第30話「今日は、どちらが外ですか」
開店ベルが鳴った。
渾沌ちゃんはフライヤーの前で顔を上げた。
「お客さん?」
「まだ開店時刻ではありません」
秩序ちゃんが時計を見る。
午前九時五十八分。
もう一度。
ちりん。
自動ドアの向こうに、誰もいない。
「風?」
「自動ドアです」
「じゃ幽霊」
「候補を増やさないでください」
渾沌ちゃんはトングを置いた。
入口まで行く。
ガラス越しの道路は、いつもの朝だった。自転車。信号待ちの人。向かいの建物。
ドアが開く。
冷気が頬へ当たった。
「寒っ」
外は晴れている。
なのに、足元から冷蔵庫を開けた時みたいな空気が流れ込んでくる。
秩序ちゃんが床へ手をかざした。
「店内側からです」
「え?」
冷気は二人の背後から来ていた。
客席を抜け、自動ドアへ向かって流れている。
紙ナプキンが一枚、カウンターから落ちた。
床を滑る。
外へ出た。
その瞬間。
消えた。
◇
「閉めます」
秩序ちゃんが自動ドアを停止する。
ガラス越しには道路がある。
端末。
《店舗状態:営業準備中》
《外部接続:正常》
《出入口:1》
「正常だって」
「表示は」
秩序ちゃんが紙コップを一つ取った。
「投げる?」
「置きます」
「投げたほうが分かりやすくない?」
「分かりやすさのために物を失わないでください」
ドアを手動で十センチ開ける。
紙コップを境目へ置く。
半分が店内。半分が道路側。
何も起きない。
「普通」
「待ちます」
三秒。
紙コップの外側だけに、水滴がついた。
五秒。
外側だけが冷える。
七秒。
紙コップが、店内へ倒れた。
「外が押した?」
「逆です」
秩序ちゃんはコップを拾わない。
「店内側の圧力が高いなら、外へ倒れるはずです」
「じゃ?」
「外側から、店内へ力がかかっています」
「でもナプキンは外に行ったよ」
「はい」
二人とも、自動ドアを見る。
同じ境界で。
物と空気が、逆向きに動いている。
◇
十時。
自動ドアが勝手に開いた。
「いらっしゃいませー」
渾沌ちゃんが反射で言う。
誰も入ってこない。
代わりに。
道路の向こうで、スーツ姿の男がこちらを見た。
首を傾げる。
男は店へ近づいた。
歩道。
縁石。
自動ドアの前。
そこで止まる。
「どうぞー」
渾沌ちゃんが手招きする。
男も手を上げた。
口が動く。
声は聞こえない。
「開いてますよー!」
男は困った顔をした。
そして。
ガラスの向こう側で、ノックした。
こん、こん。
自動ドアは全開だった。
「……ガラスないよね?」
「こちらからは」
渾沌ちゃんが手を伸ばす。
「待ってください」
「触るだけ」
開いた空間へ指先を出す。
硬い。
「ある」
透明な面。
向こうの男も、同じ場所へ手を当てた。
掌と掌。
数センチもない。
届かない。
端末が鳴る。
《来店:1》
《入店:0》
《現在地:店内》
秩序ちゃんが画面を見る。
「誰の現在地ですか」
表示は答えない。
◇
男には別の入口を案内した。
裏口。
搬入口。
窓。
全部だめだった。
男は外側からスマートフォンへ文字を打ち、大きく見せた。
《店が閉まってます》
渾沌ちゃんも紙へ書く。
《開いてます》
男。
《中に誰もいません》
渾沌ちゃんの手が止まった。
「見えてない?」
秩序ちゃんが紙を取る。
《あなたから、店内には何が見えますか》
返事。
《椅子》
《机》
《レジ》
《店員はいない》
渾沌ちゃんがガラスへ顔を近づける。
「こんな近いのに?」
男は反応しない。
秩序ちゃんが、渾沌ちゃんの肩を掴んだ。
「動かないでください」
「なに」
