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第37話「勝手に動かしたなら、元の場所を知っていますか」


 朝。


 秩序ちゃんは、自分の鍵で店に入れなかった。


 鍵穴はある。


《入口》も合っている。


 回る。


 かちり。


 開かない。


「……渾沌ちゃん」


「なに?」


「押しましたか」


「押してないよ」


「引きましたか」


「引いてないよ」


「では、何をしたんですか」


「まだ何もしてないよ!」


 渾沌ちゃんが横からドアを押した。


 開いた。


「ほら」


 秩序ちゃんは動かなかった。


「何?」


「私が押した時は開きませんでした」


「力?」


「あなたより弱くありません」


「じゃ、嫌われた?」


「ドアに?」


「秩序ちゃん、細かいから」


「開店前から喧嘩を売らないでください」


 店内へ入る。


 二歩。


 秩序ちゃんが止まった。


「渾沌ちゃん」


「今度はなに?」


「そこ」


「どこ?」


「あなたの足元です」


 渾沌ちゃんが下を見る。


 床。


 いつものタイル。


 ただ。


 右足だけ。


 厨房にあった。


「……え?」


 左足は入口。


 右足は厨房。


 身体は普通に繋がっている。


 距離にして七メートル。


「動かないでください」


「いや無理でしょこれ!」


 渾沌ちゃんが右足を上げた。


 厨房の床から靴が浮く。


 入口にいる身体がぐらつく。


「ほんとにあっち!」


「見れば分かります!」


「どうなってんの!?」


「だから動かないでください!」


「もう上げた!」


「下ろしてください!」


「どっちに!?」


 二人とも黙った。


 ◇


 結局。


 渾沌ちゃんは右足を入口側へ下ろした。


 靴底が床へ触れる。


 ぱちん。


 輪ゴムを弾いたような音。


 厨房にあった右足が消えた。


「戻った」


「痛みは?」


「ない」


「違和感」


「ない」


「指は」


「五本」


「動かしてください」


「ほら」


「靴を脱いで」


「そこまで?」


「確認です」


 渾沌ちゃんが靴を脱ぐ。


「靴下まで」


「やだ」


「なぜですか」


「穴あいてる」


「知りません」


「知られたくない」


「今知りました」


「あ」


 秩序ちゃんはため息をついた。


「歩けますか」


「歩ける」


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 正常。


「じゃ開店しよ」


「待ってください」


「まだ?」


「七メートル離れた場所へ片足だけ移動していたんですよ」


「戻ったよ」


「誰が動かしたか分かっていません」


「足?」


「場所です」


 渾沌ちゃんが首を傾げた。


 ◇


 おかしいのは二人ではなかった。


 店だった。


 冷蔵庫を開ける。


 中身はある。


 牛乳。


 レタス。


 ソース。


 肉。


 奥だけ、客席。


 三番テーブルの下が見える。


「穴?」


 渾沌ちゃんが冷蔵庫へ頭を突っ込む。


「入らないでください」


「頭だけ」


「頭もです」


 三番テーブルの下から声。


「すみませーん」


 客がいた。


「はい!」


 渾沌ちゃんが冷蔵庫へ向かって返事をする。


「ケチャップありますか?」


「あるよ!」


 冷蔵庫からケチャップを取り。


 奥へ差し出す。


 客席側。


 三番テーブルの下から、赤いボトルが出た。


「ありがとうございます」


「どういたしまして!」


 渾沌ちゃんが顔を抜く。


 秩序ちゃんを見る。


「便利」


「便利で済ませないでください」


 ◇


 十一時。


 配達口がトイレへ移った。


 トイレは倉庫へ。


 倉庫の棚の二段目だけが店の外。


 紙袋を取ろうとすると、手が歩道へ出る。


 客席の窓際。


 椅子を引くと。


 椅子だけ厨房へ行く。


「これ」


 渾沌ちゃんが笑った。


「席、めちゃくちゃだね」


「笑っている場合ではありません」


「でもお客さん座れてるよ」


 客は普通に食べている。


 椅子は厨房。


 身体は客席。


 尻だけ厨房にあるようには見えない。


 どこへ座っているのか。


 見ている側によって違う。


 厨房から見ると、誰もいない椅子が沈んでいる。


 客席から見ると、普通の客。


「昨日の椅子みたい」


 渾沌ちゃんが言った。


 秩序ちゃんも同じものを考えていた。


 二人分の重さで沈んだ、一脚。


「誰かが境界を動かしています」


「誰?」


