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第34話「直っているところまで、直さないでください」


 午前十時。


 開店した。


 何も起きなかった。


「……普通だね」


「普通です」


 渾沌ちゃんが自動ドアを見る。


 客が入る。


 注文する。


 バーガーを受け取る。


 帰る。


 次の客も。


 その次も。


 床は床だった。


 壁は一枚。


 入口も一つ。


 渾沌ちゃんは十一時まで我慢した。


「ねえ」


「何ですか」


「暇」


「営業中です」


「そうじゃなくて」


 カウンターへ身を乗り出す。


「何も変じゃない」


「良いことです」


「ほんとに?」


 秩序ちゃんはレジを打ちながら答えた。


「少なくとも、悪いことではありません」


「昨日あんなだったのに?」


「昨日が異常だったのであって、今日も異常である必要はありません」


「でもさ」


 渾沌ちゃんはポケットの《出口》を指で弾いた。


 ちん。


「これ、静かすぎない?」


 秩序ちゃんの手が止まった。


 自分の《入口》へ触れる。


 何も感じない。


「……確かに」


「でしょ?」


「喜ばないでください」


「喜んでないよ」


「顔が喜んでいます」


 ◇


 十二時十三分。


 確認。


《入口 1》

《出口 1》


《帰還先 1》

《帰還者 0》


《忘れもの置き場 48》


《継ぎ目担当 継続中》


 全部正常。


「終わった?」


「昨日それで困ったでしょう」


「じゃ、直った?」


「何がですか」


「全部」


 秩序ちゃんは答えなかった。


 店内を見る。


 昼時。


 七組。


 子供がポテトを落とした。


 父親が拾う。


 窓際では学生が二人、同じスマートフォンを覗いている。


 厨房から油の音。


 コーヒー。


 話し声。


 いつもの店。


「確認項目を増やします」


「やっぱ調べるんじゃん」


「異常がないことを確認します」


「同じじゃない?」


「違います」


 ◇


 最初に見つけたのは。


 異常ではなかった。


 三番テーブル。


 昨日、何度も《完了》と《未完了》を行き来した席。


 今日は何も表示されない。


 秩序ちゃんが椅子を引く。


 戻す。


 何も起きない。


「直った」


 渾沌ちゃんが言う。


「そうですね」


「じゃ次」


「待ってください」


 秩序ちゃんは椅子をもう一度引いた。


「また?」


「昨日と条件を合わせます」


 布巾。


 一往復。


 椅子を戻す。


 端末は沈黙。


「ほら」


「はい」


「直ったって」


 秩序ちゃんは椅子を見ていた。


「秩序ちゃん?」


「昨日、この椅子は何センチ動かしましたか」


「知らない」


「三センチです」


「よく覚えてるね」


「記録しましたから」


 椅子を三センチ引く。


 何も起きない。


 三センチ戻す。


 何も起きない。


「正常です」


「だから言ったじゃん」


「……はい」


 声が少しだけ遅かった。


 ◇


 忘れもの置き場。


 四十八。


 赤い砂。


 青い靴。


 骨片。


 濡れたレシート。


 箱。


《秩序/渾沌》


 全部ある。


 昨日なくなった暫定手順だけは戻っていない。


「ここも普通」


 渾沌ちゃんが棚の間を歩く。


「《終了済》もないよ」


「はい」


「《確認済》も」


「はい」


「じゃ帰ろ」


「営業中です」


「こっから」


 渾沌ちゃんが扉へ向かう。


 秩序ちゃんは箱の前に残った。


「秩序ちゃん?」


「先に戻ってください」


「なんかある?」


「ありません」


「じゃ一緒に戻ろ」


「もう少し確認します」


 渾沌ちゃんは扉へ手を掛けたまま止まった。


「何もないのに?」


「何もないからです」


 振り返る。


「それ、終わらなくない?」


 秩序ちゃんは答えなかった。


 ◇


 午後三時。


 客が途切れた。


 渾沌ちゃんが厨房で紙袋を畳んでいる。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 四枚目。


「これ」


「何ですか」


「曲がってる」


 底の折り目。


 ほんの少し斜め。


 秩序ちゃんが来る。


「製造誤差では」


「直す?」


「使用には問題ありません」


「じゃいいか」


 渾沌ちゃんはその袋を山へ置いた。


 秩序ちゃんが取る。


「なに?」


「確認します」


「使えるよ」


「分かっています」


 折り目を見る。


 他の袋と比較する。


 一ミリ。


 あるかないか。


「秩序ちゃん」


「はい」


「それ、継ぎ目?」


 指が止まった。


「違います」


「じゃ戻して」


「ですが」


「直ってるじゃん」


「曲がっています」


「袋だもん」


 渾沌ちゃんが取り返した。


 口を開く。


 息を吹き込む。


 ぱん。


 紙袋が膨らむ。


 ちゃんと立った。


「ほら」


 秩序ちゃんは何も言わなかった。


「使える?」


「使えます」


「じゃ直ってる」


「形は」


「形じゃなくて」


 渾沌ちゃんは袋へポテトを入れた。


「これで困る?」


「……困りません」


「じゃ、いいじゃん」


 そのまま注文へ使った。


 客は受け取った。


 気づかなかった。


 ◇


 午後五時二十一分。


 鍵が鳴った。


