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半歩 ~守・破・離 短き刃 長き道~  作者: 止水


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第三十四話 橘流  ― 残るための技 ―

湯呑みから、細い湯気が立ち上る。


誰もすぐには口を開かなかった。


「……橘流って、何?」


ようやく、澪が絞り出すように言う。


祖母はすぐには答えない。

ゆっくりと腰を下ろし、手を膝の上に置いた。


「古いわよ

 そして、そう名乗っていたかのどうかも…」


それだけ。


「流派として残ってるようなものじゃないの 」


父が少し眉をひそめる。


「じゃあ、何なんだ?」


祖母は、少しだけ考えるように視線を落とした。


「……“形”じゃないの」


「は?」


澪が顔を上げる。


「剣の型を覚えるんじゃない」


静かに続ける。


「“理”を覚えるの」


言葉が、少しだけ重く落ちた。


「理?」


「間合い、重心、崩し、流れ」


一つずつ、指で数えるように。


「型稽古というより”鍛錬”という言葉に近いわね…」


「剣でやることを、そのまま身体でやる」


澪の表情が変わる。


「……だから、素手?」


祖母は頷く。


「最初から、何も持たない」


「持たない前提で、剣を扱う」


父が小さく息を吐く。


「無茶だろ、それ」


祖母は否定しない。


「だから残ってないのかもね…」


あっさりと。


「扱える人間も、伝える人も、ほとんどいない」


沈黙。


澪の指が、わずかに震える。


「……じゃあ、なんで」


「なんでそんなものがあるの?」


祖母は、ほんの少しだけ笑った。


「昔はね」


ゆっくりと言う。


「武器が、いつも手元にあるとは限らなかったのよ

それと 廃刀令… 時代の流れね…」


「その答えの一つね…」


誰も、言葉を挟まない。


やがて。


澪が、ぽつりと呟いた。


「……じゃあ」


「それって、剣より強いの?」


祖母は、少しだけ首を傾げた。


「強い、弱いじゃないわね」


静かに。


「“残る”方よ

 想いや術を…残す事ね」


その言葉に――


澪の脳裏に、春日の動きがよぎる。


無駄がなく。

迷いがなく。

そして――削ぎ落とされている。


「……」


祖母が、ふと視線を向ける。


「どうしてそんな事を?」


澪は一瞬だけ迷い――


「う~~ん 私も学校でね」


とだけ答えた。


祖母は、それ以上は聞かなかった。


ただ。


「そう」


とだけ言って、湯呑みに口をつける。


その仕草は、どこか――


祖母は“知っている側”のものだった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


楓――その下で、宗一郎は静かに立っていた。


足音。


「……来た」


振り返らなくても分かる。


軽い。

だが、躊躇いがない。


「宗一郎!」


はっきりとした声。

振り返ると、少女が立っていた。


以前よりも背が伸び、目の強さが増している。


基衡の孫。


「……お嬢様。お久しぶりです」

宗一郎は、軽く頭を下げる。


「またそれ」


少女は眉をひそめる。


「名前で呼べばいいのに」


「……では」


「――綾様」


少女――綾は、満足そうに頷いた。


「うん」


少し間。

じっと、宗一郎を見上げる。


「ねえ」


「はい」


「前より、怖くなくなったね。

 白髪も、いっぱい増えた!」


唐突だった。

だが、宗一郎は驚かない。

「……そう、ですか」


「うん。前はね、こう……」

綾は、両手で顔の前に線を引くような仕草をする。


「ぴしぴしって、してた!」


「今は?」


「今は、ちゃんと“人”」

言い切る。


宗一郎は、わずかに目を細めた。

「……それは、良いことですね」


「うん。いいこと」

綾は即答する。


「だって、おじいさまもそう言ってた」


「……なんと?」


「“あれは、ようやく、”人”に戻った”って」


風が、枝を揺らす。


宗一郎は、少しだけ空を見た。

「……ありがたい言葉です」


綾は、ふっと笑う。

「でもさ」

一歩、近づく。


「強いのは、変わってないよね?」

その目は、試すものだった。


宗一郎は、少しだけ考える。

「……どうでしょう」


「ごまかした」


即座に返される。


宗一郎は、わずかに苦笑した。


「では、綾様はどう見ますか」


綾は、じっと宗一郎を見る。


足。

肩。

目。

一瞬で、全体を観る。


「……やっぱり、強いかな」


「でも、いつも勝とうとしてないね」

静かな断言。


宗一郎の呼吸が、ほんのわずかに止まる。

「……なぜ、そう思いますか」


「だって」


綾は、自分の胸の前で手を軽く構える。

「やさしく構えるし 怒らないし」


「それに… ここ、空いてるし」

中心。

わずかに、余白を示す。


宗一郎は、その手元を見た。

そして、ゆっくりと頷く。


「……はい」


否定しない。


「怖くないの?」

綾の問い。

純粋で、鋭い。


宗一郎は、少しだけ考えた。

「怖いですよ」


「え?」


意外そうな顔。

「では、なぜ――」


「怖いからです」

遮らず、静かに続ける。


「すべてを塞げば、私も 相手も 壊れます」


「壊れれば、戻れません」


「……戻れるように、空けておきたいのですよ」


綾は、しばらく黙っていた。


その言葉を、測るように。

「……変なの」


ぽつり。


「はい」


宗一郎は否定しない。


「でも」


綾は、にやりと笑う。

「嫌いじゃないよ」


そのまま、すっと距離を取る。

「見せて」

一言。


宗一郎は、わずかに目を細める。


「一本だけ、なら」


綾は、もう構えている。


宗一郎は、少しだけ息を吐いた。

「……承知しました」


構え。

綾は、真っ直ぐ。

迷いがない。


宗一郎は――わずかに、余白を残す。


「いくよ」

踏み込み。

速い。

年相応ではない。


だが、宗一郎は動かない。


引きつける。

紙一重。

そして――半歩。

弾かない。

止めない。


綾の木剣が、空を切る。


次の瞬間。


宗一郎の手は、綾の肩口に“触れて”いた。


「……っ」

綾は動きを止める。


悔しさより先に――理解が来る。

「……今の」


「はい」


「一本、取れたのに、取らなかった」


宗一郎は、静かに頷く。

「はい」


綾は、じっとその顔を見る。


そして、ふっと息を吐いた。

「……ほんと、変」


でも――笑っていた。


「でもさ」


木剣を下ろす。

「それ、嫌いじゃない。楽しい」


宗一郎も、わずかに微笑む。

「……はい」


綾は、くるりと背を向ける。

「次は、もっと強くなるから」


「その“空き”、叩く」

振り返らずに言う。


宗一郎は、その背を見ていた。

「……お待ちしております」


その声は、穏やかだった。


かつてのような、張り詰めたものではない。


綾は、軽く手を振る。


楓の枝が、わずかに鳴った。


二人の間には、――

“終わり”ではなく、“続き”があった。


ーーーーーーーーーー


この日が、

基衡と顔を合わせた最後になった

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