第19話「明日の客は、今日まだ来ていない」
六時十二分。
世界は、ちゃんと六時十二分だった。
信号は変わる。
バスは来る。
犬は一度しか吠えない。
秩序ちゃんは歩道の端でスマートフォンを三度確認してから、ようやく画面を消した。
「進んでる?」
「進んでいます」
「よかったね」
「あなたはもう少し警戒してください」
渾沌ちゃんは返事の代わりに、昨日の紙袋を制服のポケットへ押し込んだ。
「それ、持っていくんですか」
「来年また使うかも」
「袋をですか?」
「おかわり入れてもらう」
「一年後まで保存するつもりですか」
「うん」
秩序ちゃんは何か言いかけて、やめた。
二人は店へ戻らず、駅前まで歩いた。
店外席が街ひとつなら、まず席の端を確認する。
秩序ちゃんが決めた。
渾沌ちゃんは朝市があるから賛成した。
目的は一致していなかった。
◇
駅前広場には、もう人がいた。
通勤客。
学生。
段ボールから野菜を並べる朝市の店主。
湯気の立つスープ。
焼いた魚。
果物。
世界が普通に朝をしている。
渾沌ちゃんは串に刺さった焼き芋を買った。
「朝ごはん食べたでしょう」
「あれ明日だったから」
「今朝です」
「じゃこれは今日の朝ごはん」
「増えています」
その時だった。
渾沌ちゃんの足元へ、紙が一枚滑ってきた。
白い。
細長い。
レシート。
渾沌ちゃんが拾う。
「秩序ちゃん」
「触る前に呼んでください」
「もう触った」
「でしょうね」
秩序ちゃんが受け取る。
店名。
《PANDEMONIUM BURGER》
注文。
《チーズバーガー 1》
《ホットコーヒー 1》
合計、六百八十円。
異常らしいものはない。
ただし。
印字された時刻は。
明日。
午前六時二十七分。
「十五分後」
渾沌ちゃんが言った。
「明日の、です」
「待ってみる?」
「待ちません。まず周囲を確認します」
秩序ちゃんはレシートを折らず、朝市でもらった紙皿の下へ置いた。
風で飛ばない。
誰にも踏まれない。
時刻が見える。
「現状を固定します」
「レシート一枚に大げさ」
「一枚だから分離して確認するんです。他まで同じとは扱いません」
渾沌ちゃんは焼き芋を齧りながら、広場を見た。
「じゃ、あの人は?」
ベンチ。
一人の少女が座っていた。
制服姿。
高校生くらい。
膝に紙袋。
ぱんでむの袋だった。
◇
「すみません」
秩序ちゃんが声をかける。
少女は顔を上げた。
「はい?」
「その袋、どこで受け取りましたか」
「え」
少女は紙袋を見る。
「そこのお店ですけど」
指差した。
駅前広場の向こう。
銀行と薬局の間。
そこには、小さなぱんでむがあった。
二人とも黙った。
赤い看板。
ガラス窓。
朝の光。
見慣れた店。
ただし。
二人が働いている店は、ここから歩いて十五分ほど離れている。
「増えた」
渾沌ちゃんが嬉しそうに言う。
「喜ばないでください」
「二号店?」
「知りません」
秩序ちゃんは少女へ向き直る。
「いつ買いました?」
「さっきです」
「何時頃ですか」
「六時半くらい?」
秩序ちゃんの指が止まる。
現在。
六時十七分。
「まだです」
「え?」
「いえ」
少女は不思議そうにスマートフォンを見た。
画面。
六時三十二分。
秩序ちゃんのスマートフォン。
六時十七分。
渾沌ちゃんも自分のを出した。
六時十七分。
三人。
同じ広場。
違う朝。
「面白い」
「渾沌ちゃん」
「だって、十五分先にいる」
少女は二人を交互に見た。
「何の話ですか?」
紙袋の中からコーヒーを出す。
まだ湯気が立っていた。
そのカップの側面。
《6:27》
秩序ちゃんは駅前の時計を見る。
六時十八分。
「店へ行きます」
「未来の?」
「そう呼ぶのはまだ早いです」
「じゃ十五分店」
「余計にややこしいです」
◇
道路を渡る。
ぱんでむはそこにある。
自動ドアも開いた。
店内。
普通だった。
四人掛けの席が六つ。
カウンター。
メニュー。
油の匂い。
客が三人。
クルーはいない。
レジだけが動いている。
《いらっしゃいませ》
「誰もいない」
渾沌ちゃんがカウンターの中を覗く。
「入らないでください」
「まだ入ってない」
「その足を戻してください」
片足だけ厨房側へ出ていた。
戻す。
秩序ちゃんはレジを見る。
時刻。
六時二十七分。