「今、あなたが映りました」
男の背後。
向かいの建物の窓。
その反射に。
店内の渾沌ちゃんがいる。
ただし。
ガラスのこちら側ではなく。
男の隣に立っていた。
◇
「私、外にいる?」
「少なくとも反射では」
「秩序ちゃんは?」
二人で角度を変える。
窓の反射。
秩序ちゃんもいた。
男の反対側。
三人で店を覗いている。
店内には誰もいない。
「じゃ、こっちは?」
渾沌ちゃんが自分の胸を指す。
「判断しません」
「触れるよ」
「触れられることは、現在地の証明になりません」
「最近それ多くない?」
「最近そういうものが多いので」
端末。
《外部接続:正常》
秩序ちゃんはその一行を消さず、確認項目を増やした。
《外部とは何か》
「質問になった」
「はい」
◇
忘れもの置き場へ行く。
例の箱は棚にある。
《秩序/渾沌》
その下。
《本人扱い禁止》
《対象:店外の二名》
「昨日のこれ」
「はい」
「店外って、あっちじゃなかったんだ」
「その可能性があります」
「箱から見たら?」
秩序ちゃんは部屋を見回す。
赤い砂。青い靴。骨片。濡れたレシート。
どれも、それぞれの世界から見れば残らなかったもの。
ここへ来たもの。
「この部屋を基準にすれば」
秩序ちゃんが言う。
「私たちの方が、外です」
渾沌ちゃんは箱の前にしゃがんだ。
「じゃ、昨日のラベル、悪口じゃなかった?」
「分類だった可能性はあります」
「ちょっと失礼だと思ってた」
「あなたも《たぶん他人》と貼りました」
「おあいこ」
「そういう処理ではありません」
その時。
店の方から、開店ベルが鳴った。
ちりん。
二人は振り返る。
もう一度。
ちりん。
今度は。
忘れもの置き場の扉が開いた。
外から。
スーツ姿の男が入ってきた。
「すみません」
男は二人を見て、ほっとした顔をした。
「やっと店員さんがいた」
◇
男を客席へ案内する。
忘れもの置き場の扉を通って。
バックヤードへ。
厨房へ。
客席へ。
男は何度も後ろを見た。
「変わった入口ですね」
「今日だけです」
渾沌ちゃんが言う。
「たぶん」
「たぶんを付けないでください」
男が笑う。
席へ座る。
注文。
バーガー一つ。コーヒー。
普通に食べた。
普通に会計した。
帰り際。
男は自動ドアへ向かった。
「そっちは」
渾沌ちゃんが止める。
男が振り返る。
秩序ちゃんは自動ドアを見る。
開いている。
向こうには道路。
今度は。
道路側に、二人が立っていた。
黒い長髪。
淡い金髪。
顔は逆光で見えない。
こちらを見ている。
秩序ちゃんは男の進路を塞いだ。
「本日は、入ったところからお帰りください」
「え?」
「こちらです」
忘れもの置き場へ案内する。
男が扉をくぐる。
消える。
数秒後。
店の外。
道路側に男が現れた。
振り返って手を振る。
その両隣には。
もう誰もいなかった。
◇
閉店後。
秩序ちゃんは出入口一覧を更新した。
《入口》
《出口》
その下に。
《内側》
《外側》
渾沌ちゃんが覗く。
「どっちがどっち?」
秩序ちゃんは入力欄をしばらく見た。
そして。
二つとも削除した。
《基準点を記録する》
「決めないの?」
「先に決めると、間違えます」
「じゃ今日は?」
「今日は、ここです」
秩序ちゃんが床を指した。
渾沌ちゃんも隣を指す。
「私もここ」
「はい」
二人の鍵が触れた。
小さく鳴る。
自動ドアの外では、夜の街が流れている。
忘れもの置き場の扉の向こうにも、同じ夜の街が流れていた。
二つの景色に、見分けられる差はなかった。
秩序ちゃんは、どちらにも《外》とは書かなかった。




