第32話「先に帰ったほうを、待たないでください」
「ただいま」
忘れもの置き場から戻ってきた秩序ちゃんは、店内が暗いことに気づいて立ち止まった。
閉店後。
レジは落ちている。フライヤーも冷えている。
自動ドアの向こうに、夜道。
そこを。
秩序ちゃんと渾沌ちゃんが並んで歩いていく。
こちらに背を向けて。
「……待ってください」
声は届かなかった。
二人は角を曲がった。
見えなくなる。
秩序ちゃんは自分の手を見る。
鍵がある。
《入口》
いつもの一本。
「では」
誰もいない厨房へ言った。
「私は、何を持って帰ったんですか」
返事はなかった。
◇
十分後。
秩序ちゃんは店を開け直していた。
照明を半分だけ点ける。端末。監視映像。入退店記録。
自分が二人で出ていく映像。
その十秒後。
忘れもの置き場から、自分が一人で戻る映像。
《帰還回数》
《秩序 2》
《保管物 49》
「やはり」
増えている。
棚には四十八個しかない。
昨日と同じ。
違うのは。
「渾沌ちゃんがいない」
口に出してから、秩序ちゃんは端末へ打ち込んだ。
《所在確認:渾沌》
《帰宅済》
「なら、呼び戻す必要はありません」
画面を閉じる。
三秒。
開く。
《所在確認:渾沌》
《帰宅済》
「……確認だけです」
◇
秩序ちゃんは帰らなかった。
理由は簡単だった。
自分がもう帰宅している可能性がある。
同じ帰還先へ三人目を押し込む気はない。
客席の椅子を一脚引き、忘れもの置き場の扉が見える位置へ置く。
座らない。
テーブルへ紙コップ。水。端末。記録用紙。
午前零時十二分。
扉は開かない。
零時四十七分。
開かない。
一時二十三分。
秩序ちゃんは紙コップを持ち上げ、空なのに気づいた。
いつ飲んだか覚えていない。
記録用紙を見る。
《00:51 水を飲む》
自分の字だった。
書いた記憶がない。
その下。
《01:08 まだ来ない》
秩序ちゃんはペンを置いた。
「誰を待っているんですか」
紙は答えない。
◇
一時三十一分。
自動ドアが鳴った。
ちりん。
渾沌ちゃんが入ってきた。
コンビニ袋をぶら下げている。
「いた」
秩序ちゃんは立った。
「なぜ戻ったんですか」
「それ、最初に言う?」
「帰宅済と表示されています」
「帰ったよ」
渾沌ちゃんが袋を持ち上げる。
「で、秩序ちゃん帰ってない気がしたから来た」
「なぜですか」
「鍵」
ポケットから《出口》を出す。
「ずっと二本ぶん鳴ってた」
「二本?」
「こっちと、こっちじゃない方」
「説明してください」
「できない」
「では推測を」
「お腹すいてる?」
「話を逸らさないでください」
「逸らしてないよ」
袋からおにぎりを出す。
「待つなら食べるでしょ」
「私は待っていません」
渾沌ちゃんはテーブルの記録用紙を見た。
《01:08 まだ来ない》
「待ってるじゃん」
「私が書いたという確証がありません」
「字、秩序ちゃんじゃん」
「筆跡だけでは本人確認になりません」
「便利だね、それ」
おにぎりを置く。
秩序ちゃんは取らない。
渾沌ちゃんは自分の分を開けた。
「じゃ半分残しとく」
「誰にですか」
「来るかもしれない秩序ちゃん」
「増やさないでください」
「増えたらお腹すいてるかも」
◇
二時六分。
扉が開いた。
忘れもの置き場ではない。
自動ドアでもない。
客席の壁。
ポスターと消火器の間に、縦一本の黒い線ができた。
紙を裂く音。
線が開く。
向こうに、同じ客席。
照明は全点灯。
椅子の位置が少し違う。
テーブルには、おにぎりの包装。
そして。
秩序ちゃんが座っていた。
向こうの秩序ちゃんも、こちらを見る。
「来た」
渾沌ちゃんが立つ。
「待ってください」
二人の秩序ちゃんが同時に言った。
渾沌ちゃんが止まる。
「どっちの?」
「あなたです」
「あなたです」
「それも同じ」
◇
黒い裂け目を挟んで、二つの客席。
こちらの秩序ちゃんは立っている。
向こうは座っている。
こちらには空の紙コップ。
向こうには空のおにぎり包装。
渾沌ちゃんが左右を見る。
「ごはん食べた方と、水飲んだ方?」
「分類が雑です」
「ですが差分としては有効です」
向こうの秩序ちゃんが言った。
「ほら」
「同意されても困ります」
「私も困っています」
同じ声。
少しだけ、向こうの方が疲れている。
「そっちは?」
こちらの秩序ちゃんが訊く。
「帰宅しました」
「渾沌ちゃんと?」
「はい」
「その後は」
「自宅へ戻りました。ですが、午前零時頃から《入口》が二箇所ある感覚が続きました」
向こうの秩序ちゃんが鍵を出す。
《入口》
こちらにもある。
同じ傷。
同じ重さ。
「それで?」
渾沌ちゃんが聞く。
「戻りました」
「一人で?」
「あなたは寝ていましたから」
「起こしてよ」
「起こす理由がありません」
「今あるじゃん」
向こうの秩序ちゃんは黙った。
こちらの秩序ちゃんが、ほんの少し口元を動かした。
「その判断は、私もすると思います」
「でしょうね」
「仲良し」
「違います」
「違います」
◇
端末が鳴る。
《帰還先A 占有済》
《帰還先B 占有済》