自分のスマートフォン。
六時二十一分。
差が縮んでいる。
「さっき十五分だった」
「今は六分です」
「追いついてる?」
秩序ちゃんは答えない。
レジの横。
完成済みの商品が二つ置かれていた。
チーズバーガー。
ホットコーヒー。
受け取り番号。
《27》
そして。
レシート。
駅前で拾ったものと同じ注文。
「これ、さっきの子の」
「触らないでください」
入口。
自動ドアが開く。
あの少女が入ってきた。
「すみません、注文したやつ……」
秩序ちゃんが振り返る。
少女の手には。
すでに同じ紙袋。
同じコーヒー。
飲みかけ。
少女自身も、それに気づいた。
「……あれ?」
レジ。
《27番のお客様》
カウンターの商品。
少女の手の商品。
同時に。
紙袋の底から。
ぽたり。
コーヒーが一滴落ちた。
床に二つ。
同じ染みができた。
「私」
少女の声が小さくなる。
「もう、受け取ってますよね」
秩序ちゃんはすぐに答えなかった。
怖がらせないためではない。
まだ証拠が足りない。
代わりに。
「その袋を置かないでください。今持っている方を、そのまま持っていてください」
「はい……」
渾沌ちゃんがレジへ近づいた。
「これ、渡さなかったらどうなる?」
「試さないでください」
「聞いただけ」
レジが答えた。
《未提供の場合、未受領になります》
「普通」
《受領済みの商品も未受領になります》
秩序ちゃんが画面を見る。
「……触れないでください」
今度は渾沌ちゃんも、触らなかった。
少女の紙袋。
ゆっくり。
透明になり始めていた。
中のバーガーも。
コーヒーも。
「消える」
「提供しないと、受け取った事実が消えるんです」
少女が紙袋を抱える。
「困ります」
二人が見る。
「これ、弟のなんです」
少女は透明になりかけたバーガーを見た。
「今日、朝から病院で。何も食べてないって言うから」
秩序ちゃんの視線が、カウンターの商品へ戻る。
世界の仕組み。
未来。
観測。
そんなものより。
今ここで消えかけている朝食の方が、急に重くなった。
「秩序ちゃん」
渾沌ちゃん。
もう笑っていない。
「渡そ」
秩序ちゃんは一秒だけ考えた。
「……はい」
二人でカウンターの中へ入る。
今度は止めなかった。
秩序ちゃんが紙袋を開く。
渾沌ちゃんがバーガーを入れる。
コーヒー。
「これは弟さん用ではないでしょう」
「私のです」
「では一緒に」
袋を閉じる。
少女へ渡す。
「お待たせしました」
少女が受け取った。
瞬間。
手に持っていた透明な袋が消えた。
新しい袋だけが残る。
駅前の時計。
六時二十七分。
秩序ちゃんのスマートフォン。
六時二十七分。
渾沌ちゃんのスマートフォン。
六時二十七分。
全部。
揃った。
「追いついた」
渾沌ちゃんが言う。
少女は何も知らず、頭を下げた。
「ありがとうございます」
走っていく。
店を出る。
朝の人波へ消える。
ぱんでむの看板が。
朝日に透けた。
一度。
二度。
そして消えた。
そこには銀行と薬局の間の細い路地しかなかった。
秩序ちゃんは、何もない場所に立っていた。
「店、なくなったね」
「はい」
「帰る?」
秩序ちゃんは足元を見る。
レシートが一枚。
拾う。
今度の日付は。
今日。
時刻。
六時二十七分。
注文内容。
《チーズバーガー 1》
《ホットコーヒー 1》
その下。
《提供者》
秩序。
渾沌。
さらに。
《勤務開始》
渾沌ちゃんが覗く。
「バイトしたことになってる」
「六分だけです」
「給料出るかな」
「そこですか?」
「大事だよ」
秩序ちゃんはレシートを裏返した。
裏面。
小さな文字。
《明日の人員が不足しています》
その下に。
二人の勤務時刻が印字されていた。
明日。
午前六時二十一分。
秩序ちゃんは無言でレシートを畳んだ。
「捨てる?」
「保管します」
「行くの?」
「まだ決めていません」
「じゃ明日決めよ」
「明日になってからでは遅い可能性があります」
「でも」
渾沌ちゃんは、朝の空を見上げた。
「明日、あるんでしょ?」
秩序ちゃんも見る。
昨日まで、それすら保証されていなかった空。
今日は。
ちゃんと青かった。
「……今のところは」
二人は歩き出した。
その後ろで。
何もない路地の奥から。
開店前のフライヤーが温まる音だけがした。




