第2話 ツイン・ボア
◇◇◇◇
それは、二つの頭を持つ獣だった。
体長は十三メートルを超えていた。体高も六メートルに達する巨躯だった。全身を
黒鉄色の剛毛が覆い、その毛の一本一本が槍の穂先のように硬質に輝いていた。背中
に沿って隆起した脊棘が走り、その存在感だけで周囲の空気が変わった。
頭が、二つあった。
首元で分岐した二つの頭は、それぞれが独立した意思を持っていた。左の頭は赤く
濁った目をしていた。怒りの色だった。常に前方を向き、何かを破壊することだけを
考えているような目だった。右の頭は黄色く鋭い目をしていた。冷静な色だった。周
囲を観察し、状況を判断し、最も効率的な攻撃方法を計算しているような目だった。
ツイン・ボア。
この地方の古い言い伝えに、その名があった。禁忌の区域の番人とも、死の化身と
も呼ばれていた獣だった。ほとんどの者はその存在を伝説だと思っていた。実際に目
にした者の話を聞いたことがなかったからだ。
目にした者が、帰ってこなかったからだ。
◇◇◇◇
「逃げろ!」
ロスタムは叫んだ。
仲間たちが動いた。カリムが先頭で走り出し、残りの六人がそれに続いた。
しかしロスタムは動かなかった。
ツイン・ボアの右頭が動いた。逃げる仲間たちを、その鋭い目が追った。左頭がロ
スタムを見た。
ロスタムには、わかった。
このままでは仲間が追われる。
ロスタムは手に持っていた槍を握り直した。この獣の前では、槍など竹の棒と変わ
らないとわかっていた。しかしそれしかなかった。
右手で石を拾った。
ツイン・ボアの右頭に向けて、全力で投げた。
石は、右頭の眉間に当たった。
ダメージはなかった。しかし効果はあった。
右頭の注意が、逃げる仲間からロスタムに向いた。
両頭がロスタムを見た。
「よし」
ロスタムは槍を構えた。
意味がないとわかっていた。しかし構えた。
◇◇◇◇
ツイン・ボアが動いた。
最初の一歩だけで、地面が揺れた。八十トンの巨体が動き出した時の衝撃は、足元
から全身に伝わってきた。二歩目で、周囲の木が振動した。三歩目で、ロスタムの体
が揺れた。
そして突進が始まった。
速かった。あの巨体がそんな速さで動けるはずがないという常識を、軽々と超えた
速さだった。地面を蹴るたびに石畳が割れ、根を張っていた木が倒れ、ロスタムとの
距離が瞬く間に縮まった。
ロスタムは槍を捨てた。
意味がないから、ではなかった。両手を使うために、捨てた。
走った。しかし逃げるためではなかった。ツイン・ボアの左頭めがけて、真っ直ぐ
に向かった。
左右に揺れながら走ることで、右頭の照準を外した。
しかし十メートルの距離で、限界が来た。
突進の圧力が、空気の壁となってロスタムを押した。足が止まった。前に進めなか
った。
左頭の牙が、迫った。
ロスタムは目を閉じた。
逃げる仲間の足音が、遠ざかっていた。
それでいいと思った。
その瞬間だった。
◇◇◇◇
光があった。
閉じた目の裏に、光が差し込んだ。
胸の奥から、温かいものが広がった。急速に、しかし優しく、何かがロスタムの全
身に満ちていった。
ツイン・ボアの牙が、止まった。
止まった、という感覚があった。時間が止まったのではなかった。ロスタムの感覚
が、変わった。ツイン・ボアの動きが、まるでゆっくりに見えた。牙の軌跡が、線と
して見えた。どこに当たるかが、わかった。
目を開けた。
ツイン・ボアの左頭が、すぐそこにあった。
しかしロスタムには、見えていた。
二つの首が分岐する点が。そこだけ外皮が薄いことが。それがこの獣の唯一の弱点
であることが、なぜか確信として体に入っていた。
ロスタムは動いた。
牙の軌跡の外側に、一歩動いた。牙がロスタムの横を通り過ぎた。
そのまま前に踏み込んだ。
二つの首の分岐点へ、拳を叩き込んだ。
通常の人間の拳ではなかった。その瞬間だけ、ロスタムの拳に、これまでとは全く
異なる密度の力が宿っていた。
轟音があった。
ツイン・ボアが、倒れた。
八十トンの巨体が地面に横たわり、その衝撃で周囲の木が揺れた。
◇◇◇◇
静寂が来た。
ロスタムは拳を見た。
傷はなかった。しかし、痛みがあった。骨が砕けるほどの衝撃を受けたはずだった。
しかし骨は折れていなかった。
それよりも、胸の奥の温かさが引かなかった。
何かが、自分の中にいる。
そう感じた。敵意ではなかった。攻撃的な感覚でもなかった。ただ、温かく、そし
てどこか懐かしい何かが、ロスタムの中に宿っていた。
