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第21話「入口と出口は、離さないでください」


 雨の向こうに、三十七の赤い看板が灯っていた。


 道は全部、違う方向へ伸びている。


 石畳。

 階段。

 水面。

 草原。

 途中から空へ折れているものまである。


 秩序ちゃんは動かなかった。


「まず一つです」


「三十七あるよ」


「だから一つです」


 渾沌ちゃんは名札の裏から小さな鍵を外した。


《出口》


「これ、どこに挿すの?」


「まだ挿さないでください」


「穴ないけど」


「なおさらです」


 秩序ちゃんの鍵には《入口》。


 形は同じ。

 歯だけが逆だった。


 雨が二人の袖を濡らす。


 三十七の看板のうち、一番近いものが一度だけ明滅した。


 その下。


 何もなかった空間に、鍵穴が浮いた。


「出た」


 渾沌ちゃんが一歩出る。


 秩序ちゃんが袖を掴んだ。


「私が先です」


「入口だから?」


「確認するからです」


 鍵を挿す。


 回す。


 音はしなかった。


 代わりに。


 雨が四角く止まった。


 縦二メートルほど。

 幅一メートル。


 その範囲だけ、水滴が空中で静止している。


 秩序ちゃんが手を伸ばす。


 指先が消えた。


「感覚はあります」


「向こう何?」


「見えません」


「じゃ入ろ」


「待ってください」


 言い終わる前に。


 向こう側から、人の手が出てきた。


 細い腕。

 買い物袋。


 続いて、女の人が一人。


「すみません」


 雨の世界へ踏み出して、困ったように振り返る。


「ここ、駅ですか?」


「違います」


 秩序ちゃんが答えた。


 女の後ろから、もう一人。


 さらに一人。


 制服の学生。

 老人。

 自転車を押した男。


「閉めます」


 秩序ちゃんが鍵を戻そうとする。


 回らない。


《入口使用中》


「使用中?」


 人が増える。


 十人。

 二十人。


 雨の中へ吐き出されてくる。


「渾沌ちゃん、出口を」


「どこに?」


「人のいない方向へ」


「どこでもいい?」


「まだ分かりません!」


 渾沌ちゃんは笑った。


「じゃ、試す」


 走った。


「離れないでください!」


 遅い。


 渾沌ちゃんは三本隣の赤い看板まで駆け、雨の中へ鍵を突き出した。


 そこにも鍵穴が出た。


 回す。


 雨が四角く止まる。


 向こうは、晴れていた。


 白い砂浜。

 青い海。


「出口できた!」


「こちらへ誘導してください!」


「はーい!」


 人々が砂浜へ向かう。


 最初は、それでよかった。


 入口から来る。

 出口へ流す。


 ただ。


 二人の間が、少しずつ伸び始めた。


 十メートル。


 二十メートル。


 石畳が増えている。


「渾沌ちゃん!」


「聞こえてる!」


 三十メートル。


 間に、カウンターが一つ現れた。


 誰も使っていない。


 四十メートル。


 照明。

 メニュー板。

 ベンチ。


 五十メートル。


 フライヤーの匂い。


「動かないでください!」


「私、動いてない!」


 渾沌ちゃんは両手を上げた。


 それでも距離は増える。


 二人の間だけが、店になっていく。


 雨の街ではない。


 客席。

 厨房。

 倉庫。

 知らない廊下。


 次々と挟まっていく。


 入口から出てきた人々は、途中から足を止め始めた。


「出口、遠くない?」


「走ってください!」


 秩序ちゃんが声を張る。


 百メートル。


 もう渾沌ちゃんの顔が見えない。


 赤い看板だけが小さく揺れている。


「秩序ちゃん!」


「聞こえています!」


「そっち何人?」


「まだ来ています!」


「こっち出てる!」


 その瞬間。


 入口側の女の人が、秩序ちゃんの腕を掴んだ。


「子どもがいないんです」


 振り返る。


 さっきまで手を繋いでいたらしい。


 小さな黄色い傘だけが、人波の中で逆方向へ流れていた。


「渾沌ちゃん!」


「なに!」


「止めてください!」


「どうやって!」


 秩序ちゃんは鍵を見る。


《入口使用中》


 渾沌ちゃんの声。


「そっち行く!」


「待って、出口が」


 返事がなかった。


 遠くの赤い看板が動いた。


 こちらへ。


 渾沌ちゃんが走ってくる。


 出口の鍵を持ったまま。


 その背後で、砂浜への四角い穴も一緒に動いていた。


「動くんですか!?」


「私についてくる!」


「先に言ってください!」


「今わかった!」


 走る。


 出口が店内を横切る。


 客席の壁を抜ける。

 厨房の鉄板を抜ける。

 倉庫の棚を抜ける。


 触れた場所から順番に消えていく。


 出口が通った後だけ、雨へ戻る。


「これ使える!」


「人に当てないでください!」


「分かってる!」


 渾沌ちゃんが人波の横を走る。


 出口を近づける。


 秩序ちゃんは入口側で列を二つに割る。


「黄色い傘を先に!」


「いた!」


 渾沌ちゃんがしゃがむ。


 子どもの手を取る。


「お母さん、あっち!」


 出口ではなく。


 秩序ちゃんの方へ押し返す。


 子どもが走る。


 女が抱きとめた。


 その瞬間。


 二人の間の距離が、急に縮んだ。


 百メートル。

 五十。

 二十。


 店が畳まれていく。


 壁が消える。

 厨房が消える。

 客席が雨になる。


「渾沌ちゃん、こっちへ!」


「行ってる!」


 最後の客が砂浜へ抜ける。


 渾沌ちゃんが秩序ちゃんの隣へ滑り込んだ。


 二つの鍵が触れた。


 かち。


 初めて。


 鍵らしい音がした。


 入口が閉じる。


 出口も閉じる。


 雨だけが残った。


 ◇


「離したら店が伸びた」


 渾沌ちゃんが鍵を見ている。


「正確には、二つが離れた距離に設備が発生しました」


「同じじゃない?」


「違います」


「じゃもう一回」


「しません」


 即答だった。


 名札が鳴る。


《営業記録》


《入口:秩序》

《出口:渾沌》


《最大店舗長:127.4m》


 その下。


《最小店舗長:0m》


 渾沌ちゃんが一歩横へずれた。


 表示。


《0.8m》


 秩序ちゃんが無言で腕を掴み、戻した。


《0m》


「近い」


「必要です」


「ずっと?」


 秩序ちゃんは答えず、二つの鍵を外した。


 自分の《入口》。

 渾沌ちゃんの《出口》。


 重ねて、同じポケットへ入れる。


 雨の向こうに灯っていた三十七の看板が、一斉に消えた。


 代わりに。


 二人の足元。


 靴と靴の、ほんの数センチの隙間だけに。


 小さな赤い看板が灯った。

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