第18話「明日がなければ、袋を開けてください」
午前五時五十九分。
秩序ちゃんのスマートフォンは、十分歩いても同じ時刻を表示していた。
「壊れた?」
渾沌ちゃんが覗き込む。
「秒は動いています」
五十八。
五十九。
零。
表示は、また五時五十九分五十八秒へ戻った。
「二秒しかない朝」
「朝ですらありません」
空は夜と朝の境目で止まっていた。群青の下に細い橙色がある。そこから明るくならない。
交差点では新聞配達の自転車が三度同じ角を曲がった。
向かいのコンビニでは自動ドアが開き、同じ会社員が入り、同じ缶コーヒーを取り、同じ小銭を落とす。
ちゃりん。
十数秒後。
また、ちゃりん。
「……帰宅、できてませんね」
「外には出たよ」
「店外席です」
「広い席だね」
渾沌ちゃんは道路の端から端まで見渡した。
「街ひとつ」
秩序ちゃんは返さなかった。
昨日までなら、こういう時は店へ戻って調べた。
今、その店へ入れば、また客として数えられるかもしれない。
それでも。
秩序ちゃんは踵を返した。
「戻ります」
「店に?」
「取りに行くものがあります」
◇
正面入口は使わなかった。
二人は建物の裏へ回り、搬入口の銀色の扉を開けた。
厨房は静かだった。
鉄板も。
フライヤーも。
さっきまで二人を調理していた機械は、何事もなかった顔で冷えている。
秩序ちゃんはカウンター脇の保管棚を開けた。
一番上。
透明な保存容器の隣。
小さな紙袋。
世界渡し祭の老人が渡したもの。
袋には、老人の丸い字で書いてあった。
《明日》
《もしあれば》
《朝ごはんに》
「忘れてた」
「忘れてはいません」
「開けなかっただけ?」
「得体の知れないものを朝食にしないでください」
「今さら?」
返す言葉がなかった。
紙袋は温かい。
昨日からずっと。
秩序ちゃんが口を少し開く。
焼いた小麦。
柑橘。
ほんの少し、雨の匂い。
祭りの世界と同じだった。
中には二つ。
掌に収まる、小さな丸いパン。
切れ目から黄金色の何かが覗いている。
「二個ある」
「見ればわかります」
「私たちの分かな」
「そうでしょうね」
渾沌ちゃんが一つ取った。
「待ってください」
「冷めるよ」
「昨日から温かいものが今さら冷めますか」
渾沌ちゃんはパンを持ったまま、店の裏口から外を見る。
空。
群青。
橙。
動かない。
「明日って」
パンを少し持ち上げた。
「取っとくもの?」
秩序ちゃんは何も言わなかった。
渾沌ちゃんが齧った。
さく。
軽い音。
その瞬間。
道路の向こうで、朝日が一本だけ伸びた。
「……渾沌ちゃん」
「おいしい」
「そこではなく」
橙色の光が、細い帯になって交差点を横切っている。
光の中へ入った信号だけが変わった。
赤。
青。
新聞配達の自転車が、今度は角を曲がったまま戻ってこなかった。
コンビニの会社員が缶コーヒーを持って外へ出た。
光の外。
別の会社員がまだ同じ小銭を落としている。
ちゃりん。
秩序ちゃんは自分のパンを見た。
「一口で……範囲が進んだ?」
「食べればいいじゃん」
「単純に決めないでください」
「じゃ残す?」
秩序ちゃんは止まった。
パン。
空。
道路。
繰り返し角を曲がる車。
遠くで、同じ犬が同じ場所へ三度吠えた。
老人の声が蘇る。
明日。
もしあれば。
「……半分ずつにしてください」
「私もう食べた」
「残りをです」
「はいはい」
秩序ちゃんも齧った。
柔らかい。
中の黄金色は卵でもチーズでもなかった。
味を言葉にしようとした瞬間、窓の外が明るくなった。
六時。
街中の時計が一斉に鳴る。
スマートフォン。
駅前。
コンビニ。
バス停。
電子看板。
全部。
六時零分零秒。
そして。
零一秒。
零二秒。
戻らない。
渾沌ちゃんがパンを食べながら笑った。
「朝になった」
「口に物を入れたまま喋らないでください」
「秩序ちゃんも食べてる」
「私は喋っていません」
店の裏で。
二人は残りを食べた。
朝日がビルの窓を一枚ずつ拾う。
停まっていた風が動いた。
ゴミ袋が歩道を擦る。
遠くでパン屋のシャッターが上がった。
世界は、何事もなかったように続きを始めた。
◇
空になった紙袋を、渾沌ちゃんが逆さに振った。
ぱら。
パン屑が一つ。
「ない」
「何を期待していたんですか」
「おかわり」
「ありません」
渾沌ちゃんは袋を畳もうとして。
止まった。
「秩序ちゃん」
「今度は何ですか」
「中」
紙袋の底。
今までパンに隠れていた場所。
小さな文字があった。
《また来年》
秩序ちゃんがしばらく見た。
「……一年分ではありませんでしたね」
「朝ごはん一回分だった」
「そういう問題でしょうか」
渾沌ちゃんは袋を丁寧に畳んだ。
今度は捨てなかった。
朝の街を、二人で歩き出す。
六時三分。
六時四分。
時間は普通に進んでいた。
角を曲がる直前。
秩序ちゃんが一度だけ振り返る。
ぱんでむの裏口。
朝日に照らされた扉の下から。
細い紙片が一枚、風に押されて出てきた。
何も書かれていない。
ただ。
日付だけが。
今日ではなく。
明日だった。