「……お前か」
声ではなかった。言葉でもなかった。しかし確かに、何かが伝わってきた。
長い間、探していた。力ではなく、才能でもなく、地位でもなく、もっと根源的な
何かを持つ者を。恐怖より仲間を選ぶ者を。命より想いを選ぶ者を。
「……そうだ」
ロスタムは答えた。声ではなく、心で答えた。
「俺は、そういう人間だ」
温かさが、増した。
胸の奥で、何かが確かに、定まった。
ブリリアント・クイーンとの融合が、完成した瞬間だった。
◇◇◇◇
静寂が来た。
ロスタムは拳を見た。傷はなかった。しかし、骨が砕けるほどの衝撃を受けたはず
だった。しかし骨は折れていなかった。
それよりも、胸の奥の温かさが引かなかった。
何かが、自分の中にいる。
そう感じた。敵意ではなかった。攻撃的な感覚でもなかった。ただ、温かく、どこ
か懐かしい何かが、ロスタムの中に宿っていた。
「……すごいものを見た」
声がした。
高い声だった。子供の声だった。
ロスタムが振り返ると、ジャングルの端に少年が立っていた。
十歳前後に見えた。小柄で、飄々とした雰囲気を持つ少年だった。服装は簡素だっ
た。手に何も持っていなかった。ただ、腕を組んで、ロスタムを見ていた。
「……いつからいた」ロスタムは言った。
「最初から」少年は言った。
「最初から? なぜ助けなかった」
「助ける必要がなかったからだ」少年は言った。事実として、淡々と。
ロスタムは少年を見た。子供がこんな場所に一人でいる理由がわからなかった。
「危なくないのか、こんな場所に一人で」
「俺が危ないか、ここが危ないか、どちらの心配をしているんだ」少年は言った。
「両方だが」
「どちらも心配しなくていい」
少年は倒れたツイン・ボアを見た。その目が、何かを確認するような目だった。
「お前」少年は言った。「明日からうちに来い」
ロスタムは少し考えた。
「どこの、うちだ」
「アスラ金剛騎兵団だ」
「……それは、どういう組織だ」
「来ればわかる」
「来ればわかる、では判断できない」
「来てから判断しろ」
ロスタムはこの少年が何者かを測ろうとした。しかし気配が読めなかった。強いの
か弱いのか、年齢相応なのかそうでないのか、全てが曖昧だった。
その時だった。
◇◇◇◇
ジャングルの別方向から、複数の気配が来た。
速かった。エーテル・コアと融合した者の気配だった。超印を複数持つ者の気配が、
少なくとも数名、急速に近づいてきた。
木々の間から、三人が姿を現した。
全員が鎧を纏っていた。黒と赤を基調とした、魔術系の装備だった。先頭に立つ女
性が、素早くロスタムを見た。それから倒れたツイン・ボアを見た。それから少年を
見た。
女性の名はフォルキナ。
マジェスティック・ロード所属のA級戦士、ワルキューレの一人だった。超印を三
つ持ち、トロイメル・デューンの直轄部隊の中でも実力を認められた精鋭だった。
「間に合わなかったか」フォルキナは言った。それからロスタムを見た。
「お前がブリリアント・クイーンと融合した者か」
「そうらしい」ロスタムは言った。
「確保させてもらう。マジェスティック・ロードに来い。トロイメル様がお前の力に
興味を持っている」
「断る」
フォルキナの眉が上がった。
「断る?」
「先に声をかけられた」ロスタムは言った。ジャングルの端に立っている少年を指した。
「こっちに行くと言った」
フォルキナは少年を見た。
小柄な少年が、腕を組んで立っていた。飄々とした表情で、フォルキナを見ていた。
「……これは」フォルキナは言った。
「子供ではないか」
「そうだが」ロスタムは言った。
「子供がここで何をしている」フォルキナは少年に向かって言った。
「危険な場所だ。早く帰れ」
「帰る理由がない」少年は言った。
「帰る理由がない?」フォルキナは少し苛立った声になった。
「ここはツイン・ボアが出た場所だ。今は倒れているが、今後も危険だ。子供が長居する場所ではない」
「ツイン・ボアが出た場所は、俺が先に確認していた」少年は言った。
「お前たちこそ、何の用だ」
フォルキナが少年を見た。
子供に向かってそういう口調で話される経験が、なかった。A級戦士として、帝国
内でそれなりの地位を持つフォルキナに向かって、この少年は対等以上の態度で話し
ていた。
「……随分と生意気な子供だな」フォルキナは言った。
「生意気かどうかは関係ない」少年は言った。
