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本のしおり、あるいは日常と同じじゃん

山を下りてから、何日かが過ぎた。


何日かというのは正確ではなかった。常世境の中での時間の感覚が、こちらに戻っても少しだけ残っていた。朝が来た。昼が来た。夜が来た。腹が鳴った。食べた。眠った。それが続いた。


真理矢は何も聞かなかった。聞かなかったのではなく、英理が帰ってきた日に一度だけ「どうだった」と聞いて、英理が「腹が減りました」と答えたら、「そう」と言って飯を出した。それだけだった。


英理もそれ以上は言わなかった。言えることがなかった、のではなかった。何から言えばいいかを、まだ整理していなかった。言葉にするには、もう少し時間が必要だった。あるいは、言葉にしなくていいのかもしれなかった。


荷物は、部屋の隅に置いたままだった。


開けなかった。


開けなくていいと思っていた。開けるべき時がきたら、手が動く。それは旅の中で学んだことだった。考えるより先に、手が動く。開けていいときになれば、開けるだろうと思った。


社殿の中が、普通だった。


当たり前のことだった。英理が旅をしていた間も、社殿はそこにあった。朝の鐘は鳴っていた。石床は冷たかった。見習いの子どもたちは祈りを唱えていた。英理が戻っても、社殿は変わらなかった。それが正しかった。


英理は変わったのかもしれなかった。変わっていないのかもしれなかった。どちらかはわからなかった。ただ、ここにいた。腹が鳴った。飯を食べた。眠った。朝が来た。それが続いた。それだけで十分だった。


一日目は、そのままにした。


二日目も、そのままにした。


三日目の夜に、英理は荷物を開けた。


本が入っていた。


革の表紙。何も書いていない。持った瞬間にこれだ、と思ったときと同じ感触がした。重くなかった。ただ、あった。


英理は本を取り出した。膝の上に置いた。表紙を見た。裏を見た。また表を見た。


少し考えた。考えてから、考えるのをやめた。


開いた。


開こうとしたら、開いた。山頂でも、段々畑でも、手が止まった。でも今夜は止まらなかった。止めなかったのでもなかった。ただ、開いた。


中に、文字があった。


読んだ。


どれくらい読んだかは、わからなかった。行灯の光が揺れた。外で何かの音がした。また静かになった。英理は読んでいた。文字を追っていた。意味が来た。意味の次に問いが来た。問いの次にまた文字が来た。それが続いた。


気づいたら、しおりが挟まっていた。


しおりがいつから挟まっていたのかは、わからなかった。最初から挟まっていたのかもしれなかった。読んでいる途中で挟まったのかもしれなかった。とにかく、そこにあった。


抜いた。


また本になった。


また読んだ。読むと問いが増えた。しおりが増えた。また抜いた。また本になった。また読んだ。また問いが増えた。


英理は本を膝の上に置いた。しばらくそうしていた。


「……なんか日常と同じじゃん」


声に出たのは、意図していなかった。でも声に出た。


驚かなかった。がっかりもしなかった。ただそう思ったから、そう言った。


読めば問いが増える。しおりが増える。抜けばまた本になる。また読む。また問いが増える。それが続く。終わらない。でも困らない。最初からそうだった。何かを読むたびにそうだった。


「蜜檸檬はおやつに含まれますか」と聞いたとき、答えが返ってきた瞬間に、次の問いが来た。名前とは何か。おやつとは何か。含まれるとはどういうことか。ここへ来る前から、ずっとそうだった。旅の中でも同じだった。答えを受け取るたびに、次の問いが生まれた。橋の上で名前がぼやけた。なぜぼやけるのかと思った。答えを受け取った。次の問いが来た。段々畑で板を使った。なぜ使えたのかと思った。使い切ったら板が戻った。なぜ戻るのかと思った。戻らない板があった。なぜ戻らないのかと思った。渡すと受け取るは違うと聞いた。どう違うのかと思った。


問いは消えない、と本の中に書いてあった。問いは消えない。答えを得た問いは、新しい問いを産む。その問いもまた答えを求め、また新しい問いを産む。そうやって問いは増え続ける。


本も同じだった。


なんか日常と同じじゃん。


それだけだった。ただ、それだけだった。拍子抜けするほど、それだけだった。でも拍子抜けとも違った。もっと静かな、ただそうだ、という感じだった。


英理は本をもう一度開いた。読んだ。問いが来た。しおりが挟まった。抜いた。また本になった。


それが続いた。


 


