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第20話「店がないなら、ここで開けます」


 午前六時二十分。


 銀行と薬局の間には、昨日と同じ細い路地しかなかった。


 シャッター。

 室外機。

 濡れた段ボール。


 店はない。


 秩序ちゃんはレシートとスマートフォンを交互に見た。


「あと一分」


「来るかな」


「来る、とは限りません」


 渾沌ちゃんは路地の奥を覗く。


「じゃ私たちが行く?」


「どこへですか」


「勤務先」


「それが分からないんです」


 六時二十一分。


 ぴ。


 二人の胸元で、同時に音がした。


 制服の名札。


 何も触れていないのに、文字が一行増えている。


《出勤》


「した」


「場所もないのに……」


 その直後。


 路地の奥から、雨の匂いがした。


 朝の東京には降っていない雨だった。


 ◇


 一歩進む。


 靴底が、水を踏んだ。


 二歩目。


 空が消えた。


 そこは、雨しかない世界だった。


 地面はある。

 石畳もある。

 街灯もある。


 ただ、屋根がない。


 建物は壁だけを残し、上へ伸びるほど薄くなって雨に溶けていた。


 通りには数十人。


 全員が傘を差している。


 そして。


 全員が、何もない場所へ一列に並んでいた。


「いらっしゃった」


 先頭の老婆が言った。


「今日は遅かったね」


 秩序ちゃんが周囲を見る。


 看板なし。

 カウンターなし。

 厨房なし。


「何を待っているんですか」


 老婆は首を傾げた。


「ぱんでむを」


 渾沌ちゃんが笑った。


「私たちだって」


「まだ決めないでください」


 秩序ちゃんは名札を見る。


《出勤》


 それだけ。


 老婆の後ろでは、子供が傘の柄を両手で握っている。


 さらに後ろ。

 濡れた作業着の男。

 籠を抱えた女。

 眠そうな学生。


 誰も騒いでいない。


 店がないことを、困っている様子もなかった。


「昨日は?」


 秩序ちゃんが聞く。


「赤い橋だったよ」


「一昨日は?」


「犬」


「犬?」


「大きいの」


 渾沌ちゃんが目を輝かせる。


「見たかった」


「そこではありません」


「じゃ今日は何?」


 老婆が二人を見る。


「それを待ってるんだけど」


 雨が、名札を叩いた。


 ぴ。


 文字が増える。


《営業形態を確定してください》


 その下。


《建物》

《車両》

《生物》

《その他》


 渾沌ちゃんが指を出す。


「押さないでください」


「その他気になる」


「だからです」


 秩序ちゃんは列を見る。


 雨脚が強くなっている。


 先頭の老婆の傘から、一筋、水が落ちる。


 その後ろの子供がくしゃみをした。


「まず、条件を確認します」


「まだ?」


「まだです」


 秩序ちゃんは石畳、列、路地の幅、雨の流れを見る。


 建物を出せば、通りを塞ぐ。


 車両なら列が動く。


 生物は、昨日の犬とやらがどういうものか分からない。


 考えている間に。


「一個ください」


 渾沌ちゃんが言った。


「何をしているんですか」


「注文聞いてる」


 老婆が笑う。


「いつもの」


「いつもの分かんない」


「じゃ、今日の」


「それなら分かる」


「分かるんですか?」


「今から決める」


 渾沌ちゃんは近くに落ちていた木箱を引き寄せた。


 ひっくり返す。


 台になる。


 自分の傘を、その上へ横向きに置く。


「カウンター」


「雑です」


「でも濡れないよ」


 確かに、木箱の上だけ雨が避けられた。


 老婆が財布を出す。


 秩序ちゃんは一瞬だけ閉じた目を開いた。


「……渾沌ちゃん。箱を十センチ右へ」


「開ける?」


「列を塞いでいます」


 渾沌ちゃんが動かす。


 秩序ちゃんは列の横へ回り、傘の重なり方を変えた。


「次の方は、ここまで詰めてください。通路を空けます」


「はーい」


 誰かが答えた。


 その瞬間。


 木箱の下から、じゅう、と音がした。


 見る。


 石畳の隙間に鉄板がある。


 さっきまではなかった。


「出た」


「触らないでください」


「焼くのに?」


「……火傷しないように、です」


 鉄板の隣に、小さな保温庫。


 傘の柄には注文票。


 木箱の側面にレジ。


 誰かが場所を決めたわけではない。


 二人が仕事を始めたところだけ、店になっていく。


 ◇


「次」


「二つ。辛くないやつ」


「飲み物いる?」


「雨で十分」


「それ飲んじゃだめじゃない?」


 渾沌ちゃんが笑いながら包む。


 秩序ちゃんは会計を取り、列を崩し、濡れた注文票を乾いた位置へ移す。


 厨房は三歩分しかない。


 客が一人進むたび、必要な場所だけ現れた。


 グリル。

 棚。

 袋。


 使い終わると、雨へ戻る。


 店を建てるのではなく。


 営業した跡だけが、店だった。


 最後は、さっきの子供だった。


 背伸びして木箱へ硬貨を置く。


「ひとつ」


「辛いの?」


「だめ」


「じゃ甘いの」


「バーガーで?」


「できるよ」


「できるんですか?」


「今から」


「そのやり方、やめませんか」


 言いながら。


 秩序ちゃんは保温庫の一番下に、見覚えのない小瓶を見つけていた。


 蜂蜜の匂い。


 渾沌ちゃんへ渡す。


「少量にしてください」


「協力してる」


「安全確認です」


 子供が受け取る。


 一口。


 笑った。


 それだけで、列がなくなった。


 老婆も。

 作業着の男も。

 学生も。


 雨の向こうへ、それぞれ歩いていく。


 木箱だけが残った。


「閉店?」


「勤務時間の指定はありませんでした」


 ぴ。


 名札。


《退勤》


 続いて。


《営業実績》


 客数、三十七。


 売上。


 提供数。


 その下。


《店舗面積 0㎡》


 秩序ちゃんの指が止まる。


 さらに一行。


《営業形態 2名》


「二人店」


 渾沌ちゃんが言った。


「店ではありません」


 雨音が一度、強くなった。


 木箱が溶ける。


 鉄板も。

 レジも。

 傘の下の乾いた空気も。


 全部、雨へ戻る。


 二人だけが残った。


 名札から《退勤》の文字が消える。


 その裏側に。


 小さな鍵が、一つずつ縫い付けられていた。


 秩序ちゃんの鍵には。


《入口》


 渾沌ちゃんの鍵には。


《出口》


 二人が同時に顔を上げる。


 雨の向こう。


 さっきまで客が帰っていった三十七本の道、その全部に。


 赤い看板が灯った。

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