
内側からノック。
こん。
こん。
「でも私なんでしょ?」
「だからです」
すると。
冷蔵庫の向こうから声がした。
『秩序ちゃん』
秩序ちゃん自身の声だった。
『開けないでください』
渾沌ちゃんも来た。
「何これ」
『渾沌ちゃんも』
「私?」
『そこから離れて』
渾沌ちゃんが一歩下がる。
「なんで?」
ノイズ。
『そちらでは』
『まだ』
『一人ずつに見えているから』
誰も動かなかった。
しばらくして、声が続く。
『継ぎ目は、分断ではありません』
秩序ちゃんが答える。
「では何ですか」
『翻訳です』
「翻訳?」
『世界ごとに』
ノイズ。
『同じものを』
『その世界で成立する形へ』
渾沌ちゃんが眉を寄せる。
「意味わかんない」
『意味は』
『世界ごとに違います』
「余計わかんない」
「黙ってください」
『秩序ちゃん』
「はい」
『一つだけ』
『間違えないで』
「何を?」
『差異を』
ノイズ。
『異常だと』
ノイズ。
『判断しないで』
静かになった。
渾沌ちゃんが冷蔵庫を見る。
「未来の秩序ちゃん?」
「判断できません」
「別世界?」
「判断できません」
「冷蔵秩序ちゃん」
「名付けないでください」
「はい」
秩序ちゃんは扉に紙を貼った。
『故障中』
「故障なの?」
「いいえ」
「嘘じゃん」
「『別世界の自分がいるので開けないでください』と書きますか?」
「絶対開ける」
「でしょう」
店はそのまま営業を続けた。
秩序ちゃんは方針を決めた。
違いを消さない。
同じものに揃えない。
どちらが本物か決めない。
見えているものが違っても、営業上問題がないなら矛盾として処理しない。
午後三時。
何もない。
四時。
何もない。
五時。
何もない。
「やった?」
「言わないでください」
「何も起きてないよ」
「それを確認しないでください」
「面倒くさ!」
閉店。
最後の客が帰った。
秩序ちゃんが小さく息を吐く。
店内放送。
『本日の営業を終了します』
照明が一段暗くなる。
続いて。
『本日の観測者分離工程』
秩序ちゃんが顔を上げた。
『進行率』
『九十八%』
二人とも動かなかった。
昨日。
一%。
今日は違いを問題にしなかった。
揃えなかった。
調べなかった。
その結果。
九十八%。
「逆だった?」
渾沌ちゃんが言った。
答えられない。
『分離安定』
『相互干渉低下』
『観測翻訳固定』
秩序ちゃんの左右の視界が離れていく。
白い店。
花柄の店。
十五センチ。
一メートル。
十メートル。
距離ではない。
世界そのものが遠ざかっていく。
「渾沌ちゃん!」
「何!」
「私から離れないでください!」
「離れてない!」
「手を!」
伸ばす。
視界では届かない。
「掴んでください!」
「掴んでるわよ!」
「…………え?」
感触はあった。
確かに手を握っている。
なのに。
目には誰とも触れていない。
「秩序ちゃん」
「はい」
「私、ここにいるから」
「……はい」
「見えてなくても」
「はい」
『九九%』
『最終確認』
『観測者単位を確定します』
秩序ちゃんは理解した。
「違う」
「何が?」
「店を分けているんじゃない」
「じゃあ?」
渾沌ちゃんの手を強く握る。
「私たちです」
『観測者単位』
『個体』
「……個体?」
秩序ちゃんが顔を上げた。
「却下します!」
放送が止まる。
「個体単位の固定を拒否します」
『…………』
「私は」
手の感触を確かめる。
「渾沌ちゃんと同じものを見る必要はありません」
「でも?」
「違うものを見ているからといって」
白。
花柄。
最後まで違う。
「別々にされる必要もありません」
『矛盾』
「矛盾ではありません」
『観測内容不一致』
「一致は必要条件ではありません」
『世界認識不一致』
「それでも同じ場所にいられます」
『証明不能』
「できます」
『方法』
秩序ちゃんは渾沌ちゃんの手を、さらに強く握った。
「これです」
「雑じゃない?」
「黙ってください」
「はい」
沈黙。
十秒。
二十秒。
『接触情報を確認』
『観測内容不一致』
『位置情報不一致』
『外観情報不一致』
『世界翻訳不一致』
一拍。
『接続継続』
九九%。
九十八。
九十。
七十二。
四十。
十二。
一。
ゼロ。
照明が戻った。
店は一つには見えなかった。
右目では白。
左目では花柄。
違ったまま。
それでも。
渾沌ちゃんは隣にいた。
「終わった?」
「おそらく」
「目、戻った?」
「いいえ」
「え」
「違うままです」
「大丈夫なの?」
秩序ちゃんは少し考えた。
そして。
「大丈夫です」
と答えた。
その夜。
新しい報告書。
《観測内容不一致状態における接続維持について》
原因。
不明。
危険度。
継続評価。
対応。
差異の統一を行わない。
備考。
《同じ世界にいるために、同じ世界を見る必要はない。》
保存。
画面に一行増えた。
《訂正不要。》
秩序ちゃんは、その文字を見た。
初めてだった。
訂正されなかったのは。
そして。
もう一行。
《次工程へ移行します。》
《観測者接続工程》
進行率。
0%。
秩序ちゃんは椅子から立った。
分ける工程は終わった。
次は。
何と何を繋ぐのか。
まだ。
誰にも見えていなかった。




