表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/21

出発、あるいは置いていくものと持っていくもの

朝、英理は荷物を四回詰め直した。


三回目まで経典と着替えの折り合いがつかなかった。四回目でようやく着替え一枚を諦めて経典の第七章「境界論」を持つことにした。


「英理。もう出発の時間よ」


「四回目をしとる」


真理矢は額に手を当てた。


銭袋を入れ忘れたことに気づいたのは、社殿の門を出てからだった。


「あ」


「何?」


「銭袋」


「確認した?」


「……してない」


「まあ」と英理は言った。「なんとかなるけんな」


「なんとかなるけんなって言いながら、いつもなんとかなっとるから困るけん。それで世界が回っていいんかって話なんだけど」


「回っとるならいいんじゃないかな」


「よくないけん」


門の前で見送りが始まった。部瑠太師はすでに外で待っていて、空を眺めていた。晴れていた。山脈の方だけ、少し雲があった。


今回の旅には、新たな同行者がいた。


東仁という青年で、背が高く、肩幅が広かった。去年、常世境近くで遭難しかけたのを部瑠太師に助けられたという。もとは水軍の武人で、物事を真面目に受け止めるタイプだった。全部が。


「道中の護衛を務めます。どうかよろしく」


「よろしくです」


「あの……本当に行くんですよね。常世境へ」


「気になるけん」


「気になる、以上の理由は?」


「今のところないですが、多分行けば増えるけん」


東仁はしばらく黙った。「……今のところない、というのは」


「ないです」


「ないんですか」


「ないです」


東仁は何かを飲み込むように頷いた。彼の中で何かが決まったらしかった。物事を決めるときの顔だった。


真理矢が最後だった。他の子たちが少し離れて、真理矢と英理だけになった。


真理矢は何も言わなかった。何か言おうとして、やめた。また言おうとして、やめた。英理は待った。真理矢の目が、少し赤くなっていた。


「……なんか。行かないでって言えんのが腹立つ」


「なんで」


「だって英理らしすぎて。止める理由がないけん」


「止めていいけんよ」


「止めんよ」真理矢がきっぱり言った。「でも腹立つ」


「ごめん」


「謝らんといてよ、余計腹立つ」


英理はどうしたらいいかわからなくなって、とりあえず真理矢の肩を叩いた。二回。


「痛い」


「ごめん」


「力加減おかしいんよ英理は、いつも」


真理矢がふっと笑った。泣きそうな顔のまま笑った。


「行ってらっしゃい」


「行ってきます」


英理は振り返って歩き始めた。三歩目で、石畳の段差につまずいた。転ばなかったが、あわや、という体勢になった。


「大丈夫?!」真理矢が声を上げた。


「大丈夫ぞな。段差があったけん」


「そこに段差があるの、三年間知っとったでしょ」


「……知っとった」


「英理!」


「うん」


「絶対帰ってきんさいよ」


英理は振り返らずに手を上げた。振り返ると自分も泣きそうな気がしたので、前だけ見て歩いた。


部瑠太師が隣に並んだ。


「銭袋、持っておるか」


「……師が持つと思っていました」


老人はため息をついて銭袋を渡した。


街を出ると、道は白くなった。霜が積もった街道を足跡をつけながら進む。空は青い。風は冷たいが日差しがある。


「師、常世境の話を、知っていますか」


「大社でそのような話を聞いたか。到達した者に宝が与えられると」


「それだけですか」


老人は前を見たまま歩いた。


「歴史の中で、あの常世境へ向かった者は少なくない。王がいた。国の飢饉を救うため、常世境の富を求めた」


「得られましたか」


「得た」


「では国は救われた?」


「救われた。その王の代は」


「……その代は、とは」


「次の代の者が、その金を奪い合って戦争を起こした」


英理は黙った。しばらく霜を踏んだ。


「医師がいた。全ての病を癒す力を求めた。それも得た」


「その医師は」


「千年生きた。己が癒した者たちが全員死んでいくのを見届けながら」


しばらく、街道の霜を踏む音だけが続いた。


「……なんか」英理はゆっくり言った。「呪いみたいですね」


「どういう意味だ」と東仁が言った。


「うまく言えないんですけど」英理は歩きながら考えた。「王様って、金が欲しかったんじゃなくて、安心が欲しかったんだと思うんです。でも来たのは金だけで、安心は来なかった感じで」


「続けろ」と部瑠太師が言った。


「お医者さんも……苦しむ人を見たくなかったから力が欲しかったのに、力だけ残って、見たくないって気持ちが消えないまま千年いる、みたいな」


「つまり何が言いたい」東仁が前を向いたまま聞いた。


「うまく言えないんですが」


「さっきも言った」


「……欲しかった時の気持ちだけ、ずっと残っちゃう感じなのかな、って。でも人が欲しいものって変わるじゃないですか。だからちょっと怖くて」


「まあそうだな」


「昨日は蜜檸檬が欲しかったけど、今日はもう別に——あ、でも今はちょっと欲しいかもしれんよ。朝からあまり食べてないけん」


東仁が天を仰いだ。


部瑠太師が声を出して笑った。小さな笑いだったが、確かに笑った。


「師、笑うんですね」


「失礼な」


「いえ、なんか、よかったです」


老人はすぐに真顔に戻ったが、口元がまだ少し緩んでいた。


昼過ぎ、街道を歩いているうち、気がつくと後ろから別の旅人がついてきていた。


喋る白い狼だった。


「……誰ですか」


「律の書の知識をお持ちの方とご一緒したく。常世境への参詣者に同行させていただけますか」


「律の書の知識は私より師の方が詳しいですが」


「承知しています。部瑠太師、律の書 第十七節にある『常世境の業の返し方』について、現代語解釈をお教え願えますか」


部瑠太師は少しだけ目を細めた。「……ついてくるがいい」


律は律という名だった。律の書を暗記していて、何かあるたびに「律の書の○節に……」と言い出した。東仁が「頼もしい」と言い、英理が「役に立つ」と言い、部瑠太師が「うるさい」と言った。律は三つとも事実として受け取った。


