出発、あるいは置いていくものと持っていくもの
朝、英理は荷物を四回詰め直した。
三回目まで経典と着替えの折り合いがつかなかった。四回目でようやく着替え一枚を諦めて経典の第七章「境界論」を持つことにした。
「英理。もう出発の時間よ」
「四回目をしとる」
真理矢は額に手を当てた。
銭袋を入れ忘れたことに気づいたのは、社殿の門を出てからだった。
「あ」
「何?」
「銭袋」
「確認した?」
「……してない」
「まあ」と英理は言った。「なんとかなるけんな」
「なんとかなるけんなって言いながら、いつもなんとかなっとるから困るけん。それで世界が回っていいんかって話なんだけど」
「回っとるならいいんじゃないかな」
「よくないけん」
門の前で見送りが始まった。部瑠太師はすでに外で待っていて、空を眺めていた。晴れていた。山脈の方だけ、少し雲があった。
今回の旅には、新たな同行者がいた。
東仁という青年で、背が高く、肩幅が広かった。去年、常世境近くで遭難しかけたのを部瑠太師に助けられたという。もとは水軍の武人で、物事を真面目に受け止めるタイプだった。全部が。
「道中の護衛を務めます。どうかよろしく」
「よろしくです」
「あの……本当に行くんですよね。常世境へ」
「気になるけん」
「気になる、以上の理由は?」
「今のところないですが、多分行けば増えるけん」
東仁はしばらく黙った。「……今のところない、というのは」
「ないです」
「ないんですか」
「ないです」
東仁は何かを飲み込むように頷いた。彼の中で何かが決まったらしかった。物事を決めるときの顔だった。
真理矢が最後だった。他の子たちが少し離れて、真理矢と英理だけになった。
真理矢は何も言わなかった。何か言おうとして、やめた。また言おうとして、やめた。英理は待った。真理矢の目が、少し赤くなっていた。
「……なんか。行かないでって言えんのが腹立つ」
「なんで」
「だって英理らしすぎて。止める理由がないけん」
「止めていいけんよ」
「止めんよ」真理矢がきっぱり言った。「でも腹立つ」
「ごめん」
「謝らんといてよ、余計腹立つ」
英理はどうしたらいいかわからなくなって、とりあえず真理矢の肩を叩いた。二回。
「痛い」
「ごめん」
「力加減おかしいんよ英理は、いつも」
真理矢がふっと笑った。泣きそうな顔のまま笑った。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
英理は振り返って歩き始めた。三歩目で、石畳の段差につまずいた。転ばなかったが、あわや、という体勢になった。
「大丈夫?!」真理矢が声を上げた。
「大丈夫ぞな。段差があったけん」
「そこに段差があるの、三年間知っとったでしょ」
「……知っとった」
「英理!」
「うん」
「絶対帰ってきんさいよ」
英理は振り返らずに手を上げた。振り返ると自分も泣きそうな気がしたので、前だけ見て歩いた。
部瑠太師が隣に並んだ。
「銭袋、持っておるか」
「……師が持つと思っていました」
老人はため息をついて銭袋を渡した。
街を出ると、道は白くなった。霜が積もった街道を足跡をつけながら進む。空は青い。風は冷たいが日差しがある。
「師、常世境の話を、知っていますか」
「大社でそのような話を聞いたか。到達した者に宝が与えられると」
「それだけですか」
老人は前を見たまま歩いた。
「歴史の中で、あの常世境へ向かった者は少なくない。王がいた。国の飢饉を救うため、常世境の富を求めた」
「得られましたか」
「得た」
「では国は救われた?」
「救われた。その王の代は」
「……その代は、とは」
「次の代の者が、その金を奪い合って戦争を起こした」
英理は黙った。しばらく霜を踏んだ。
「医師がいた。全ての病を癒す力を求めた。それも得た」
「その医師は」
「千年生きた。己が癒した者たちが全員死んでいくのを見届けながら」
しばらく、街道の霜を踏む音だけが続いた。
「……なんか」英理はゆっくり言った。「呪いみたいですね」
「どういう意味だ」と東仁が言った。
「うまく言えないんですけど」英理は歩きながら考えた。「王様って、金が欲しかったんじゃなくて、安心が欲しかったんだと思うんです。でも来たのは金だけで、安心は来なかった感じで」
「続けろ」と部瑠太師が言った。
「お医者さんも……苦しむ人を見たくなかったから力が欲しかったのに、力だけ残って、見たくないって気持ちが消えないまま千年いる、みたいな」
「つまり何が言いたい」東仁が前を向いたまま聞いた。
「うまく言えないんですが」
「さっきも言った」
「……欲しかった時の気持ちだけ、ずっと残っちゃう感じなのかな、って。でも人が欲しいものって変わるじゃないですか。だからちょっと怖くて」
「まあそうだな」
「昨日は蜜檸檬が欲しかったけど、今日はもう別に——あ、でも今はちょっと欲しいかもしれんよ。朝からあまり食べてないけん」
東仁が天を仰いだ。
部瑠太師が声を出して笑った。小さな笑いだったが、確かに笑った。
「師、笑うんですね」
「失礼な」
「いえ、なんか、よかったです」
老人はすぐに真顔に戻ったが、口元がまだ少し緩んでいた。
昼過ぎ、街道を歩いているうち、気がつくと後ろから別の旅人がついてきていた。
喋る白い狼だった。
