第22話「席をひとつ、空けておいてください」
雨の世界から戻ると、昼だった。
銀行と薬局の間の路地を抜けたはずなのに、二人が出たのはいつものぱんでむの厨房だった。
フライヤーが鳴っている。
冷蔵庫が唸っている。
客席から、子供の笑い声。
あまりに普通だった。
「帰ってきた」
渾沌ちゃんが靴底を見る。
濡れていない。
「鍵は?」
秩序ちゃんが自分のポケットを確認する。
二本ともある。
《入口》
《出口》
重ねたまま。
「今日は触らないでください」
「今日は?」
「少なくとも今日です」
「明日は?」
「今、増やさないでください」
客席から呼び出しベルが鳴った。
ぴん。
二人とも反射的にそちらを見る。
「……仕事しますか」
「する」
◇
昼のピークが過ぎた。
トレーを下げる。
テーブルを拭く。
床に落ちたポテトを拾う。
いつもの店だった。
少なくとも、午後一時四十分までは。
「秩序ちゃん」
渾沌ちゃんがモップを止めた。
「何ですか」
「ここ、拭けない」
四人掛けのテーブル。
窓際。
椅子は四脚ある。
渾沌ちゃんは、そのうち何もない一席を避けるようにモップを動かしていた。
「何をしているんですか」
「分かんない」
「では普通に拭いてください」
「やってみる」
モップを入れる。
柄が止まった。
空中で。
何かに当たったように。
「……いる」
「決めつけないでください」
秩序ちゃんがしゃがむ。
椅子の位置。
床。
テーブルの縁。
異常なし。
手を伸ばす。
何もない。
さらに奥。
指先だけが、冷たくなった。
引く。
「触った?」
「温度差があります」
「冷たい人?」
「人とも限りません」
秩序ちゃんはテーブル上の伝票を確認した。
三名。
実際に座っている客も三名。
父親。
母親。
小さな女の子。
四席目は空いている。
「すみません」
母親が顔を上げた。
「はい?」
「こちらの席、どなたかお使いですか」
母親は空席を見る。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、答えるのが遅れた。
「……いいえ」
女の子がポテトを食べながら言った。
「いるよ」
父親の手が止まる。
「こら」
「だっているもん」
女の子は空席へ一本差し出した。
「はい」
ポテトが消えた。
床には落ちなかった。
渾沌ちゃんが目を丸くする。
「食べた」
秩序ちゃんはすぐ空席の下を見る。
ない。
「もう一本あげていい?」
「待ってください」
「なんで?」
「確認します」
女の子ではなく。
秩序ちゃんは両親を見た。
二人とも空席を見ない。
見ないようにしている。
「以前は、四人で来店されていましたか」
母親の指が紙カップを強く握った。
父親が答える。
「三人です」
「ずっと?」
「はい」
女の子が言った。
「お兄ちゃんも」
沈黙。
店内のBGMだけが、妙に明るかった。
◇
休憩室。
秩序ちゃんは過去の注文記録を開いた。
同じ会員番号。
同じ曜日。
同じ時間帯。
注文人数。
三。
三。
三。
ずっと三。
「じゃ、いない?」
「記録上は」
「でも食べたよ」
「それも確認しました」
渾沌ちゃんが紙袋からポテトを一本出した。
「何ですか、それ」
「検証用」
「いつ買ったんですか」
「さっき」
「勤務中に勝手に検証用を買わないでください」
「お金払ったよ」
言いながら客席へ戻る。
「渾沌ちゃん」
「見るだけ」
空席の前。
ポテトを一本置く。
何も起きない。
「ほら」
「何が、ほら、ですか」
「私のは食べない」
女の子が椅子から降りた。
自分のポテトを一本取る。
空席へ置く。
消えた。
「妹からしか食べない」
母親が立ち上がった。
「もう帰ります」
声が震えていた。
父親も財布を出す。
女の子だけが動かない。
「まだ食べてるよ」
「行くぞ」
「お兄ちゃんは?」
父親の顔から色が消えた。
「いない」
「いるよ」
「いないんだ」
その言葉で。
空席の椅子が、少しだけ後ろへ下がった。
ぎ。
誰も触っていない。
秩序ちゃんは椅子を見た。
渾沌ちゃんも、もう笑っていなかった。
「お父さん」
秩序ちゃんが静かに言う。
「確認したいことがあります」
「何ですか」
「その席を空けておくことに、不都合はありますか」
父親が唇を噛む。
「……忘れたいんです」
女の子には聞こえないくらいの声だった。
「妻も。俺も」
「亡くなられたんですか」
返事はない。
それで十分だった。
秩序ちゃんは注文端末を取る。
人数。
三。
指が止まる。
四にはしなかった。
代わりに備考欄へ入力する。
《空席一》
「記録、変えないの?」
渾沌ちゃんが聞く。
「三名で来店されています」
「じゃあれは?」
「分かりません」
秩序ちゃんは端末を閉じた。
「分からないものを、人に数えません」
それから空席を見る。
「ただし、ないことにも、しません」
母親が顔を伏せた。
女の子が笑った。
「お兄ちゃん、席あるって」
空席の前。
テーブルの表面が、ほんの少し曇った。
小さな指で書いたような線が一本。
丸。
その下に二本。
下手な笑顔。
◇
家族が帰った後。
渾沌ちゃんは四席目だけ最後まで拭かなかった。
「掃除してください」
「もういないよ」
「なら拭けます」
「違う」
渾沌ちゃんは窓を見る。
「次の人が座るかもしれないから」
秩序ちゃんは少し考えた。
「……五分だけです」
「十分」
「五分です」
その時。
ポケットの中で、二本の鍵が鳴った。
かち。
取り出す。
《入口》にも。
《出口》にも。
新しい文字が刻まれている。
《一席》
「増えた」
「増えていません」
「書いてあるよ」
「鍵の数は二本のままです」
秩序ちゃんは空席を見る。
そこにはもう何もない。
冷たくもない。
モップも通る。
完全な空席だった。
五分後。
若い男が一人で来店した。
「ここ、いいですか」
四席目を指す。
渾沌ちゃんが秩序ちゃんを見る。
秩序ちゃんは頷いた。
「どうぞ」
男が座る。
何も起きない。
ただ。
男がトレーを置いた瞬間。
店の奥。
壁も扉もない場所から。
もう一脚だけ。
椅子を引く音がした。
ぎ。




