第23話「お連れ様は、まだ到着していません」
ぎ。
椅子を引く音。
秩序ちゃんは、手にしていたトレーを置かなかった。
客席。
十二卓。
椅子、四十八脚。
全部見える。
全部、動いていない。
「今の聞いた?」
渾沌ちゃんが厨房から顔を出した。
「聞きました」
「一脚増えた?」
「数えます」
「数えるんだ」
「当然です」
四十八。
変わらない。
ただ。
窓際の四人掛け。
昨日、《空席一》と記録した席の隣だけ、床に細い傷があった。
椅子の脚を引きずったような、二本の線。
壁へ向かって続いている。
「昨日あった?」
「ありません」
秩序ちゃんはしゃがんだ。
傷は壁際で終わっている。
指で触れる。
ざらついている。
新しい。
「渾沌ちゃん」
「触ってないよ」
「まだ聞いていません」
「顔が聞いてた」
壁の向こうから。
こん。
小さな音がした。
二人とも黙る。
こん。
今度は二回。
渾沌ちゃんが壁を叩こうとする。
「待ってください」
「返事だけ」
「だからです」
その時、自動ドアが開いた。
少年が一人、入ってきた。
十歳くらい。
黄色いリュック。
片方の靴下だけ、青い。
店内を見回して。
「まだ来てない」
そう言った。
◇
「お一人ですか?」
秩序ちゃんが聞く。
「二人」
少年は答えた。
「もう一人は?」
「こっちに来る」
「どちらからですか」
少年は壁を指した。
椅子の傷が消えた場所。
「そこ」
渾沌ちゃんが嬉しそうに壁を見る。
「当たり」
「何も当てていません」
少年は窓際へ座った。
昨日の空席ではない。
その隣。
「ポテト二つ」
「バーガーは?」
「いらない」
「飲み物は?」
「水」
渾沌ちゃんが注文端末を操作する。
「二人分?」
「うん」
端末。
《人数を入力してください》
渾沌ちゃんの指が二へ向かう。
「待ってください」
「また?」
「まだ一名です」
少年が首を振った。
「二人だよ」
秩序ちゃんは少し考えた。
昨日と違う。
昨日は、いたかどうかを決められなかった。
今日は。
来る、と言っている。
「お連れ様は、まだ到着していません」
「うん」
「では現在一名です」
「でも二人分頼むよ」
「それは問題ありません」
人数、一。
ポテト、二。
入力する。
端末は受け付けた。
◇
午後二時十三分。
少年は待っていた。
片方のポテトには触れない。
水も一つだけ飲む。
壁の向こうから、ときどき音がする。
こん。
こん、こん。
そのたびに少年は顔を上げた。
「遅いね」
渾沌ちゃんが言う。
「いつも遅い」
「どのくらい?」
「三日くらい」
秩序ちゃんが振り返る。
「三日?」
「うん。あっちとこっち、日が違うから」
「以前にもここで待ち合わせを?」
「ここじゃないよ」
少年はポテトを一本食べる。
「前は駅だった。前の前は海。もっと前は、学校の階段」
「同じ人と?」
「うん」
「どういう関係ですか」
「友達」
簡単な答えだった。
「どこで知り合ったんですか」
少年は困った顔をした。
「途中」
「途中?」
「帰る途中」
それ以上は分からないらしい。
渾沌ちゃんが壁へ耳をつけた。
「近くなってる」
「何がですか」
「音」
秩序ちゃんも聞く。
こん。
確かに。
壁の奥ではない。
薄い板一枚を挟んだ程度の近さ。
ポケットの中で鍵が温かくなった。
二本とも。
《入口》
《出口》
《一席》
その下に。
《予約》
「増えた」
「文字がです」
「今日は認めるんだ」
「事実なので」
渾沌ちゃんが笑う。
次の瞬間。
壁が膨らんだ。
◇
石膏が割れたわけではない。
壁紙も破れない。
ただ、壁面がこちらへ伸びる。
テーブルを押す。
「下がってください!」
秩序ちゃんが少年を立たせる。
椅子を引く。
渾沌ちゃんが隣の客のトレーを抱えて退避する。
「何これ!」
「分かりません!」
「押し返す?」
「壁をどうやって!」
「蹴る!」
「やめてください!」
壁がさらに一メートル伸びた。
店内を横断する白い箱。
奥から音。
どん。
「来た!」
少年が走ろうとする。
秩序ちゃんが肩を掴む。
「待ってください!」
「でも」
どん。
白い壁の中央に。
椅子の背が浮いた。
壁の中から押し出される。
一脚。
脚。
座面。
背もたれ。
昨日、音だけ聞こえた椅子。
その上に。
女の子が座っていた。
少年と同じくらいの年。
制服でも普段着でもない。
薄い銀色の服。
髪から水滴が上へ落ちている。
女の子は目を開けた。
「遅れた」
「三日」
「こっちは五分」
「ずるい」
「知らないよ」
少年が笑った。
女の子も笑う。
壁が止まった。
秩序ちゃんは二人を見た。
「……お連れ様で間違いありませんか」
「うん」
二人が同時に答えた。
注文端末。
《人数 1》
表示が点滅する。
秩序ちゃんは端末を取った。
二へ直す。
今度は迷わなかった。
「二名様ですね」
「そう」
「ポテト、冷めてるよ」
渾沌ちゃんが言った。
女の子は一本食べた。
「こっちでは温かい」
「ほんと?」
渾沌ちゃんも一本取ろうとする。
「商品です」
秩序ちゃんが手首を止めた。
「確認したかっただけ」
「購入して確認してください」
◇
二人が帰る時。
入口は自動ドアだった。
少年が先に出る。
普通の午後の街。
女の子が続く。
一歩。
銀色の服がパーカーに変わった。
上へ落ちていた水滴が、普通に地面へ落ちる。
二人は気にしない。
並んで角を曲がった。
店内を見る。
伸びていた壁は元通り。
椅子も四十八脚。
「予約だったね」
渾沌ちゃんが言う。
「そうですね」
「世界が違っても予約できるんだ」
「そこまでは分かりません」
「でも来たよ」
「来ました」
秩序ちゃんは端末の履歴を開く。
来店人数、二。
注文、ポテト二つ。
異常なし。
ただし。
滞在時間。
一人目。
《43分》
二人目。
《-2日23時間55分》
渾沌ちゃんが覗く。
「来る前から帰ってる」
「その読み方はやめてください」
鍵が鳴った。
《予約》の下。
さらに小さな文字。
《一席確保》
その直後。
店内の椅子が。
ぎ。
ぎ。
ぎ。
一脚ではない。
空いている椅子が、次々に引かれていく。
十二脚。
二十脚。
三十一脚。
誰も座っていない席が。
一斉に。
何かを待つ向きへ揃った。
自動ドアではなく。
壁を向いて。