「ロスタムは俺が先に声をかけた。お前たちは後から来た。順番の話だ」
「順番?」フォルキナは言った。
「子供が先に声をかけたから、A級戦士の申し出を断るというのか。そんな理屈が通ると思っているのか」
「通らないのか」少年は言った。
「通らない」フォルキナはきっぱりと言った。
「帝国の規則では、エーテル・コアの融合者は適切な部隊に配属される。子供が個人的に声をかけたことは、その規則の範囲外だ」
「それは正しい」少年は言った。
「では実力で決めよう」
「実力で?」
「俺がお前を倒せば、ロスタムはうちに来る。お前が俺を倒せば、お前たちが連れて
行けばいい」
フォルキナは少年を見た。
小柄な少年だった。武器を持っていなかった。超印の気配は……読めなかった。
読めない、ということが、少し引っかかった。
しかしフォルキナはA級戦士だった。超印三つを持つ精鋭だった。どう考えても、
この子供に負ける道理がなかった。
◇◇◇◇
「……わかった」フォルキナは言った。
「子供相手に大人げないが、お前が望むなら受けてやる」
フォルキナは構えた。魔術系の戦士として鍛えてきた構えだった。
少年は動かなかった。
構えを取らなかった。腕を組んだままだった。
「構えないのか」フォルキナは言った。
「必要がない」少年は言った。
フォルキナは動いた。
A級戦士の速さだった。一般の超印持ちでは目で追えない速さで踏み込み、右手か
ら魔術の力を発動させた。
次の瞬間、フォルキナは空中にいた。
何が起きたか、わからなかった。
踏み込んだはずだった。右手の力を発動させたはずだった。しかしその全ての動作
が、何かに受け流され、気づいた時には体が浮いていた。
地面に叩きつけられた。
痛みがあった。超印三つを持つA級戦士が、一瞬で地面に叩きつけられた。
「……」
フォルキナは立ち上がろうとした。しかし体に力が入らなかった。何かが体の力の
流れを押さえていた。
視界に、少年の足が見えた。
少年はフォルキナの傍に立ち、腕を組んだままだった。
「もう一度やるか」少年は言った。
フォルキナは答えられなかった。
後ろに控えていた二人の部下も、動けなかった。
何が起きたか、誰にも分からなかった。ただ、フォルキナが一瞬で倒され、少年が
腕を組んだまま立っているという事実だけがあった。
「……お前は」フォルキナはようやく言った。「何者だ」
「名乗る必要があるか」少年は言った。
「ある」
「ならば教えよう」
少年は腕を解いた。
その瞬間、気配が変わった。
これまでロスタムが感じてきた全ての気配の中で、最も重い気配が、少年から溢れ
出した。メタ・シャルマの全ての戦士を合わせても届かないような、圧倒的な密度の
気配だった。
「ガイン・アスラ・カシュヤパだ」少年は言った。
「万能系ブレイクゴッド。アスラ金剛騎兵団、総司令」
フォルキナが、固まった。
後ろの二人も、固まった。
「……ブレイク.....、ゴッド」フォルキナはつぶやいた。
「そうだ」少年は言った。「用が済んだなら、帰れ。トロイメルによろしく伝えてくれ」
フォルキナはゆっくりと立ち上がった。
頭を下げた。深く。
「……失礼いたしました、ガイン様」
「失礼とは思っていない」ガインは言った。
「知らなかっただけだ。しかし次からは気配を読んでから発言しろ。A級戦士として、最低限の確認は必要だ」
「……肝に銘じます」
フォルキナたちは引き返していった。
その背中を見ながら、ロスタムは少年を見た。
◇◇◇◇
「少年に見えたが」ロスタムは言った。
「変装だ」ガインは言った。
「なぜ変装していた」
「面倒なことを避けるためだ」ガインは言った。
「俺の素顔で歩くと、様々なことが起きる。手間がかかる。だから普段は別の姿でいることがある」
「普段はどんな姿なんだ」
「今の姿が、普段だ」ガインは言った。
「……今の姿も、変装ではないのか」
「そうだ。今の姿は変装していない」
「さっきと今で、何が違う」
「気配を隠しているかどうかだ」ガインは言った。
「見た目は変えていない。気配を絞ることで、別の者に見える」
ロスタムは少し考えた。
「つまり気配を出せば、誰でもわかるのか。ブレイクゴッドのガイン・カシュヤパだと」
「俺の気配を知っている者にはな」
「あの女性は知らなかった」
「知らなかった」ガインは言った。
「だから格下だと思った。それがA級戦士としての判断ミスだ」
「厳しいな」
「事実だ」
ロスタムは倒れたツイン・ボアを見た。それからガインを見た。