 ちん。


 二人同時に顔を上げる。


「来た!」


「喜ばないでください」


「喜んでないって!」


 今度は本当に笑っていなかった。


 《入口》と《出口》。


 二本とも、客席の奥を向いている。


 壁。


 昨日、裂け目ができた場所。


「また開く?」


「まだ触らないでください」


 二人で近づく。


 ポスター。


 消火器。


 壁。


 何もない。


 ただ。


 壁紙の継ぎ目が、一センチだけずれていた。


「……これ?」


「可能性はあります」


 渾沌ちゃんが指を近づける。


「触ります」


「私が」


「なんで?」


「昨日までの事例と接続している可能性があります」


「だから私が触るんじゃん」


 秩序ちゃんが見る。


「壊す前に?」


「遊ばないよ」


「珍しいですね」


「今それ言う?」


 指先。


 壁紙へ触れる。


 何も起きない。


 押す。


 何もない。


 端をめくる。


「ただの壁紙」


「待ってください」


 秩序ちゃんがずれを測る。


 一センチ。


 上から下まで。


 途中だけ。


「施工時から?」


「記録がありません」


「じゃ戻す?」


 渾沌ちゃんが壁紙を押さえる。


 ずれが消える。


 鍵が鳴った。


 ちん。


 二人とも止まる。


 端末。


《境界補正 開始》


「え」


 壁が白くなる。


 ポスターが消えた。


 消火器が消えた。


「秩序ちゃん」


「離れて!」


 二人が下がる。


《境界補正 進行中》


 壁紙の継ぎ目が消える。


 壁の角が消える。


 床と壁の境が消える。


 巾木が白へ埋まる。


「止める!」


 渾沌ちゃんが壁紙へ爪を掛けた。


「待って!」


「待ったら全部まっすぐになる!」


 引く。


 びりっ。


 壁紙が裂けた。


《境界補正 停止》


 白が止まった。


 消えかけていた消火器が半分だけ戻る。


 ポスターは文字だけ戻った。


「……壊した」


 渾沌ちゃんが裂けた壁紙を見る。


「はい」


「ごめん」


 秩序ちゃんは端末を見ていた。


《補正対象》

《不整合境界 1》


「不整合?」


「壁紙のずれです」


「一センチで?」


「そう判定されています」


「でも」


 渾沌ちゃんは半分戻った消火器を指す。


「直そうとして、そっち消したよ」


「はい」


 秩序ちゃんはしゃがんだ。


 裂けた壁紙。


 床との境。


 壁の角。


 消火器。


 ポスター。


 どれも少しずつ違う。


 少しずつずれている。


 それで。


 一つの店になっていた。


 ◇


「直さないんですか」


 端末に聞かれていた。


《境界補正を再開しますか》


《はい》

《いいえ》


 渾沌ちゃんが覗く。


「いいえ?」


 秩序ちゃんは押さない。


「秩序ちゃん?」


「これまで私たちは」


 壁を見る。


「異常な継ぎ目を見つけて、どう扱うか決めていました」


「うん」


「でも」


 紙袋。


 三番テーブル。


 壁紙。


 今日ずっと確認していたもの。


「継ぎ目があることと」


 指が《いいえ》の上で止まる。


「壊れていることは、同じではありません」


 押した。


《境界補正 中止》


《理由を選択してください》


《修復不能》

《対象消失》

《誤検出》

《その他》


「どれ?」


「ありません」


「その他?」


「それも違います」


 秩序ちゃんは入力欄を開いた。


《補正不要》


 確定。


 端末が一度消える。


《登録されていない理由です》


「怒られた」


「怒ってはいません」


《新規理由として登録しますか》


 秩序ちゃんが渾沌ちゃんを見る。


「どう思いますか」


「私?」


「はい」


「珍し」


「答えてください」


 渾沌ちゃんは裂けた壁紙を押さえた。


 破れ目から、古い壁紙の色が細く見える。


「残しとけば?」


「理由は」


「困ってないから」


「それだけですか」


「それで足りない?」


 秩序ちゃんは少し考えた。


 入力する。


《補正不要》


《判断根拠:現状で成立している》


 登録。


 今度は消えなかった。


 ◇


 閉店後。


 二人で壁紙を直した。


 完全には直さなかった。


 破れたところだけ糊をつける。


 一センチのずれは、そのまま。


「曲がってる」


 渾沌ちゃんが笑う。


「分かっています」


「直したい?」


「少し」


「直す?」


 秩序ちゃんは指で端を押さえた。


 離す。


「いいえ」


「えらい」


「その評価は不要です」


 自動ドアへ向かう。


 途中。


 秩序ちゃんが三番テーブルの横を通った。


 椅子が。


 二センチほど出ている。


 止まる。


 見る。


 渾沌ちゃんも止まる。


「直す?」


 秩序ちゃんは数秒見た。


「明日の人が座るかもしれません」


「うん」


 そのまま通り過ぎた。


 消灯。


 二人が外へ出る。


 店内。


 誰もいない。


 壁紙は一センチずれている。


 三番の椅子は二センチ出ている。


 カウンターには、少し曲がった紙袋が一枚残っている。


 端末だけが点いた。


《継ぎ目 3》


 一秒。


《要補正 0》


 その下に。


《正常 判定不能》


 少し間を置いて。


《現状 成立》

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