表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/21

帰り道の猪車、あるいは水が深くなること

帰り道、猪車の中で英理はずっと考えていた。


業を返す。願いを聞いて、返す。返されたものを受け取った人間は背負う。


——あの人も、何かを背負っているんだろうか。


「……英理、また眉が寄っとる」


半分眠りかけていたはずの真理矢が、目を閉じたまま言った。


「起きとったの?」


「半分よ。英理が考えとると伝わってくる気がするけん。空気が変わる。静かになる。水が深くなった感じ」


英理は自分の手を見た。普通の手だった。


「真理矢は」と英理は言った。「何かを本当にやりたいと思ったことある? 理由を考えるより先に体が動く感じ」


「ある。猫が雨に濡れとるとき。傘を持ってても持ってなくても、気づいたら走っとった」


「それだ」英理は静かに言った。


「何が?」


「私がわからなかったこと。理由じゃなくて、走ること」


真理矢は片目を開けて英理を見た。「なんか難しいことを言いよる」


「そうかな」


「そうよ。おやすみ」


真理矢は本格的に眠った。英理はまた窓の外の山を見た。まだそこにあった。


村に差し掛かったのは夕方前だった。御者が猪に水を飲ませる間、見習いたちは少し外に出た。


英理は少し村の方へ歩いた。石塀の角を曲がったところに、子供がいた。七歳か八歳くらいの男の子が石塀にもたれて座っていた。外套もなく、薄い上着一枚で、両手を膝に挟んでいた。鼻が赤い。唇が少し白い。


「寒くない?」


男の子は顔を上げた。目が赤かった。何も言わなかった。


英理は男の子の前にしゃがんだ。荷物の中を確認した。蜜檸檬が一個。乾いたパンが半分。スープの瓶はもう空だった。


手袋を外した。冷たい空気がすぐに手の甲に来た。右手の平を上に向けて、息を整えた。


小さな火が、指先の上で揺れた。戦えない。物を燃やすには弱すぎる。でも手を温めるには十分だった。


「触らんといて。でも、近くに手を出してみて」


男の子はためらいながら、かじかんだ両手を炎の近くに出した。温かい、とでも言いたそうな顔が少しほぐれた。


英理は荷物から蜜檸檬を取り出した。磨かれたように艶のある、腐らない蜜檸檬。


「食べる?」


男の子は小さく頷いた。英理は蜜檸檬を渡した。炎をもう少し大きくした。使いすぎると腹が減るのはわかっていたが、もう少しだけ、と思った。


男の子が蜜檸檬を食べ始めた。甘い匂いがした。英理の腹が、静かに鳴った。


「お父さんかお母さんは?」


少し間があった。「父さんが、具合悪い」


英理は頷いた。それ以上は聞かなかった。聞いても、今すぐできることが増えるわけじゃない。男の子が蜜檸檬を食べ終わるまで、炎を続けた。それだけだった。


猪車に戻ると、部瑠太師が石塀にもたれて待っていた。


「どこへ行っておった」


「少し村を。子供がいた。寒そうだったので、火を使いました」


部瑠太師は英理をしばらく見た。それから目を細めた。


「腹は減らなかったか」


「減りました」


「そうか」


老人は猪車の方へ歩き始めた。英理も並んで歩いた。


「師、あの火、これくらいしか使えないんですが。もっと大きくする方法はないんですか」


部瑠太師は少し黙った。


「大きくしたいのか」


「大きければ、もっと役に立てます。子供の家まで温められたら、と思ったので」


「おまえの術、いつも料理か洗濯に使っておるだろう。律の書には炎は魔物を退けるためと書いてある」


「パンを焼く方が、先に必要なので」


老人はそれ以上何も言わなかった。猪車が見えてきた。乗り込む直前に、部瑠太師は英理だけに聞こえる声で言った。


「大きくなるのは、術じゃない」


それだけ言って、老人は乗り込んだ。


英理はしばらく外に立っていた。


——大きくなるのは、術じゃない。


じゃあ、何が大きくなるんだ。


夕方、真理矢が目を覚ました。


「英理、顔色悪いよ。腹減った?」


「少し」


「ほら」真理矢が蜂蜜菓子を出した。「余ったやつ」


甘かった。思ったより甘くて、少し目に来た。泣くほどではなかったが、甘さが疲れた体に沁みた。


「ねえ英理」真理矢が声を落として言った。「今日、海門の大社で会った人、どんな感じだった?」


「変というより……いろんなものを、渡してしまった人みたいな感じ」


「渡した?」


「持っていたものを全部どこかへ出してしまって、中が空になった……みたいな」


真理矢はしばらく考えた。それから静かに言った。「……英理、常世境へ行くつもり?」


英理は答えなかった。窓の外を見た。山脈はほとんど見えなかった。空が暗くなって、輪郭だけが残っていた。でも音は聞こえた。金属の音。今日は、初めてはっきり聞こえた。


「わからない」と英理はようやく言った。「でも」


「でも?」


「あの子の家が、冬の間ずっと寒いことは、わかる」


真理矢は英理を見た。


「それって」真理矢がゆっくり言った。「もう答えが出とるんじゃないけん」


「そうかな」


「そうだよ」


猪車が揺れた。金属の音が、遠くなった。でも消えなかった。英理の耳の奥で、一定のリズムで静かに続いていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