第36話「どちらのお願いを、先に本物にしますか」
午後四時十二分。
店の前で、男が傘を閉じた。
雨は降っていなかった。
濡れているのは、男の左半分だけだった。
「いらっしゃいませ」
渾沌ちゃんが言う。
男は入ってこない。
ガラス越しに、店内を見ている。
右手には、白い杖。
左手には、黄色い傘。
「入らないの?」
「娘を待っています」
「ここで?」
「はい」
男は自動ドアの右側を指した。
何もない歩道。
「そこから来るので」
秩序ちゃんが顔を上げた。
◇
十分後。
少女が来た。
自動ドアの左側から。
制服。
濡れていない。
男を見るなり、走った。
「お父さん」
男も一歩出た。
でも。
二人はすれ違った。
肩が重なったのではない。
少女は男の身体の、少し手前を通った。
男も少女の、少し奥を通った。
距離は十センチもなかった。
触れなかった。
「また」
少女が振り返る。
「今日もだ」
男は笑った。
「だから、ここへ来たんだろう」
◇
二人は三番テーブルを避けた。
窓際の二人席。
向かい合う。
テーブルの上。
男のコーヒーからは湯気が出ている。
少女のオレンジジュースの氷は溶けている。
同じ時計で、同じ時間に買ったものだった。
「いつからですか」
秩序ちゃんが聞く。
「三日前」
少女が答える。
「学校から帰ったら、お父さんに触れなくなってました」
「それ以外は」
「普通です」
「会話は?」
「できます」
「同じものを見られますか」
「たぶん」
渾沌ちゃんがテーブルへ角砂糖を一個置いた。
「これ見える?」
「はい」
「見えます」
「じゃ、お父さん取って」
男が指を伸ばす。
角砂糖をつまむ。
「次、娘さん」
男が置いた。
少女も取った。
「渡せるじゃん」
「物は渡せます」
男が言った。
「人だけです」
◇
渾沌ちゃんが試した。
紙ナプキン。
渡る。
ストロー。
渡る。
トレー。
渡る。
椅子。
男が引いた椅子へ、少女は座れる。
「じゃあ」
渾沌ちゃんが男の手を指す。
「握手」
二人が手を出す。
指がすれ違う。
「変」
「そうですね」
「物より人の方が遠い」
秩序ちゃんは、その言葉をメモした。
「三日前に何かありましたか」
父娘が黙る。
先に少女が言った。
「喧嘩しました」
「何について?」
「引っ越しです」
◇
母親が亡くなって、一年。
男は家を出たかった。
少女は残りたかった。
「家を見ると、妻を思い出します」
男はコーヒーを見た。
「私は、それがつらい」
「私は忘れたくない」
少女はすぐ言った。
「家をなくしたくない」
「なくすわけじゃない」
「売るんでしょ」
「住まなくなるだけだ」
「同じだよ」
男が黙った。
窓の外。
男が来た側だけ、路面が濡れている。
少女が来た側は乾いている。
店の前で、一本の境ができていた。
◇
「どっちを直す?」
渾沌ちゃんが小声で聞いた。
「まだ直しません」
「じゃ、何する?」
「聞きます」
秩序ちゃんは二人の席へ戻った。
「境界がなくなった場合、どうしたいですか」
「娘と一緒に引っ越したいです」
男。
「お父さんと、あの家にいたい」
少女。
同時だった。
秩序ちゃんのペンが止まる。
「どちらも、相手と一緒にいたいんですね」
「はい」
「うん」
「ただし、場所が違う」
二人とも答えない。
渾沌ちゃんが厨房から言った。
「それ、境界なくしても直んなくない?」
少女が笑いそうになって、やめた。
男は少しだけ笑った。
「そうですね」
◇
午後五時三分。
店の前の境は、店内へ入ってきた。
床のタイル。
左は乾いている。
右は濡れている。
線は父娘のテーブルの真ん中を通った。
コーヒー側に雨。
ジュース側に西日。
渾沌ちゃんが線を跨ぐ。
右足だけ濡れた。
「うわ」
「戻ってください」
「でも跨げるよ」
