第13話「調理された世界から、客が来る」
暗闇の中で、何かが焼ける音がした。
じゅう。
鉄板ではない。
床の下からだった。
「渾沌ちゃん」
「いるよ」
「バーガーは?」
「持ってる」
「離さないでください」
「食べちゃだめ?」
「駄目です」
スマートフォンの明かりを点ける。
床はタイルへ戻っていた。壁も、レジも、作業台も普通の店だ。
渾沌ちゃんの手の中だけに、さっきのバーガーがある。
小さな街は消えていた。
普通のパティから、じゅう、と音がする。
レジが点灯した。
《この世界》
《調理完了》
《提供待ち》
「誰に?」
渾沌ちゃんが言った。
答えるように、自動ドアが開いた。
◇
外にあったのは、道路ではなかった。
もう一つの店内だった。
同じような客席。古いテーブル。黄ばんだ壁紙。半分切れた照明。
その奥にも自動ドアがある。
こちらの店と、古い店が一枚のガラスで繋がっていた。
「出ないでください」
「まだ出てない」
「足が出ています」
「足だけ」
渾沌ちゃんが戻る。
古い店のカウンターの陰から、一人の男が立ち上がった。
白髪。黒いエプロン。痩せた頬。
「……まだ、営業してるんですか」
「そこは、どこですか」
「店です」
「店名は」
男は背後を見た。
「そんなもの、あったかな」
秩序ちゃんは境界から動かなかった。
「こちらへ来ないでください」
「行きませんよ」
男は少し笑う。
「そっちには、外があるでしょう」
渾沌ちゃんの手の中を見た瞬間、その笑顔が消えた。
「それ」
男の指が震える。
「うちの町です」
秩序ちゃんはバーガーを見る。
もう町は見えない。
「なぜ分かるんですか」
「作ったからです」
男は、ひどく当たり前のことのように言った。
「注文が入って。道路を焼いて、家を挟んで、人を乗せて、最後に空を被せた」
「誰に提供したんですか」
「覚えてません」
「いつの話ですか」
「閉店前です」
「何日前ですか」
「閉店前です」
秩序ちゃんは聞くのをやめた。
男の店には、時間より先に閉店だけが残っている。
◇
渾沌ちゃんがバーガーを作業台へ置いた。
包装紙の底から、ソースが一滴落ちる。
じゅっ。
タイルの上へ、細い道路が生えた。
「秩序ちゃん」
「触らないでください」
道路脇に家が立つ。
信号。
街路樹。
人。
男がガラスの向こうから両手をついた。
「持っていかないでくれ」
「これは、あなたの世界ですか」
「だった」
男は言い直した。
「まだ、そうであってほしい」
秩序ちゃんの指が止まった。
レジには《提供する》の一つしかない。
押せば何が起きるのか分からない。
押さなくても、作業台の街は広がっていく。
渾沌ちゃんがしゃがんだ。
「小さい人、逃げてない」
住人たちは道路の両側へ並んでいた。
中央に、小さなPANDEMONIUMが立つ。
肉門から、二人の少女が出てきた。
一人はスマートフォン。
一人は紙袋。
こちらの二人と同じ。
秩序ちゃんのスマートフォンが手から滑る。
小さな秩序ちゃんも、同時に落とした。
今度は先でも、後でもなかった。
同時だった。
レジが鳴る。
《提供先を確認しました》
《当店》
「私たちが、客?」
渾沌ちゃんが聞く。
「決めません」
「じゃ、店?」
「それも決めません」
秩序ちゃんは《提供する》を押さなかった。
代わりに、作業台の端へトレーを一枚置いた。
「何してるの?」
「受け取る場所を作ります」
「誰の?」
「来る人のです」
小さな街から、一人の男が歩いてきた。
砂粒ほどの身体。
トレーの縁を越えた瞬間、人の大きさになる。
次に女。
子供。
制服姿の学生。
誰も注文しない。
ただ店へ入り、客席を通り、自動ドアから外へ出ていく。
古い店の男が、ガラスの向こうで見ていた。
「帰れるんだ」
渾沌ちゃんが言う。
「どこへかは分かりません」
「でも歩いてる」
「はい」
秩序ちゃんは、そこで止めなかった。
最後の一人が通るまで、トレーを動かさなかった。
◇
古い店の照明が、一つずつ消えていく。
男だけが残った。
「あなたは?」
秩序ちゃんが聞く。
男は首を振った。
「閉店作業が残ってます」
「もう客はいません」
「だからです」
男はカウンターへ戻る。
布巾を取る。
空のテーブルを一つ拭いた。
「持っていってください」
何を、と聞く前に、ガラスが曇った。
古い店が見えなくなる。
自動ドアが閉じた。
こちら側の作業台には、バーガーだけが残った。
もう熱くない。
中には何も見えない。
「終わった?」
「分かりません」
その時、客席側の自動ドアが開いた。
夜風。
道路。
いつもの街。
ただし、向かいのコンビニの壁にPANDEMONIUMの看板がある。
隣のビルにも。
交差点の先にも。
看板は増えているのに、道を歩く人々は誰も驚かない。
一人がこちらを見て言った。
「いらっしゃいませ」
次の人も。
「いらっしゃいませ」
声が街の奥へ伝わっていく。
秩序ちゃんはレジへ振り返った。
《この世界》
《調理完了》
《提供完了》
《ご来店ありがとうございます》
その下に、新しい注文が一件。
《次の世界》
渾沌ちゃんが息を吐いた。
「次、あるんだ」
「ありますね」
秩序ちゃんは、今度はすぐに画面へ触れなかった。




