↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
22/63

第22話「席をひとつ、空けておいてください」


 雨の世界から戻ると、昼だった。


 銀行と薬局の間の路地を抜けたはずなのに、二人が出たのはいつものぱんでむの厨房だった。


 フライヤーが鳴っている。

 冷蔵庫が唸っている。

 客席から、子供の笑い声。


 あまりに普通だった。


「帰ってきた」


 渾沌ちゃんが靴底を見る。


 濡れていない。


「鍵は?」


 秩序ちゃんが自分のポケットを確認する。


 二本ともある。


《入口》

《出口》


 重ねたまま。


「今日は触らないでください」


「今日は?」


「少なくとも今日です」


「明日は?」


「今、増やさないでください」


 客席から呼び出しベルが鳴った。


 ぴん。


 二人とも反射的にそちらを見る。


「……仕事しますか」


「する」


 ◇


 昼のピークが過ぎた。


 トレーを下げる。

 テーブルを拭く。

 床に落ちたポテトを拾う。


 いつもの店だった。


 少なくとも、午後一時四十分までは。


「秩序ちゃん」


 渾沌ちゃんがモップを止めた。


「何ですか」


「ここ、拭けない」


 四人掛けのテーブル。


 窓際。


 椅子は四脚ある。


 渾沌ちゃんは、そのうち何もない一席を避けるようにモップを動かしていた。


「何をしているんですか」


「分かんない」


「では普通に拭いてください」


「やってみる」


 モップを入れる。


 柄が止まった。


 空中で。


 何かに当たったように。


「……いる」


「決めつけないでください」


 秩序ちゃんがしゃがむ。


 椅子の位置。

 床。

 テーブルの縁。


 異常なし。


 手を伸ばす。


 何もない。


 さらに奥。


 指先だけが、冷たくなった。


 引く。


「触った?」


「温度差があります」


「冷たい人?」


「人とも限りません」


 秩序ちゃんはテーブル上の伝票を確認した。


 三名。


 実際に座っている客も三名。


 父親。

 母親。

 小さな女の子。


 四席目は空いている。


「すみません」


 母親が顔を上げた。


「はい?」


「こちらの席、どなたかお使いですか」


 母親は空席を見る。


 一瞬。


 ほんの一瞬だけ、答えるのが遅れた。


「……いいえ」


 女の子がポテトを食べながら言った。


「いるよ」


 父親の手が止まる。


「こら」


「だっているもん」


 女の子は空席へ一本差し出した。


「はい」


 ポテトが消えた。


 床には落ちなかった。


 渾沌ちゃんが目を丸くする。


「食べた」


 秩序ちゃんはすぐ空席の下を見る。


 ない。


「もう一本あげていい?」


「待ってください」


「なんで?」


「確認します」


 女の子ではなく。


 秩序ちゃんは両親を見た。


 二人とも空席を見ない。


 見ないようにしている。


「以前は、四人で来店されていましたか」


 母親の指が紙カップを強く握った。


 父親が答える。


「三人です」


「ずっと?」


「はい」


 女の子が言った。


「お兄ちゃんも」


 沈黙。


 店内のBGMだけが、妙に明るかった。


 ◇


 休憩室。


 秩序ちゃんは過去の注文記録を開いた。


 同じ会員番号。

 同じ曜日。

 同じ時間帯。


 注文人数。


 三。

 三。

 三。


 ずっと三。


「じゃ、いない?」


「記録上は」


「でも食べたよ」


「それも確認しました」


 渾沌ちゃんが紙袋からポテトを一本出した。


「何ですか、それ」


「検証用」


「いつ買ったんですか」


「さっき」


「勤務中に勝手に検証用を買わないでください」


「お金払ったよ」


 言いながら客席へ戻る。


「渾沌ちゃん」


「見るだけ」


 空席の前。


 ポテトを一本置く。


 何も起きない。


「ほら」


「何が、ほら、ですか」


「私のは食べない」


 女の子が椅子から降りた。


 自分のポテトを一本取る。


 空席へ置く。


 消えた。


「妹からしか食べない」


 母親が立ち上がった。


「もう帰ります」


 声が震えていた。


 父親も財布を出す。


 女の子だけが動かない。


「まだ食べてるよ」


「行くぞ」


「お兄ちゃんは?」


 父親の顔から色が消えた。


「いない」


「いるよ」


「いないんだ」


 その言葉で。


 空席の椅子が、少しだけ後ろへ下がった。


 ぎ。


 誰も触っていない。


 秩序ちゃんは椅子を見た。


 渾沌ちゃんも、もう笑っていなかった。


「お父さん」


 秩序ちゃんが静かに言う。


「確認したいことがあります」


「何ですか」


「その席を空けておくことに、不都合はありますか」


 父親が唇を噛む。


「……忘れたいんです」


 女の子には聞こえないくらいの声だった。


「妻も。俺も」


「亡くなられたんですか」


 返事はない。


 それで十分だった。


 秩序ちゃんは注文端末を取る。


 人数。


 三。


 指が止まる。


 四にはしなかった。


 代わりに備考欄へ入力する。


《空席一》


「記録、変えないの?」


 渾沌ちゃんが聞く。


「三名で来店されています」


「じゃあれは?」


「分かりません」


 秩序ちゃんは端末を閉じた。


「分からないものを、人に数えません」


 それから空席を見る。


「ただし、ないことにも、しません」


 母親が顔を伏せた。


 女の子が笑った。


「お兄ちゃん、席あるって」


 空席の前。


 テーブルの表面が、ほんの少し曇った。


 小さな指で書いたような線が一本。


 丸。


 その下に二本。


 下手な笑顔。


 ◇


 家族が帰った後。


 渾沌ちゃんは四席目だけ最後まで拭かなかった。


「掃除してください」


「もういないよ」


「なら拭けます」


「違う」


 渾沌ちゃんは窓を見る。


「次の人が座るかもしれないから」


 秩序ちゃんは少し考えた。


「……五分だけです」


「十分」


「五分です」


 その時。


 ポケットの中で、二本の鍵が鳴った。


 かち。


 取り出す。


《入口》にも。

《出口》にも。


 新しい文字が刻まれている。


《一席》


「増えた」


「増えていません」


「書いてあるよ」


「鍵の数は二本のままです」


 秩序ちゃんは空席を見る。


 そこにはもう何もない。


 冷たくもない。


 モップも通る。


 完全な空席だった。


 五分後。


 若い男が一人で来店した。


「ここ、いいですか」


 四席目を指す。


 渾沌ちゃんが秩序ちゃんを見る。


 秩序ちゃんは頷いた。


「どうぞ」


 男が座る。


 何も起きない。


 ただ。


 男がトレーを置いた瞬間。


 店の奥。


 壁も扉もない場所から。


 もう一脚だけ。


 椅子を引く音がした。


 ぎ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。