第28話「持ち帰ったものは、捨てないでください」
青い靴跡は、一歩しかなかった。
厨房の床。フライヤーと冷蔵庫の間。つま先は、バックヤードを向いている。
「拭く?」
「待ってください」
秩序ちゃんはしゃがんだ。水ではない。触れない。まず写真。位置。大きさ。
「昨日の子の?」
「そう見える、までです」
「靴、青かったよ」
「片方は」
「細かい」
「そこが重要です」
靴跡は左足だった。青い靴を履いていた側。
渾沌ちゃんがバックヤードを見る。
「向こう行った?」
「足跡は続いていません」
「でも向いてる」
その時、バックヤードで、からん、と何かが落ちた。
「今のは聞きました」
「私も」
「先に行かないでください」
「まだ行ってない」
渾沌ちゃんは、もう扉を半分開けていた。
◇
床に赤い砂があった。一粒。
その隣に、白い霜。黒い水滴。紫色の小さな塊。
「これ」
「見たことあるね」
赤い砂の世界。雪原。水中。音が物質になる世界。
全部、戻った時には落としたはずだった。
「掃除した?」
「しました」
「じゃ増えた?」
「記録を確認します」
清掃記録は昨日も、一昨日も、その前も《異常なし》。清掃対象には床、壁、器具、廃棄物。どこにも《継ぎ目》はない。
「掃除の対象じゃない?」
赤い砂が、ころ、とひとりでに転がった。バックヤードの奥へ。
◇
棚の間を追う。段ボール。紙ナプキン。洗剤。予備の制服。
赤い砂は、一番奥の壁で止まった。
渾沌ちゃんが手を伸ばす。
「触る前に」
「分かってる」
「本当に?」
「今日は分かってる」
手を止めたまま、壁が先にへこんだ。
棚一枚分。奥へ。
暗い空間が現れる。
「増えた」
「店舗図にはありません」
照明を向ける。
狭い部屋。床一面に物があった。
青い傘。銀色の服から上へ落ち続ける水滴。赤い砂。骨の欠片。小さな祭りの飾り。濡れたレシート。
見覚えのあるもの。ないもの。
壁際には椅子。一脚。
座面に、青い靴が片方だけ置かれていた。
「これ……」
「触らないでください」
「でも」
「まず確認します」
秩序ちゃんの声が少し低かった。
◇
端末を部屋へ向ける。
《場所:未登録》
《在庫:0》
《廃棄物:0》
《遺失物:0》
「ゼロ?」
「認識されていません」
「じゃ、これ何」
「分かりません」
「持ち帰った?」
「私たちは持っていません」
「店が?」
秩序ちゃんは答えない。
部屋の奥に紙袋がひとつあった。表には《明日》。使い切ったはずの袋。その底にはパンくずが一つ。
隣にはレシート。
《滞在時間 -2日23時間55分》
「これも」
「記録上は端末内にしかないはずです」
物だけではない。記録まで、ここに落ちている。
「捨てたもの?」
「違います。捨てていないものもあります」
「じゃ、なくなったもの?」
秩序ちゃんは青い靴へ目を戻した。
「……こちらに残らなかったもの、かもしれません」
◇
端末が鳴った。
《継ぎ目修繕 3》
《現地:PANDEMONIUM》
《残留差分 許容量超過》
《処置を選択してください》
《廃棄》
《統合》
渾沌ちゃんが靴の前へ立った。
「捨てない」
「まだ選びません」
「でも捨てない」
「統合の意味も確認できていません」
「じゃ、どっちも押さない。それならいい?」
《残留差分 103.7%》
数字は増えている。
部屋の隅で、こん、と椅子が一脚増えた。
座面に赤い靴。片方。
「両方ある」
青。赤。
切断した二つの世界で交換された靴。本来なら、それぞれ別の側に一足ずつ残るはずだった。
「持ってきてないよ」
「はい」
「なのにある」
「はい」
秩序ちゃんは端末を閉じた。
「廃棄しません」
「統合は?」
「しません」
「じゃどうする?」
「記録します」
渾沌ちゃんが少し笑った。
「それ、好きだね」
「必要です」
「名前は?」
「何のですか」
「この部屋」
◇
二人で棚を運んだ。
青い靴と赤い靴は別々の箱へ。混ぜない。赤い砂も、霜も、黒い水も、それぞれ別。
渾沌ちゃんがラベルを書く。
《赤い砂 たぶん砂》
「たぶんを消してください」
「砂じゃないかも」
「では《赤色粒状物》です」
「かわいくない」
「分類にかわいさは不要です」
次。
《青い靴 左》
《赤い靴 右》
「ねえ。これ、戻してあげられる?」
秩序ちゃんも止まる。
「分かりません」
「そっか」
「戻すべきかも、まだ分かりません」
「そっか」
箱を棚へ置く。
《残留差分 103.7%》
減らない。でも《許容量超過》の赤い表示だけが消えた。
《保管中》
「直った?」
「直してはいません」
「またそれ?」
「はい」
作業記録。
《廃棄:未実施》
《統合:未実施》
《分類:実施》
《保管:継続》
「部屋の名前」
「では、残留差分保管室」
「長い。忘れもの置き場」
「違います」
「でも、みんな忘れてったみたい」
秩序ちゃんは言い返しかけて、やめた。
青い靴も赤い靴も、誰も忘れてはいない。向こうでは、まだ履かれているはずだ。ここにあるものが同じ物なのかさえ分からない。
「仮称です」
「やった」
《忘れもの置き場(仮)》
登録音。ぴ。
◇
扉を閉め、厨房へ戻る。
青い靴跡は消えていた。
「なくなった」
「保管されたからでしょうか」
「掃除しなくて済んだ」
「そこですか」
注文ベルが鳴る。
客席では、普通の家族が待っている。
秩序ちゃんがトレーを取る。渾沌ちゃんがポテトを入れる。
いつもの仕事。
バックヤードの奥で。
誰もいない《忘れもの置き場》の端末が、一件だけ更新された。
《保管物 47》
から。
《保管物 48》
へ。
新しい箱には。
まだ二人が見たことのない文字で。
《秩序/渾沌》
と書かれていた。




