第16話「外側には、店がなかった」
最初に消えた継ぎ目は、窓だった。
ぱち。花柄の店が消える。ぱち。肉門。空中祭。葬送店。一つずつ暗くなる。
「閉じてる」
「はい」
「全部?」
「いいえ」
店内中央。一本だけ残っていた。髪の毛ほど細い線。向こうには、何も見えない。黒くない。白くない。暗闇でもない。焦点だけが合わない。
渾沌ちゃんが覗こうとした。秩序ちゃんが袖を引く。
「見に行きません」
「まだ聞いてない」
「顔が聞いています」
カウンターには昨日の写真。
《観測開始を確認》
《対象:外部》
「向こうに、ぱんでむがないから?」
「それだけではありません」
「じゃ?」
「ないものを、ある側の基準で調べるのは危険です」
「難しい」
「近づかないで、という意味です」
「それなら分かる」
かす。
二人とも黙った。継ぎ目の向こう。紙を擦るような音。
かす。かす。とん。
何かが押し出された。紙のように薄い透明な板。文字が浮かんでいる。
PANDEMONIUM
対象識別:失敗
既知実在との一致:なし
営業形態:検出不能
店舗構造:検出不能
クルー:検出不能
顧客:検出不能
PANDEMONIUM:未検出
「いないじゃん」
「…………」
文字が変わった。
《訂正》
PANDEMONIUM:観測不能
「いるかもしれない?」
「分かりません」
「いないかもしれない?」
「それも分かりません」
「便利な言葉だね」
「便利だから使っているわけではありません」
カシャ。
白い写真。
《外部観測 失敗》
もう一枚。今度は店内が写っていた。秩序ちゃん。渾沌ちゃん。その間に。知らない椅子。現実にはない。
次の写真。誰かが座っている。輪郭だけ。次。立っている。次。椅子だけ。
「秩序ちゃん」
「見ないでください」
「まだ何も」
「見ないで」
渾沌ちゃんが止まった。
秩序ちゃんの右肩。制服の布が。数ミリ。沈んだ。誰かの指。見えない。
「触られた?」
「はい」
「助ける?」
「まだ」
「分かった」
もう一度。肩。今度は、なぞるように。秩序ちゃんの息が浅くなる。
「何をしています」
返事はない。
「こちらを観測しているなら、目的を」
照明が消えた。
◇
何も見えない。
「秩序ちゃん」
「います」
「手」
「はい」
指先が触れる。握る。それだけが確かだった。
床が消えた。壁も。天井も。店も。握った手だけが残った。
「離さないでください」
「うん」
遠くに光があった。近づいてくる。文字。映像。音。知らない記憶。それらが重なり。一つの世界になった。
普通の街だった。
朝。女の人が起きる。歯を磨く。電車へ乗る。仕事をする。昼食。帰宅。眠る。
別の場所。子供が学校へ行く。友達と喧嘩する。仲直りする。大人になる。誰かと暮らす。老いる。死ぬ。
店はない。バーガーもない。クルーもいない。誰も困っていなかった。
「……普通」
「はい」
「ぱんでむ、なくても平気なんだ」
秩序ちゃんは答えなかった。
女の人は笑っていた。子供も。知らない老人も。ぱんでむを知らないまま。それぞれの日を生きていた。
時間が進む。街が変わる。人が入れ替わる。やがて。最初に見た人は誰もいなくなった。それでも生活は続く。
朝が来る。誰かが起きる。誰かが出かける。誰かが帰る。
「最後まで来ない?」
「そう見えます」
「昨日の写真と同じ」
「はい」
「寂しい?」
秩序ちゃんが隣を見る。渾沌ちゃんは世界を見ていた。
「誰がですか」
「秩序ちゃん」
少し間があった。
「……分かりません」
渾沌ちゃんが手を握り直した。それ以上は聞かなかった。
映像が消えた。
◇
店内へ戻っていた。床。壁。厨房。全部ある。二人の手も。まだ繋がっていた。
秩序ちゃんが離そうとする。渾沌ちゃんは離さない。
「もう戻りました」
「知ってる」
「では」
「もうちょっと」
「なぜですか」
「外、よく分かんないから」
秩序ちゃんは黙った。手は、そのままにした。
継ぎ目。まだ一本ある。
今度は声がした。
『ありがとうございます』
二人が固まる。男でも女でもない。機械でもない。聞いた者が理解できる形だけを持った声。
『外部を確認できました』
「あなたは誰ですか」
『質問が不正確です』
「では、何ですか」
長い沈黙。
『こちらからは』
継ぎ目が少し開いた。
『あなたたちも』
向こうに光。
『PANDEMONIUMに見えます』
渾沌ちゃんが自分を指す。
「私?」
『はい』
「秩序ちゃんも?」
『はい』
「店も?」
『はい』
「さっきの、ぱんでむがない世界も?」
沈黙。
『区別できません』
秩序ちゃんの眉が寄る。
「私たちには区別できます」
初めて。向こうの声が止まった。
「店と人は違います」
渾沌ちゃんを見る。
「この人と私は違います」
繋いだ手。
「違うから、繋いでいます」
光が揺れた。
『差異を、維持するのですか』
「必要なら」
『なぜ』
秩序ちゃんは答えようとした。だが。渾沌ちゃんが先だった。
「違う方が面白いから」
「…………」
『面白い』
「はい」
「秩序ちゃんも?」
「私に聞かないでください」
「面白くない?」
「今はそれを議論していません」
向こうの光が、ほんの少し変形した。笑ったようにも見えた。
『記録します』
継ぎ目が閉じる。ぱちん。
静かになった。
渾沌ちゃんが手を離した。
「私、店?」
「違います」
即答だった。
「さっき分かんないって」
「少なくとも、私は区別します」
「そっか」
レジが鳴った。
ピンポーン。
《新規来店》
客数 2
二人が見る。店内には。二人しかいない。
《ご注文をどうぞ》
渾沌ちゃんが笑った。
「向こうは区別してないみたい」
秩序ちゃんは額を押さえた。
「……営業を終了したいです」




