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第13話「調理された世界から、客が来る」


 暗闇の中で、何かが焼ける音がした。


 じゅう。


 近い。


 鉄板の上ではない。


 壁の向こうでもない。


 秩序ちゃんは動かなかった。


 さっきまで生き物のように脈打っていた厨房も止まっている。


 換気扇の音がない。


 冷蔵庫の振動もない。


 外から聞こえていた街の悲鳴も、骨が落ちる轟音も消えた。


 じゅう。


 もう一度。


 今度は足元からだった。


「渾沌ちゃん」


「いるよ」


 暗闇の右側。


 声だけが返る。


「動かないでください」


「動いてない」


「バーガーは?」


「持ってる」


「絶対に離さないでください」


「食べちゃだめ?」


「駄目です」


「わかった」


 一拍。


「たぶん」


「渾沌ちゃん」


「食べない」


 秩序ちゃんはポケットからスマートフォンを出した。


 画面が点く。


 その白い光だけで、半径一メートルほどが浮かんだ。


 床。


 タイルへ戻っている。


 肉ではない。


 壁も。


 作業台も。


 レジも。


 いつもの店だった。


 ただし。


 渾沌ちゃんの手の中だけが違う。


 バーガー。


 上のバンズが、ゆっくり沈んでいた。


「置いて」


「さっき離すなって」


「作業台へ置いてください」


 渾沌ちゃんが置く。


 紙が擦れる。


 秩序ちゃんはスマートフォンを近づけた。


 バーガーの中にあった小さな街は消えている。


 パティ。


 チーズ。


 玉ねぎ。


 ソース。


 普通のハンバーガー。


 そのパティから。


 じゅう。


 音がした。


 秩序ちゃんが指を近づける。


 熱い。


「……調理が終わった?」


 レジが点灯した。


 二人が同時に見る。


 画面には一行。


《この世界》


 その下。


調理完了


 さらに。


提供待ち


「提供?」


 秩序ちゃんの視線が店内を走った。


 客席。


 無人。


 入口。


 閉じている。


 ドライブスルー。


 反応なし。


「誰に?」


 渾沌ちゃんが言った。


 レジが鳴った。


 ピンポーン。


 入口の自動ドアが開いた。


 ◇


 外は夜だった。


 秩序ちゃんは動けなかった。


 骨の雨はない。


 巨大な歯茎もない。


 壊れたビルも。


 逃げ惑っていた人々も。


 道路そのものがない。


 自動ドアの向こうに広がっていたのは。


 客席だった。


「…………」


 店の外に。


 もう一つの店内がある。


 同じ床。


 同じテーブル。


 同じ椅子。


 ただし、ひどく古い。


 壁紙は黄ばんでいる。


 照明の半分が死んでいる。


 テーブルには埃。


 奥にはカウンター。


 さらにその向こうには厨房。


 そして。


 その厨房の奥にも、自動ドアが見えた。


 ドアの向こう。


 また客席。


「渾沌ちゃん」


「うん」


「出ないでください」


「うん」


 渾沌ちゃんはもう片足を向こう側へ出していた。


「戻って!」


「まだ出てないよ」


「足が出ています!」


「足だけ」


 引っ込める。


 そのとき。


 向こう側の厨房で何かが動いた。


 秩序ちゃんがスマートフォンの光を向ける。


 人影。


 小さい。


 誰かがカウンターの陰から、ゆっくり立ち上がった。


 制服。


 ぱんでむのものではない。


 白いシャツ。


 黒いエプロン。


 名札。


 男だった。


 五十代ほど。


 髪はほとんど白い。


 頬が痩せている。


 こちらを見たまま、口が開く。


「……まだ、営業してるんですか」


 秩序ちゃんは答えなかった。


 男が一歩。


 古い床が鳴る。


 一歩。


 また一歩。


 こちらへ来る。


「止まってください」


 男が止まった。


「そこは、どこですか」


「店です」


「何という店ですか」


 男は困った顔をした。


「店は店でしょう」


「店名です」


「そんなもの」


 男は背後を振り返った。


 黄ばんだ壁。


 消えかけた照明。


 埃を被ったカウンター。


「……あったかな」


 秩序ちゃんは自動ドアの境界を見た。


 床材の継ぎ目。