「分かりません」


「店?」


「それも分かりません」


「じゃ捕まえる?」


「何をですか」


「動かしてるやつ」


「方法がありますか」


「ない」


「では言わないでください」


 ◇


 正午。


 異常はひどくなった。


 客席。


 厨房。


 倉庫。


 店外。


 忘れもの置き場。


 場所が細切れになって、別の場所へ移っていく。


 壁は動かない。


 床も動かない。


 ドアも動かない。


 そこにある「こちら側」だけが変わる。


 秩序ちゃんがカウンターの中へ入ろうとした。


 右足。


 客席。


 左足。


 忘れもの置き場。


 止まる。


「秩序ちゃん?」


「動かないでください」


「それ私の台詞じゃない?」


「今は私です」


 左を見る。


 棚。


 赤い砂。


 青い靴。


 右を見る。


 レジ。


 客。


 正面。


 渾沌ちゃん。


「引っ張る?」


「待ってください」


「でもそこ、広がってる」


 左足の周囲。


 床の色が変わっていく。


 忘れもの置き場の暗い床が、足首から円形に広がる。


 三十センチ。


 五十。


「秩序ちゃん」


「待って」


「待たない」


 渾沌ちゃんが腕を掴んだ。


「渾沌ちゃん!」


 引く。


 秩序ちゃんの左足が抜ける。


 同時に。


 ばたん。


 忘れもの置き場の扉が、客席の真ん中へ落ちた。


 扉だけ。


 枠も壁もない。


「……」


「……」


 客がバーガーを持ったまま見る。


 子供が言った。


「ドア落ちた」


 母親が言った。


「見ちゃだめ」


「なぜですか」


 秩序ちゃんが反射的に聞いた。


「今そこ気にする!?」


 ◇


 二人で扉を持ち上げた。


 重い。


「どこ戻す?」


 渾沌ちゃんが聞く。


「元の場所です」


「元って?」


「バックヤード」


「今、そこに壁ある?」


 ある。


 扉もある。


 忘れもの置き場の入口。


 客席に落ちたものと同じ。


 二枚になったのではない。


 両方とも同じ扉だった。


「じゃ、これどこの?」


 渾沌ちゃんが持っている。


「……分かりません」


「元の場所、ないじゃん」


 秩序ちゃんは黙った。


 昨日。


 誰が境界を動かしていいのか。


 答えを出さなかった。


 今。


 誰かが動かした。


 しかも。


 どこから動かしたのか分からない。


「戻せないね」


「はい」


「どうする?」


 秩序ちゃんは扉を見る。


 戻す場所を探す。


 それをやめた。


「置きます」


「ここに?」


「はい」


 客席の真ん中。


「邪魔だよ」


「では」


 二人で持つ。


 壁際へ。


「ここ」


「ここでいいの?」


「通行の邪魔になりません」


「それだけ?」


「今は、それだけで十分です」


 壁へ立て掛ける。


 扉は開かなかった。


 ◇


 午後二時。


 渾沌ちゃんがいなくなった。


 突然ではない。


 秩序ちゃんは見ていた。


 渾沌ちゃんが厨房から客席へ歩く。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 四歩目。


 消えた。


「渾沌ちゃん?」


「いるよ」


 声は近い。


「どこですか」


「分かんない」


「見えるものを言ってください」


「秩序ちゃん」


「私?」


「うん」


 秩序ちゃんは周囲を見る。


 いない。


「他には」


「レジ」


「はい」


「三番テーブル」


「はい」


「あと私」


「あなた自身が見えるんですか」


「手は」


「足元は?」


「厨房」


「……」


「秩序ちゃん?」


「私たちは同じ店を見ています」


「うん」


「ただし、同じ場所にいません」


「また?」


「今回は」


 秩序ちゃんは声の位置へ手を伸ばした。


 何もない。


「境界が見えません」


 ◇


「ねえ」


 渾沌ちゃんの声。


「動いていい?」


「待ってください」


「もう五分待った」


「条件を確認しています」


「トイレ行きたい」


「……それは先に言ってください」


「行っていい?」


「トイレは現在倉庫です」


「じゃ倉庫行く」


「倉庫は店外です」


「じゃ外?」


「外の一部が棚の二段目です」


「無理じゃん!」


「だから待ってください!」


「漏れる!」


「その情報を大声で言わないでください!」


 客がこちらを見る。


 秩序ちゃんは額を押さえた。


「歩いてください」


「いいの?」


「一歩だけ」