夕方、小さな集落に迷い込んだ。地図を見誤った英理のせいで、完全に逆方向だった。


集落は五軒ほどだった。疲れ切った種類の静けさだった。一軒の家の前に、女の人が立っていた。目が赤かった。


「旅の方ですか」


「はい。道を間違えてしまって」


「よければ中に入りませんか」


中に入ると、火がなかった。暖炉に木はあったが、燃えていなかった。部屋の隅に子供が二人、毛布にくるまって縮こまっていた。


「火打石が壊れてしまって。もう三日、火がなくて」


三日。


英理はその言葉を一度だけ頭の中で繰り返した。


荷物を下ろした。内側のポケットに手を入れた。金属板が三枚あった。社殿に戻ったとき机の上に置かれていたもので、師が「使う時がきたら、わかる」と言っていた。常世境の中では、社殿の術式は別の形を取る、とも言っていた。板がその形だろうと英理は思った。


赤みを帯びた板を取り出した。暖炉の前にしゃがんで、板を薪の上に置いた。何と言えばいいかわからなかったので、何も言わずに、ただそこにあってくれ、と思いながら板に触れた。


暖炉に、火が入った。大きくはなかった。でも安定していた。消えない火だった。


子供たちが毛布の中から顔を出した。女の人が、声を出さずに泣いていた。


板を拾おうとしたが、板はもうなかった。火の中に溶けるように消えていた。


——ああ、使い切ったんだ。


残念とも思わなかった。もったいないとも思わなかった。ここで使うものだったと、ただそれだけだった。


残り二枚になった。


外に出たとき、東仁が立っていた。


「あの板、使ったんですね」


「はい」


「あれは常世境のためのものだろう。なぜここで使った」


「火打石が壊れていて、三日火がなかったと聞きました。三日は長いと思いました」


「それだけか」


「それだけです」


東仁はしばらく英理を見ていた。それから前を向いた。


部瑠太師は少し離れた場所で空を見ていた。何も言わなかったが、口の端が少し動いていた。


翌朝、出発のとき、女の人が言った。


「昨日の火……消えなかったんです。今朝も、まだ燃えてて」


「わからないです。でも消えなくていいんじゃないですか、今は」


「……そうですね」


三人と一匹は、また常世境の方へ歩き始めた。金属の音は、今日は最初から聞こえていた。


川沿いの道に差し掛かったとき、水の中に人がいた。


水面が、変だった。揺れていない。風もないのに光が動いていた。水の中に、空があった。


英理は覗き込んだ。


黒地に金のボタンが縦一列に並ぶ、あまり見かけない仕立ての上着を着た男が、ゆっくりと回転していた。学のある者が着るものだろうか——あるいは、どこか別の場所の、別の流儀の服なのかもしれなかった。ネクタイのようなものが揺れていた。目が半分開いていた。沈んでいるのか浮いているのか判断できなかった。


「……何かいます」


「川に?」東仁が来た。


「中に男の人が」


東仁が覗いた。「……本当にいる」


「溺れていますか」


「溺れているように見えないが」


「助けますか」


「何から助けるんだよ」


英理は腕を伸ばした。手が水面に触れた瞬間、視界が青くなった。


——溺れた。


水ではなかった。空気だった。でも溺れた。


視界の端に、半目の男が近づいてきた。遅かった。でも確実に近づいていた。


「こんにちは」


「溺れています」


「そうね」


「助けてもらえますか」


「うん」


助けなかった。英理は気を失った。


気づいたら、川岸に戻っていた。


男が隣に体育座りをして、手帳を読んでいた。


「なんで溺れたんだろ、あんなドジ……」


「それはきっと僕と出会うためです」


「ん?」


「落としたの、私を」


少し間があった。


「……落としたの?」


「落としてないよ」


「……あなた、たまに怒られるでしょ」


「そうなんだよ。連れ合いにも怒られる」


「連れ合いいるの!!」


食堂に、知らない顔がいた。


丸くて小さかった。目だけが大きかった。椀を両手で持って、椅子の上にふわりと浮いていた。


「確認」と、椀から目を離さずに言った。「三枚のうち一枚、もう使っただろう」


「火の板を。集落で」


「そう。あと二枚」


「……あなたは何ですか」


「試練の担当」


「常世境の方から来たんですか」


「そう。状況確認。それだけ」


椀を置いて、ふわりと浮き上がり、窓から出ていった。窓は閉まっていた。


東仁が固まっていた。「……今のは」


「試練の担当の人らしいです」


川の男については、誰も触れなかった。触れる必要がなかったのかもしれなかった。常世境には、理由のわからないものがいる。英理はそれをもう知っていた。


「なぜ宿にいる」


「確認だそうです」


東仁は何か言いかけて、廊下へ出た。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