「……誰ですか」
「律の書の知識をお持ちの方とご一緒したく。常世境への参詣者に同行させていただけますか」
「律の書の知識は私より師の方が詳しいですが」
「承知しています。部瑠太師、律の書 第十七節にある『常世境の業の返し方』について、現代語解釈をお教え願えますか」
部瑠太師は少しだけ目を細めた。「……ついてくるがいい」
律は律という名だった。律の書を暗記していて、何かあるたびに「律の書の○節に……」と言い出した。東仁が「頼もしい」と言い、英理が「役に立つ」と言い、部瑠太師が「うるさい」と言った。律は三つとも事実として受け取った。
夕方、小さな集落に迷い込んだ。地図を見誤った英理のせいで、完全に逆方向だった。
集落は五軒ほどだった。疲れ切った種類の静けさだった。一軒の家の前に、女の人が立っていた。目が赤かった。
「旅の方ですか」
「はい。道を間違えてしまって」
「よければ中に入りませんか」
中に入ると、火がなかった。暖炉に木はあったが、燃えていなかった。部屋の隅に子供が二人、毛布にくるまって縮こまっていた。
「火打石が壊れてしまって。もう三日、火がなくて」
三日。
英理はその言葉を一度だけ頭の中で繰り返した。
荷物を下ろした。内側のポケットに手を入れた。金属板が三枚あった。社殿に戻ったとき机の上に置かれていたもので、師が「使う時がきたら、わかる」と言っていた。常世境の中では、社殿の術式は別の形を取る、とも言っていた。板がその形だろうと英理は思った。
赤みを帯びた板を取り出した。暖炉の前にしゃがんで、板を薪の上に置いた。何と言えばいいかわからなかったので、何も言わずに、ただそこにあってくれ、と思いながら板に触れた。
暖炉に、火が入った。大きくはなかった。でも安定していた。消えない火だった。
子供たちが毛布の中から顔を出した。女の人が、声を出さずに泣いていた。
板を拾おうとしたが、板はもうなかった。火の中に溶けるように消えていた。
——ああ、使い切ったんだ。
残念とも思わなかった。もったいないとも思わなかった。ここで使うものだったと、ただそれだけだった。
残り二枚になった。
外に出たとき、東仁が立っていた。
「あの板、使ったんですね」
「はい」
「あれは常世境のためのものだろう。なぜここで使った」
「火打石が壊れていて、三日火がなかったと聞きました。三日は長いと思いました」
「それだけか」
「それだけです」
東仁はしばらく英理を見ていた。それから前を向いた。
部瑠太師は少し離れた場所で空を見ていた。何も言わなかったが、口の端が少し動いていた。
翌朝、出発のとき、女の人が言った。
「昨日の火……消えなかったんです。今朝も、まだ燃えてて」
「わからないです。でも消えなくていいんじゃないですか、今は」
「……そうですね」
三人と一匹は、また常世境の方へ歩き始めた。金属の音は、今日は最初から聞こえていた。
川沿いの道に差し掛かったとき、水の中に人がいた。
水面が、変だった。揺れていない。風もないのに光が動いていた。水の中に、空があった。
英理は覗き込んだ。
黒地に金のボタンが縦一列に並ぶ、あまり見かけない仕立ての上着を着た男が、ゆっくりと回転していた。学のある者が着るものだろうか——あるいは、どこか別の場所の、別の流儀の服なのかもしれなかった。ネクタイのようなものが揺れていた。目が半分開いていた。沈んでいるのか浮いているのか判断できなかった。
「……何かいます」
「川に?」東仁が来た。
「中に男の人が」
東仁が覗いた。「……本当にいる」
「溺れていますか」
「溺れているように見えないが」
「助けますか」
「何から助けるんだよ」
英理は腕を伸ばした。手が水面に触れた瞬間、視界が青くなった。
——溺れた。
水ではなかった。空気だった。でも溺れた。
視界の端に、半目の男が近づいてきた。遅かった。でも確実に近づいていた。
「こんにちは」
「溺れています」
「そうね」
「助けてもらえますか」
「うん」
助けなかった。英理は気を失った。
気づいたら、川岸に戻っていた。
男が隣に体育座りをして、手帳を読んでいた。
「なんで溺れたんだろ、あんなドジ……」
「それはきっと僕と出会うためです」
「ん?」
「落としたの、私を」
少し間があった。
「……落としたの?」
「落としてないよ」
「……あなた、たまに怒られるでしょ」
「そうなんだよ。連れ合いにも怒られる」
「連れ合いいるの!!」
食堂に、知らない顔がいた。
丸くて小さかった。目だけが大きかった。椀を両手で持って、椅子の上にふわりと浮いていた。
「確認」と、椀から目を離さずに言った。「三枚のうち一枚、もう使っただろう」
「火の板を。集落で」
「そう。あと二枚」
「……あなたは何ですか」
「試練の担当」
「常世境の方から来たんですか」
「そう。状況確認。それだけ」
椀を置いて、ふわりと浮き上がり、窓から出ていった。窓は閉まっていた。
東仁が固まっていた。「……今のは」
「試練の担当の人らしいです」
川の男については、誰も触れなかった。触れる必要がなかったのかもしれなかった。常世境には、理由のわからないものがいる。英理はそれをもう知っていた。
「なぜ宿にいる」
「確認だそうです」
東仁は何か言いかけて、廊下へ出た。




