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第29話「知らない私たちを、私たちにしないでください」


 箱は、朝になってもそこにあった。


《秩序/渾沌》


 白いラベル。黒い文字。


 渾沌ちゃんは床に座り、その前でポテトを食べていた。


「そこで食べないでください」


「見張ってる」


「油のついた手で?」


「まだ触ってない」


 秩序ちゃんは箱との距離を測った。昨夜、棚の最下段へ置いた時から三ミリ手前へ出ている。


「動いた?」


「可能性はあります」


「開けた?」


「開けていません」


「私も」


 二人で箱を見る。


「じゃ、誰?」


 返事の代わりに。


 箱の中から、笑い声がした。


 渾沌ちゃんの声だった。


 ◇


「今の私じゃないよ」


「分かっています」


「ほんとに?」


「あなたは今、口を閉じていました」


「そこまで見てた?」


「見ています」


 箱から、もう一度。


『渾沌ちゃん、見て見て!』


 渾沌ちゃんが眉を上げた。


「言いそう」


「言いますね」


『待ってください。先に記録を』


 今度は秩序ちゃん。


「秩序ちゃんも言いそう」


「言います」


 会話が続く。


 箱の中で二人は笑っていた。


 聞き覚えのない笑い方だった。


 秩序ちゃんが端末を置く。


《音源:箱内部》

《話者照合:秩序 99.98%/渾沌 99.99%》

《記録照合:該当なし》


「私たち?」


「照合上は」


「でも知らない」


「はい」


 渾沌ちゃんは最後のポテトを食べるのをやめ、紙袋へ戻した。


 ◇


 箱は封をされていなかった。


 蓋の隙間へ指一本入る。


「開けますか」


 秩序ちゃんが聞いた。


 渾沌ちゃんはすぐには手を出さなかった。


「秩序ちゃんは?」


「確認したいです」


「珍しい」


「私も対象になっていますから」


「怖い?」


「質問の定義が広すぎます」


「怖いんだ」


「渾沌ちゃん」


「はいはい」


 渾沌ちゃんが箱の右側を持つ。


 秩序ちゃんが左側。


「一緒にね」


「三、二、一で」


「ゼロは?」


「ゼロで開けます」


「じゃ四から」


「増やさないでください」


 二人で蓋を上げた。


 ◇


 制服が二着。


 黒い髪留め。


 青いリボン。


 鍵が二本。


《入口》

《出口》


 見慣れたものばかりだった。


 ただ。


 制服の名札が逆だった。


《秩序》


 黒い髪留めの側。


《渾沌》


 青いリボンの側。


「間違ってる」


 渾沌ちゃんが言った。


 秩序ちゃんは鍵を見た。


《入口》の鍵には、渾沌ちゃんが以前つけた小さな傷がある。


 だがそれを持っていたのは、これまで秩序ちゃんだった。


「間違いとは限りません」


「じゃ何」


「私たちが知らないだけです」


 箱の底に写真があった。


 二人。


 PANDEMONIUMのカウンター。


 黒髪の少女が端末へ何かを記録している。


 淡い金髪の少女が、その肩越しに勝手に画面を覗き込んでいる。


 顔は写っていない。


 裏返す。


《継ぎ目担当 勤務初日》


「初日?」


「私たちの記録にはありません」


「いつ?」


「日付がありません」


 箱の中から声がした。


『渾沌ちゃん、先に触らないでください』


『触ってないよ』


 二人とも黙った。


 写真の中では。


 黒髪の方が、端末を持っていた。


 ◇


「入れ替わった世界?」


「単純な役割交換なら説明できます」


「じゃ簡単じゃん」


「ですが」


 秩序ちゃんは制服のポケットから紙片を抜いた。


《標準修繕手順 暫定版》


 同じ表題。


 中身が違う。


《接続を優先する》

《差分は統合する》

《往来不能状態を障害として扱う》


 最後。


《会えないものは、残っていないものとする》


 渾沌ちゃんが読んだ。


「やだ」


「はい」


「これ、私たちじゃない」


 秩序ちゃんは紙片を戻さなかった。


「そう判断する根拠は?」


「嫌だから」


「それは根拠としては」


「秩序ちゃんは?」


 言葉が止まる。


「これ書く?」


 秩序ちゃんは、紙を見た。


 整った文字。


 自分の筆跡だった。


「……書きません」


「じゃ違う」


「それだけでは証明になりません」


「でも違う」


 渾沌ちゃんは箱を閉じようとした。


 秩序ちゃんが手を置いて止める。


「待ってください」


「捨てないよ」


「そうではなく」


 秩序ちゃんは、自分の筆跡の紙を箱へ戻した。


「違うから、残します」


 ◇


 端末へ新しい分類を作る。


《所有者》


 秩序ちゃんの指が止まる。


 候補。


《秩序/渾沌》


「それ、やめよ」


「はい」


 削除。


《類似対象》


《秩序/渾沌》


《所有者》


《不明》


 保存。


「知らない私たちを、私たちにしない」


「はい」


「でも捨てない」


「はい」


「会ったら?」


「確認します」


「殴られたら?」


「避けます」


「私なら?」


「止めます」


「秩序ちゃんが殴ってきたら?」


「その時点で照合精度を疑ってください」


 渾沌ちゃんが笑った。


 今度は、いつもの笑い方だった。


 秩序ちゃんも少しだけ口元を緩める。


 箱の中から。


 同じタイミングで、二人分の笑い声が返った。


 笑い方まで。


 今度は、同じだった。


 ◇


 箱を棚へ戻す。


 ラベルの下へ、秩序ちゃんが一枚足した。


《本人扱い禁止》


 渾沌ちゃんが、その横へ小さなシールを貼った。


《たぶん他人》


「たぶんを」


「今回はいるでしょ」


 秩序ちゃんは数秒見ていた。


「……今回は残します」


「やった」


 二人は部屋を出た。


 扉を閉める。


 店の音が戻る。換気扇。油の弾ける音。客席の笑い声。


 渾沌ちゃんは途中で、さっき残したポテトを思い出して引き返しかけた。


「新しいものを出します」


「まだ食べられるよ」


「箱の前に置いたものです」


「じゃ捨てる?」


「それは捨てます」


「基準むずかしい」


 ◇


 誰もいなくなった《忘れもの置き場》で。


《本人扱い禁止》


 のラベルが、ゆっくり剥がれた。


 床へ落ちる。


 箱の内側から、紙を擦る音。


 新しいラベルが、隙間から押し出された。


《本人扱い禁止》


 同じ文字。


 その下に。


《対象:店外の二名》

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