「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「あなたがブレイクゴッドなら、俺を確保しようとしたあの女性も、あなたには敵わない」
「そうだ」
「では最初から、彼女に勝てるとわかっていた」
「そうだ」
「なぜ力比べを提案した。最初から断ればよかったのではないか」
ガインは少しの間、ロスタムを見た。
「見せておく必要があった」ガインは言った。
「何を」
「差を」ガインは言った。
「お前に。A級戦士が全力で来ても、俺にとっては一瞬だという事実を。お前が入る部隊の司令が、どのくらいの存在かを、最初に知っておいた方がいい」
「……なるほど」
「それと」ガインは続けた。
「フォルキナへの教育だ。気配を読まずに行動した。その結果を体で覚えた方が、言葉より長く記憶に残る」
ロスタムは、ガインという人間を改めて見た。
少年の姿をしていた。しかしその目は、少年のものではなかった。非常に長い時間を生きてきた者だけが持つ、深く落ち着いた目だった。
「……わかった」ロスタムは言った。「行く」
「どこに」
「アスラ金剛騎兵団だ。そう言ったじゃないか」
「ああ」ガインは言った。それだけだった。
しかしその目が、ほんの少しだけ、動いた。
何かを確認した者の目が。
仲間たちの足音が、ジャングルの奥から戻ってくる気配があった。
ガインは踵を返した。
「ついて来い」
「今すぐかい」
「お前の仲間に別れを告げてからでいい。明朝、帝国の輸送ヴィマーナが最寄りの町に来る。それに乗れ」
「最寄りの町は知っているか」
「知っている」ガインは言った。
「お前の部落の位置も、今日のことも、全部把握している」
「……いつから把握していた」
「必要な情報は、必要な時より前に集める」ガインはジャングルの奥に消えていきながら言った。
「それだけだ」
姿が見えなくなった。
気配も、消えた。
ロスタムは一人、倒れたツイン・ボアの傍に立っていた。
「……不思議な人だ」ロスタムはつぶやいた。
胸の奥の温かさが、静かに揺れた。
同意しているのか、笑っているのか。
ロスタムには、どちらにも感じられた。
◇◇◇◇
後日談
その日の夜、フォルキナはマジェスティック・ロードの区画でトロイメル・デューンの前に立っていた。
「報告しろ」トロイメルは言った。
「……ブリリアント・クイーンの融合者の確保に失敗しました」フォルキナは言った。
「理由は」
「現場に先着者がいました」
「帝国の監視部門か」
「いいえ」フォルキナは少し間を置いた。
「ガイン・アスラ・カシュヤパです」
トロイメルの表情が、わずかに動いた。
「……ガインが先にいたのか」
「少年に変装していました。私が格下だと判断し……力比べを申し出てしまいました」
「結果は」
「一瞬で、倒されました」
沈黙があった。
「ガインが先にいたなら、最初から勝負は決まっていた」トロイメルは言った。
「お前の判断ミスはあったが……あの男が動いていたなら、どうしようもない」
「申し訳ありません」
「次の機会を探せ」トロイメルは言った。
「ブリリアント・クイーンの融合者は、今後この世界において重要な存在になる。ガインの部隊に入ったとしても……成長を見守る価値はある」
「監視を続けますか」
「続けろ。ただし距離を置いて」トロイメルは言った。
「ガインに気づかれない程度にな」
フォルキナは頷いた。
「一つだけ聞いていいですか」フォルキナは言った。
「なんだ」
「ガイン様が……なぜ自らブリリアント・クイーンの融合者を迎えに行ったと思いますか。ブレイクゴッドが直接動くことは珍しいはずです」
トロイメルは少しの間、黙った。
「ガインはずっと、ブリリアント・クイーンの動向を追っていた」トロイメルは静かに言った。
「あの男が動いた、ということは……あの融合者に、それだけの何かがあるということだ」
「力ですか」
「力だけではないだろう」トロイメルは言った。
「ガインが動く理由は、いつも力だけではない」
フォルキナは部屋を出た。
廊下に出て、一人になった時、フォルキナは自分の右手を見た。
一瞬で倒された。
何をされたか、今もわからなかった。
どれほどの力の差があれば、あの一瞬が生まれるのか。
フォルキナは静かに握り拳を作った。
悔しさではなかった。
純粋に、知りたいと思った。
あの少年の姿をした男が持つ、圧倒的な力の根拠を。




