第39話「助かったあとも、そこを通る人はいます」
午前五時四十七分。
女は、シーツを積んだ台車を押していた。
白い袋。
十二個。
廊下の角。
灰色の扉。
いつもなら、その向こうがリネン室だった。
ノブを回す。
開ける。
「いらっしゃいませー」
ハンバーガーショップだった。
女は扉を閉めた。
時計を見る。
もう一度開ける。
「いらっしゃいませー」
同じ店。
カウンターの中で、渾沌ちゃんが手を振っている。
「朝ごはん?」
「違います」
女は台車を指した。
「仕事です」
◇
「ここ、昨日まではリネン室でした」
「へえ」
「へえ、ではありません」
秩序ちゃんが横から来る。
「いつからですか」
「昨日の朝からです」
「毎日通りますか」
「毎朝」
「何時ごろ」
「五時四十五分から六時まで」
渾沌ちゃんが時計を見る。
「早いね」
「仕事なので」
「遠回りは?」
「二十三分です」
「けっこうある」
「一昨日までは四十秒でした」
女は台車の取っ手から手を離した。
「昨日は遅れました」
「今日も?」
「今から遠回りすれば」
時計。
五時五十一分。
「遅れます」
渾沌ちゃんが台車を見る。
「じゃ、ここ通れば?」
「どこへ出るんですか」
「……店」
「今も店です」
「だよね」
◇
秩序ちゃんは灰色の扉を見た。
客席の壁際。
昨日、四人で朝食と夜食を分けた扉。
こちらではPANDEMONIUMへ。
女の側では、ずっとリネン室へ続いていた。
少なくとも女にとっては。
「この扉を戻してほしい、ということですか」
「朝だけ」
「朝だけ?」
「五時四十五分から六時まで」
「それ以外は?」
「知りません」
女は即答した。
「私は十五分しか使わないので」
秩序ちゃんが止まる。
渾沌ちゃんが小声で言った。
「全部返せって言わないんだ」
「聞こえています」
「ごめん」
女は少し考えた。
「誰か使っているんですか」
「はい」
「あなたたち?」
「私たちもです」
「じゃあ、使うなとは言いません」
女は台車を押し直した。
「私も使いたいだけです」
◇
五時五十四分。
秩序ちゃんが扉を開いた。
PANDEMONIUM。
閉める。
女が開く。
PANDEMONIUM。
渾沌ちゃんが開く。
「おーい」
返事はない。
「向こう、寝てるかな」
「七時間差なら、まだ深夜です」
「起こす?」
「起こしません」
「でも聞かないと」
「今は、こちらで確認できることを確認します」
女が腕を組んだ。
「あと五分です」
「分かっています」
秩序ちゃんはノブから手を離した。
「あなたは、扉の向こうへ行きたいのではありませんね」
「リネン室へ行きたいです」
「扉は必要ですか」
「近道が必要です」
「同じでは?」
渾沌ちゃん。
「違います」
女。
「別の近道があるなら、それでいいです」
秩序ちゃんが女を見る。
「扉を取り戻したいわけではない」
「扉に思い入れはありません」
「そっか」
「仕事道具でもありません」
「じゃ、何が困るの?」
「二十三分です」
渾沌ちゃんが黙った。
◇
五時五十六分。
「一回、ついてきて」
渾沌ちゃんが言った。
「どこへ?」
「遠回り」
「今から?」
「うん」
秩序ちゃんが見る。
「理由は?」
「二十三分がどんな二十三分か見てくる」
女が少し笑った。
「走りますよ」
「え」
「遅れているので」
◇
走った。
渾沌ちゃんは三分で後悔した。
「長い!」
「まだ七分です」
「七分も!」
階段。
二階分下りる。
細い通路。
防火扉。
また階段。
途中で台車の袋が一つ傾く。
女は走りながら直した。
「毎日これ?」
「昨日から」
「前は?」
「扉一枚です」
十二分。
渾沌ちゃんは台車を押すのを手伝った。
女は止めなかった。
十七分。
エレベーター。
来ない。
女がボタンを二度押す。
「階段で行きます」
「まだ!?」
二十一分。
ようやくリネン室。
女が白い袋を降ろす。
一つ。
二つ。
十二。
時計。
六時十九分。
「昨日は、これを一人で?」
「はい」
「明日も?」
「扉があのままなら」
女は空の台車を返した。
「明後日もです」
◇
戻った時。
秩序ちゃんは客席を掃いていた。
「二十三分だった」
渾沌ちゃんが言った。
「聞いています」
「違うよ」
「何がですか」
「二十三分だった」
秩序ちゃんが箒を止めた。
渾沌ちゃんの前髪が汗で額に張り付いている。
「階段いっぱい」
「はい」
「エレベーター来ない」
「はい」
「袋落ちそうになる」
「はい」
「毎日だって」
「……はい」
◇
昼。
扉を叩いた。
こん。
少し待つ。
向こうから返事。
こん。
十センチだけ開いた。
向こうの渾沌ちゃんが顔を出す。
「おはよ」
「こっちは昼」
「知ってる」
こちらの秩序ちゃんが紙を差し出した。
《5:45-6:00》
《開けないでください》
向こうの秩序ちゃんが読む。
「理由は?」
「この扉を毎朝使っていた人がいます」
「戻すの?」
「全部は戻しません」
「じゃあ?」
こちらの渾沌ちゃんが言う。
「十五分だけ、貸して」
向こうの渾沌ちゃんが眉を上げた。
「誰に?」
「知らない人」
「いいよ」
「また先に答えないでください」
向こうの秩序ちゃん。
「でもだめ?」
「……理由は理解しました」
「じゃいい?」
「五時四十五分から六時まで、こちらから接続しません」
「やった」
「ただし」
「なに?」
「それで元の行き先へ戻る保証はありません」
こちらの秩序ちゃんが頷く。
「明日、確認します」
◇
翌朝。
五時四十四分。
女は台車の前にいた。
秩序ちゃんと渾沌ちゃんもいた。
「眠い」
「あなたが来ると言ったんでしょう」
「言った」
「では起きてください」
「起きてる」
「目を開けてください」
「それは別」
女が時計を見る。
「一分」
三人で扉を見る。
何も起きない。
五時四十五分。
女がノブを握った。
開く。
白い棚。
蛍光灯。
リネン室。
女は息を吐いた。
「戻った」
渾沌ちゃんが覗く。
「ほんとだ」
「入らないでください」
「頭だけ」
「頭もです」
「それ前も言ったね」
「言わせないでください」
女が台車を押す。
四つの車輪が、段差を越えた。
がたん。
「明日も?」
女が聞く。
「確認します」
秩序ちゃん。
「来るよ」
渾沌ちゃん。
「毎日ですか」
「しばらく」
「あなたが決めないでください」
「でも来るでしょ?」
秩序ちゃんは答えなかった。
女が笑う。
「では、明日も五時四十五分に」
扉を閉めた。
◇
五時五十九分。
秩序ちゃんは時計を見ていた。
「あと一分」
「分かっています」
「向こう、待ってるかな」
「分かりません」
「開けたい?」
「六時になってからです」
「聞いてない」
秩序ちゃんが渾沌ちゃんを見る。
「……開けたいです」
秒針。
十二。
六時。
扉の向こうから。
こん。
渾沌ちゃんが笑った。
「今ならいいよ」