翌日の夕方、英理はまた本を開いていた。


昨日から続きを読もうとした。でも昨日の続きがどこかわからなかった。しおりがなかった。昨夜、全部抜いてしまっていた。


どこから読んでもいいと思った。


適当なところを開いた。読んだ。問いが来た。しおりを挟んだ。読み続けた。別の問いが来た。しおりを挟んだ。また読んだ。


「英理、ご飯」


真理矢の声がした。本を閉じた。しおりが三枚挟まっていた。立ち上がった。


食べた。腹が落ち着いた。また部屋に戻った。本を開いた。しおりが三枚あった。一番最初のしおりから読み始めた。また問いが来た。また別の問いが来た。


夜になった。


眠くなった。本を閉じた。膝の上に置いた。しおりが何枚挟まっているか、数えた。七枚あった。七つの問いが挟まっていた。どれも答えが出ていなかった。どれも、出なくていいかもしれなかった。


英理は本を枕元に置いた。


目を閉じた。腹が落ち着いていた。今日もここにいた。腹が鳴った日はいつもそうだった。鳴るたびに確かめることができた。ここにいる。ここにいる。それだけで十分だった。眠った。


 


三日ほど経った。


本は枕元に置いたままだった。朝起きたら手が届く場所にあった。朝に少し読んだ。昼に少し読んだ。夜に少し読んだ。しおりが増えた。抜いた。また増えた。また抜いた。


それが当たり前になっていった。


特別なことではなくなっていった。本を開くことが、水を飲むことや飯を食べることと同じくらい、ただそこにある行為になっていった。


英理はそれを不思議だと思わなかった。


もともとそういうものだったのかもしれなかった。本を読む前から、英理は問いを持っていた。問いが来るたびに、次の問いが来た。腹が鳴るたびに、ここにいるとわかった。それが続いていた。本が来ても、来なくても、続いていた。


東仁のことを思った。


花野原のことを思った。カエルが「花が好きだったかもしれない」と言ったことを思った。部瑠太師の肩が少し下がったことを思った。在人が「そのへん」と言っていたことを思った。


みんな、帰っただろうか。


どこへ帰るのかは、英理にはわからなかった。でも帰る場所があるとすれば、帰っているだろうと思った。


腹が、鳴った。


今日もここにいた。


英理は本を開いた。しおりがあった。抜いた。また本になった。それが続いた。


 


東仁から便りはなかった。カエルからもなかった。在人からも、律からも。便りが来るような関係ではなかったかもしれなかった。でも、それでよかった。あの旅の中にいたことが、確かにあった。それだけで十分だった。


社殿の仕事は変わらなかった。


朝、鐘が鳴った。祈りの言葉を唱えた。冬の石床は冷たかった。見習いの子どもたちが寝ぼけた顔で並んでいた。英理はその顔を見た。起きている。ここにいる。腹が鳴ったらもっとはっきりわかる。


仕事が終わると本を読んだ。


師のところへ行く用事があった。師は変わらなかった。ただ、少しだけ、遠くを見ていた。来た道ではなく、もっと遠い方を。何を見ているのかは、英理にはわからなかった。わからなくていいと思った。


東仁のことを、時々思った。


カエルのことも。在人のことも。律のことも。みんな、どこかへ帰っただろうと思った。帰る場所がどこかは、英理にはわからなかった。でも帰っているだろうと思った。それで十分だった。


腹が鳴った。


飯を食べた。


また本を読んだ。しおりがあった。抜いた。また本になった。


それが続いた。


それが続いた。


 


「英理」


「はい」


「おやつ、食べる?」


英理は本から目を上げた。


蜜檸檬があった。小さな椀に、二切れ。


「……これ、おやつに含まれますか」


真理矢が少し考えた。「どうやろ」「わかりません」


英理はまた本を見た。少し考えた。蜜檸檬がある。本がある。どちらも、ここにある。「食べながら読みます」「ええよ」


蜜檸檬を食べた。甘かった。酸っぱかった。腹の中に入った。


本を読んだ。しおりがあった。抜いた。また本になった。


しばらくして、英理は本を閉じた。膝の上に置いた。


「真理矢」


「なに」


英理は鞄を開けた。青みを帯びた板が、一枚、あった。取り出した。手の中に置いた。冷たくなかった。温かくもなかった。ただ、あった。


差し出した。


真理矢が見た。「……なにこれ」


英理は答えなかった。真理矢はもう一度見た。表と裏を見た。また表を見た。「なにこれ」とまた言った。


「わかりません」英理は言った。「でも」


「でも」


「持っていてください」


真理矢はしばらく板を見た。それから、鞄にしまった。「……わかった」


それだけだった。


真理矢が、行灯を少し手前へ寄せた。何も言わなかった。ただ寄せた。


光が、近くなった。


英理は本を開いた。しおりがあった。抜いた。また本になった。


それが続いた。



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