 足音。


 渾沌ちゃんの声が右へ移る。


「もう一歩」


 足音。


 今度は上。


「上?」


「私、上?」


「止まって!」


「漏れる!」


「分かりましたから!」


 秩序ちゃんは客席の真ん中へ走った。


 立て掛けた扉。


 開かない。


「これを使います」


「何に?」


「分かりません」


「秩序ちゃんがそれ言うの珍しいね」


「今は黙ってください」


 扉を持つ。


 渾沌ちゃんの声がする方へ向ける。


「開けます」


「開かないんじゃ?」


「開けます」


 ノブ。


 回す。


 引く。


 開いた。


 向こうに。


 渾沌ちゃん。


 すぐ目の前。


「いた!」


「動かないで!」


「トイレ!」


 渾沌ちゃんが飛び出してくる。


 そのまま走る。


「そっちは!」


 トイレの扉。


 開ける。


 今度はちゃんとトイレだった。


「あるじゃん!」


 ばたん。


 鍵。


 秩序ちゃんは客席に立ったまま。


 数秒。


「……戻っている」


 冷蔵庫。


 開ける。


 冷蔵庫。


 倉庫。


 倉庫。


 配達口。


 配達口。


 店外。


 全部。


 元の場所。


 ◇


 五分後。


 渾沌ちゃんが戻った。


「助かった」


「そうですか」


「危なかった」


「詳細は不要です」


「聞いてないじゃん」


「聞きません」


 二人で客席を見る。


 普通。


「直ったね」


「はい」


「扉開けたら」


「はい」


「なんで?」


「分かりません」


「扉、どこのだったの?」


 壁際。


 さっきの扉はまだある。


 バックヤードにも同じ扉。


「それも分かりません」


「じゃ、これ」


 渾沌ちゃんがノブへ触れる。


「捨てる?」


「いいえ」


「忘れもの置き場?」


「それも違います」


「じゃどうする?」


 秩序ちゃんは扉を見た。


 元の場所がない。


 誰が動かしたかも分からない。


 でも。


 必要な時。


 自分たちは使った。


「ここに置きます」


「ずっと?」


「邪魔になるまで」


「邪魔になったら?」


「その時、動かします」


 渾沌ちゃんが笑った。


「勝手に?」


 秩序ちゃんが止まった。


「……そうなりますね」


「いいの?」


「いいとは言っていません」


「じゃだめ?」


「それも言っていません」


「めんどくさ」


「あなたが昨日聞いたんでしょう」


「何を?」


「誰が動かしていいのか」


「あー」


 渾沌ちゃんは扉を軽く叩いた。


「答え出た?」


「いいえ」


「出てないんだ」


「ただ」


 秩序ちゃんは、少しずれた三番テーブルの椅子を見る。


「動かす権利がある人を先に決めるだけでは、足りないようです」


「なんで?」


「元の場所が、一つとは限らないからです」


 ◇


 閉店後。


 二人は記録を残した。


《境界移動 多数》


《移動主体 不明》


《原位置 特定不能》


 秩序ちゃんはそこで止めた。


 渾沌ちゃんが横から見る。


「昨日のやつは?」


「何ですか」


「誰が動かしていいか」


「書きません」


「なんで?」


「今日、私たちは許可を取らずに扉を動かしました」


「うん」


「あなたも私を引っ張りました」


「うん」


「許可した?」


「してない」


「助かりました」


「うん」


 秩序ちゃんは一行追加した。


《移動の正当性》


 その下。


 空欄。


「また空けるの?」


「はい」


「最近、空欄増えたね」


「埋めることが目的ではありません」


 保存。


 二人で消灯する。


 帰ろうとして。


 渾沌ちゃんが壁際の扉を見る。


「これ、鍵かける?」


「開く先が分からないので、かけます」


 《入口》を差す。


 回す。


 かちり。


 鍵を抜く。


 扉の向こうから。


 同じ音がした。


 かちり。


 二人とも止まる。


「今」


「はい」


 ノブが。


 向こう側から回った。


 ゆっくり。


 扉が開く。


 誰もいない。


 向こうには。


 朝のPANDEMONIUM。


 照明が点いている。


 フライヤーの油が鳴っている。


 カウンターの中。


 秩序ちゃんと渾沌ちゃんがいる。


 二人とも。


 こちらを見た。


 向こうの秩序ちゃんが言った。


「すみません」


 向こうの渾沌ちゃんが、扉を押さえている。


「これ、そっちに動かしていい?」

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