「あなたは当事者ではありません」
「じゃ、この二人は?」
秩序ちゃんは答えなかった。
昨日の空欄。
《必要とする者》
頭に浮かんだ。
父親は、境界をなくしたい。
少女も、なくしたい。
なのに。
なくなった後に望む世界は、同じではない。
「秩序ちゃん」
「はい」
「二人とも当事者だよね」
「はい」
「じゃ、どっちのお願い聞くの?」
秩序ちゃんは父娘を見る。
「聞きません」
「え」
「どちらか一方の願いを、境界の処理によって実現することはしません」
少女が俯いた。
「じゃあ、何もしてくれないんですか」
「いいえ」
秩序ちゃんは椅子を一脚持ってきた。
境界線の真上へ置く。
「ここへ座ってください」
「誰が?」
「お二人で」
「一脚ですよ」
「はい」
渾沌ちゃんが笑う。
「無茶言うね」
「あなたが言わないでください」
◇
父親が右から。
少女が左から。
一脚の椅子へ腰を下ろす。
当然、ぶつかるはずだった。
ぶつからなかった。
二人とも座れた。
同じ椅子。
違う位置。
父親には、右半分。
少女には、左半分。
肩は触れない。
でも。
椅子が少し沈んだ。
二人分の重さで。
渾沌ちゃんが目を丸くする。
「一緒に座れてる」
「物は共有できますから」
「でも一脚だよ」
「だからです」
秩序ちゃんは、二人の前へ紙を置いた。
一枚。
ペンも一本。
「これは渡せます」
父親が書く。
《家を売らない》
少女が読む。
ペンを取る。
《でも、ずっと住むとは決めない》
男が読む。
《一か月》
少女。
《三か月》
男。
《二か月》
少女が少し考えた。
《二か月》
丸をつけた。
◇
「これで境界、消える?」
少女が聞いた。
「分かりません」
秩序ちゃんは答えた。
「消えなくても?」
「困ることがあれば、また来てください」
「じゃなくて」
少女は父親を見る。
「二か月、ずっと触れないかもしれない?」
男が手を出した。
少女も。
まだ、すれ違う。
「かもしれないな」
少女の目が赤くなる。
「嫌だ」
男の手が止まる。
「私もだ」
それだけだった。
少女が泣いた。
男は抱けない。
だから、紙ナプキンを取った。
テーブルへ置く。
少女が取る。
鼻をかむ。
「それ自分で取れるじゃん」
渾沌ちゃんが言った。
「今言わないでください」
「ごめん」
少女が、泣きながら笑った。
男も笑った。
◇
帰る頃。
雨は止んでいた。
男の側も。
少女の側も。
境界は残っている。
二人は並んで歩いた。
肩の間に、十センチ。
手は繋げない。
男が黄色い傘を少女へ渡す。
「いらないよ。降ってないし」
「持っててくれ」
「なんで?」
「私が持つと、また降るかもしれない」
「なにそれ」
少女が受け取った。
傘一本分だけ、二人の世界が移動した。
◇
閉店後。
秩序ちゃんは昨日の記録を開いた。
《必要とする者》
《未指定》
「書く?」
渾沌ちゃんが覗く。
「はい」
《必要とする者》
秩序ちゃんは入力した。
《複数可》
「それだけ?」
「もう一つ」
《希望が一致するとは限らない》
保存。
渾沌ちゃんは少し考えた。
「じゃ、境界って誰のもの?」
「所有物ではありません」
「でも誰かが困ったり、助かったりするじゃん」
「はい」
「じゃさ」
渾沌ちゃんが三番テーブルから、二センチ出た椅子を持ってきた。
さっき父娘が座った場所へ置く。
「誰のでもないなら、誰が動かしていいの?」
秩序ちゃんは答えなかった。
椅子を見る。
少しずれている。
昨日なら。
そのままにした。
今日は。
秩序ちゃんは椅子へ手を掛けた。
渾沌ちゃんも反対側へ手を掛ける。
「どっち?」
「まだ決めません」
二人とも手を離した。
椅子は真ん中に残った。
誰の側にも寄らず。
閉店した店の中で。
その一脚だけが。
二人分の重さで、少し沈んだままだった。