 こちら側は清潔なタイル。


 向こう側は黒ずんだタイル。


 ぴたりと接している。


「こちらへ来ないでください」


「行きませんよ」


 男が笑った。


「そっち、怖いでしょう」


「……何がですか」


「外がある」


 秩序ちゃんの目が細くなった。


 男は笑ったままだった。


「うちにはもう、ないから」


 ◇


 渾沌ちゃんがバーガーを持ち上げた。


「これ、知ってる?」


 男の笑顔が消えた。


「渾沌ちゃん」


「だって見てる」


 男の視線はバーガーへ縫い付けられていた。


 一歩。


「来ないでください」


 秩序ちゃんが遮る。


 男は止まった。


「それ」


 声が掠れた。


「それ、うちのです」


「違うよ」


 渾沌ちゃんが包装紙を見る。


「ここで作った」


「うちのです」


「なんで?」


「だって」


 男の指が震えた。


「町が入ってたでしょう」


 秩序ちゃんの背中に冷たいものが走った。


「あなたは、あれを見たんですか」


「見ましたよ」


「いつ」


 男は考えた。


「閉店前です」


「何日前ですか」


「閉店前です」


「何年前ですか」


「閉店前です」


 答えが変わらない。


 秩序ちゃんは質問を変えた。


「そのあと何が起きました?」


「注文が入りました」


「何の?」


「町です」


 男の視線がバーガーへ戻る。


「だから作ったんです」


 照明が一つ消えた。


 向こう側だけ。


 ぱち。


 男の背後が暗くなる。


「みんなで作りました」


 また一つ。


 ぱち。


「道路を焼いて」


 ぱち。


「家を挟んで」


 ぱち。


「人を乗せて」


 男の顔だけが残る。


「最後に空を被せた」


 秩序ちゃんはバーガーを見た。


 普通のバンズ。


 普通のパティ。


 何も入っていない。


 少なくとも。


 今は。


「それを誰に提供したんですか」


 男は首を傾げた。


「さあ」


「客を見ていない?」


「見ましたよ」


「どんな客でした?」


 男は秩序ちゃんを見た。


 次に。


 渾沌ちゃんを見た。


 そして。


 笑った。


「あなたたちです」


 ◇


 自動ドアが閉まり始めた。


「渾沌ちゃん、下がって!」


 二人が厨房側へ飛び退く。


 ガラス扉が閉じる。


 男が走った。


 初めて。


 両手を伸ばし、こちらへ。


「待って!」


 扉が閉じる。


 男の掌がガラスへ叩きつけられた。


「持っていかないでくれ!」


 秩序ちゃんが足を止める。


「何を?」


「世界を!」


 男の顔が歪んだ。


「やっと戻ってきたんだ!」


 渾沌ちゃんがバーガーを見る。


 その瞬間。


 包装紙の底が濡れた。


 一滴。


 茶色いソース。


 作業台へ落ちる。


 じゅっ。


 タイルの上に。


 道路が一本できた。


「…………」


 幅、一ミリ。


 黒い線。


 そこを。


 何かが走っている。


 秩序ちゃんがしゃがむ。


 車だ。


 砂粒より小さい。


 道路脇から建物が生える。


 一棟。


 二棟。


 信号。


 街路樹。


 人。


 作業台の上に街が広がっていく。


「渾沌ちゃん、バーガーを戻して!」


「どこに?」


 自動ドアの向こう。


 男が首を振った。


「駄目だ!」


 照明が残り一つになる。


「そっちで開けるな!」


「何が起きるんですか!」


「出てくる!」


「何が!」


 男は答えなかった。


 いや。


 答えようとして。


 背後を見た。


 顔から表情が消えた。


 古い店のさらに奥。


 もう一つの自動ドア。


 開いている。


 その向こうにも店。


 そのさらに奥にも。


 店。


 店。


 店。


 一直線に。


 暗闇の彼方まで。


 無数のぱんでむが連なっている。


 その一番奥で。


 何かが動いた。


 巨大ではない。


 人の大きさ。


 一つの影。


 こちらへ歩いてくる。


 一軒目を通る。


 二軒目。


 三軒目。


 ドアが順番に開く。


 ウィン。


 ウィン。


 ウィン。


 遠くから。


 開閉音が近づいてくる。


 男が後退した。


「閉めろ」


 ウィン。


「閉めてくれ」


 ウィン。


「そいつは客じゃない」


 ウィン。