《帰還者:秩序》
《帰還者:秩序》
《優先順位を指定してください》
選択肢。
《先着》
《原本》
《記録量》
《任意》
こちらの秩序ちゃんが画面を閉じた。
向こうの秩序ちゃんも、自分の端末を閉じる。
「原本ってどっち?」
渾沌ちゃんだけが聞いた。
「指定しません」
「指定しません」
「じゃどうする?」
こちらの秩序ちゃんは答えかける。
向こうも答えかける。
二人とも止まった。
相手を見る。
「先にどうぞ」
「そちらこそ」
渾沌ちゃんが吹き出した。
「そこまで同じなんだ」
「笑わないでください」
「笑わないでください」
「無理」
◇
渾沌ちゃんは裂け目の前へしゃがんだ。
「ねえ」
二人が見る。
「二人とも帰りたい?」
「帰りたいです」
「帰りたいです」
「じゃ、帰ればいいじゃん」
「帰還先が重複します」
「昨日、増やしたよ」
「それを繰り返せば」
こちらの秩序ちゃんが言う。
「帰還先が際限なく増えます」
「増えたらだめ?」
答えがない。
渾沌ちゃんはおにぎりの残り半分を持った。
「店だって増えたじゃん」
包みを裂け目の境界へ置く。
半分はこちら。
半分は向こう。
「世界もいっぱいあった。ぱんでむもいっぱいあった。私も二人いた」
おにぎりは消えない。
どちらにも落ちない。
「秩序ちゃんだけ、一人じゃなきゃだめなの?」
こちらの秩序ちゃんが、裂け目を見る。
向こうの秩序ちゃんも。
端末はまだ、優先順位を要求している。
「……だめとは、確認できていません」
こちらが言う。
向こうが頷く。
「同意します」
「じゃ決まり」
「まだです」
「まだです」
「そこも?」
◇
二人の秩序ちゃんは、別々に記録を始めた。
こちら。
《帰還先A:継続》
向こう。
《帰還先B:継続》
同時に。
《優先順位:設定しない》
端末が止まる。
長い三秒。
《原本指定:なし》
《複数帰還:許可》
黒い裂け目が広がった。
二つの客席が重なる。
椅子がぶつかる。
こちらの一脚が数センチ押され、脚が床を擦る。
向こうの紙袋が同じテーブルへ落ちる。
照明が二重にちらつく。
でも。
人は重ならなかった。
二人の秩序ちゃんは、一メートル離れて立っていた。
同じ店の中に。
「できた」
渾沌ちゃんが言う。
「できてしまいました」
「できましたね」
「感想違う」
◇
三人で片付けた。
増えた椅子を戻す。
二つになった紙コップを一つずつ捨てる。
おにぎりの残りは。
「どっち食べる?」
渾沌ちゃんが訊いた。
二人の秩序ちゃんが互いを見る。
「そちらがどうぞ」
「いえ、そちらこそ」
「半分にしよ」
「もう半分です」
「じゃ四分の一」
「細かすぎます」
「同意します」
結局、渾沌ちゃんが食べた。
「なぜあなたが食べるんですか」
「なぜあなたが食べるんですか」
「うるさいの二倍になった」
◇
午前三時十二分。
帰る時間。
三人で自動ドアの前に立つ。
渾沌ちゃんが二人の秩序ちゃんを見る。
「どっちと帰ればいい?」
「好きな方で」
こちら。
「自分で決めてください」
向こう。
「違う答えになった」
二人の秩序ちゃんが、互いを見る。
ほんの一秒。
笑った。
「では、今日は私が残ります」
向こうの秩序ちゃんが言った。
「なぜですか」
「帰宅した記憶がありますから」
「ですが」
「あなたには、ありません」
こちらの秩序ちゃんは黙る。
渾沌ちゃんが割って入る。
「残るって、消えるとかじゃないよね」
「勤務します」
「夜中だよ」
「記録整理が残っています」
「それ私も手伝う」
「帰ってください」
「やだ」
「なぜですか」
「一人にしたら、また勝手に帰るかもしれないじゃん」
向こうの秩序ちゃんが言葉を失った。
こちらの秩序ちゃんが先に自動ドアを開けた。
「では、私が帰ります」
「秩序ちゃん」
「明日、交代します」
「交代?」
「二人いるなら、二人分働く必要はありません」
向こうの秩序ちゃんが少し考える。
「合理的です」
「ですよね」
「そこ仲良くなるなー」
◇
その夜。
渾沌ちゃんは店に残った。
秩序ちゃんも一人残った。
もう一人の秩序ちゃんは帰った。
午前三時四十分。
忘れもの置き場。
保管物。
《48》
増えていない。
端末に新しい項目だけがあった。
《勤務者》
《秩序》
《渾沌》
その下。
《帰宅者》
《秩序》
《渾沌》
渾沌ちゃんが覗き込む。
「私も帰ってる」
「そうですね」
「じゃ、今ここにいる私は?」
秩序ちゃんは画面を見た。
少し考えて。
新しい欄を作った。
《現在していること》
自分には。
《勤務》
渾沌ちゃんには。
《付き添い》
「付き添い?」
「仕事をしていませんので」
「ひど」
「事実です」
渾沌ちゃんは端末を奪い、一文字ずつ打った。
《夜食係》
「勝手に変更しないでください」
「おにぎり買ってきたし」
「もうありません」
「じゃ、また買ってくる」
「外へ出ないでください」
「なんで?」
秩序ちゃんは答えようとして。
止まった。
それから。
「……一緒に行きます」
端末の《現在していること》が、二人同時に書き換わった。
《帰宅中》
二人は、まだ店内にいた。