 渾沌ちゃんがバーガーを作業台へ置いた。


 秩序ちゃんがレジへ走る。


 画面。


提供待ち


「取消は」


 ない。


「廃棄」


 ない。


「返品」


 ない。


 ボタンは一つだけ。


提供する


「……また」


 秩序ちゃんの手が止まった。


 前と同じ。


 選択肢に見せかけた一択。


 押すことを前提に作られている。


「渾沌ちゃん」


 返事がない。


 振り向く。


 渾沌ちゃんは作業台の街を見ていた。


「どうしました?」


「増えてる」


 街ではない。


 人。


 作業台の上。


 小さな住人たちが。


 全員。


 同じ方向を向いていた。


 自動ドア。


 無数の店の向こう。


 近づいてくる影。


 住人たちが逃げていない。


 むしろ。


 道の両側へ並んでいる。


「……迎えてる?」


 秩序ちゃんが呟いた。


 男がガラスを殴った。


「違う!」


 血が付く。


「食われるんだ!」


 ウィン。


 影がまた一軒、近づく。


「俺たちもそうだった!」


 ウィン。


「客が来たから店を開けた!」


 ウィン。


「注文されたから作った!」


 ウィン。


「世界を渡した!」


 ウィン。


 男の背後。


 次の自動ドアが開いた。


 影が入ってきた。


 男が振り返る。


 秩序ちゃんには、その姿が見えなかった。


 男の身体が邪魔をしていた。


 見えたのは。


 彼の肩が落ちたことだけ。


「……いらっしゃいませ」


 声が変わった。


 震えが消えていた。


 男はゆっくりこちらへ向き直った。


 笑顔。


 最初に会ったときと同じ。


 接客用の笑顔。


「ご注文をどうぞ」


「何をされたんですか」


「ご注文をどうぞ」


「後ろにいるのは誰ですか!」


「ご注文をどうぞ」


 渾沌ちゃんが秩序ちゃんの袖を引いた。


「秩序ちゃん」


「今は」


「こっち」


 作業台。


 小さな街。


 道の両側へ並んだ住人たち。


 その中心。


 ぱんでむ。


 肉門が開いた。


 中から。


 二人の少女が出てきた。


 一人は紙袋を持っている。


 一人はスマートフォンを握っている。


 秩序ちゃんの手から。


 スマートフォンが滑り落ちた。


 小さな秩序ちゃんも。


 同時に。


 落とした。


 違う。


 今度は先ではない。


 同時だった。


 レジが鳴る。


 ピンポーン。


 画面。


提供先を確認しました


 秩序ちゃんは見た。


 提供先。


 店名ではない。


 住所でもない。


 世界番号でもない。


 そこには。


当店


 とだけ表示されていた。


 自動ドアが開いた。


 今度は向こう側ではない。


 背後。


 客席側の入口。


 夜風が入ってくる。


 道路がある。


 街がある。


 いつもの景色。


 秩序ちゃんの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。


 戻った。


 そう思った。


 渾沌ちゃんは外を見たまま動かなかった。


「渾沌ちゃん?」


「秩序ちゃん」


「何ですか」


「あれ」


 道路の向こう。


 いつものコンビニ。


 その壁に。


 巨大な看板が掛かっている。


 見覚えのあるロゴ。


 ぱんでむ。


 その隣のビルにも。


 ぱんでむ。


 交差点の向こうにも。


 ぱんでむ。


 窓という窓。


 看板という看板。


 街の奥まで。


 同じ店が並んでいた。


 そして道路の両側には。


 人々が立っている。


 誰一人、動かない。


 全員がこちらを向いている。


 待っている。


 その中の一人が。


 笑った。


「いらっしゃいませ」


 次の人も。


「いらっしゃいませ」


 また次も。


 声が街の奥へ伝わっていく。


「いらっしゃいませ」


「いらっしゃいませ」


「いらっしゃいませ」


 やがて何千もの声になった。


 秩序ちゃんはレジへ振り返った。


 表示が変わっている。


《この世界》


調理完了


提供完了


 最後の一行。


ご来店ありがとうございます。


 その下に。


 新しい注文が一件、入った。


《次の世界》

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