白い野原、あるいは腹が鳴ること
東仁たちは先に下り始めていた。英理はその後に続いた。
帰り道には、別のものがあった。まだ名前がなかった。でもそこにあった。英理は歩いた。腹が、鳴った。金属の音が、遠くなった。でも消えなかった。この場所の中で、静かに、確かに、鳴り続けていた。何かを数えていた。あるいは、ただ、そこにいた。
一歩。また一歩。
足元が、変わった。
気づかないうちに変わっていた。岩のはずだった。あの固くて、ところどころ苔の張り付いた、手を伸ばせば引っかかるような岩の感触が、いつの間にか消えていた。代わりにあるのは土だった。踏むたびに少しだけ沈む、柔らかい土だった。乾いているのに湿っているような、確かにそこにあるのにどこか遠いような、そういう感触の土だった。
英理は立ち止まった。
野原があった。
いつからそこにあったのか、わからなかった。さっきまで木があった。葉があった。斜面があった。光が木々のあいだを細く差していた。降りてきた道があった。それが今、なかった。
ただ、白かった。
広かった。
草が生えているわけでもなかった。花が咲いているわけでもなかった。石が転がっているわけでもなかった。岩も、木も、影も、何もなかった。白い地面がただどこまでも続いていた。地平がどこにあるのかわからなかった。白い地面と白い空がどこかで繋がっていた。境目が、見えなかった。
行きには、なかった場所だった。
英理はそれを確かめるように、来た道のほうを振り返った。斜面があった。木があった。光が差していた。あちらは変わらなかった。でもこちらを向くと、白い野原があった。行きに通ったはずの場所に、通っていない場所があった。
英理は一歩、踏み出した。
足が沈まなかった。硬くもなかった。ただ、そこにあった。地面はあった。靴底が何かに触れている感覚はあった。でも押し返してくる重さがなかった。踏んでいるのか浮いているのか、区別がつかなかった。もう一歩踏み出した。また一歩。歩けた。進んでいた。でも地面が地面らしくなかった。
風もなかった。音もなかった。
鉱石の原には音があった。金属が空気に触れる、澄んだ音があった。足元で鳴る硬い音があった。山頂には遠さがあった。あの広さには、見渡せる遠さがあった。
ここは違った。
遠くもなく、近くもなかった。ただ静かだった。静かさが満ちていた。欠けたものがなかった。欲しいものがない、という感じとは違った。欲しいという気持ちが最初からない、ということでもなかった。もっと手前の話だった。欠けていないから、欲しいが生まれない。そういう場所だった。
英理は少し歩いて、立ち止まった。
深呼吸をした。空気は空気だった。変な匂いも、甘い匂いも、潮の匂いも、鉄の匂いも、何もなかった。ただの空気だった。でも吸うたびに何かが落ち着いた。落ち着かせようとしているわけではなかった。ただ、落ち着いた。
怖い、と英理は思った。少し。
怖い、と思った自分が少し意外だった。この野原が怖いわけではなかった。この場所に入ったとき、自分の中の何かが静かになったことが、少し怖かった。こんなに簡単に静かになれるのかと思った。こんなに簡単に、欲しいものを忘れられるのかと思った。
英理はもう少し歩いた。
どこへ向かっているのかはわからなかった。でも歩いた。白い地面が続いた。白い空が続いた。どこまで行っても、ここだった。ここが変わらなかった。変わるものが、なかった。
しばらく歩いて、英理はもう一度立ち止まった。何も変わっていなかった。同じ白さが続いていた。自分がどこにいるのか、わからなかった。でも怖くなかった。それが少し不思議だった。
……
愚者が横に来た。
いつの間にか、そこにいた。足音もなかった。気配もなかった。ただ、気づいたらいた。いつもそうだった。この存在はいつも、気づいたときにはそこにいた。英理がどこにいても、この存在は現れた。引き寄せているのか、ついてきているのか、それとも最初からそこにいたのか、わからなかった。
英理は横を見た。愚者は野原を見ていた。
見ていた、というよりも、向いていた。じっと見つめているわけでもなかった。何かを探しているわけでもなかった。何かに引き付けられているわけでもなかった。ただ、そちらを向いていた。
鉱石の原のことを英理は思った。
あのとき愚者は動いていた。光るものがあれば近づいた。珍しい形のものがあれば触れようとした。拾いはしなかった。でも向かっていた。欲しいものへと向かっていく存在だった。飢えを名前にしている存在だった。飢えているものが欲しいものへ向かっていく。それが愚者の形だと思っていた。
今、愚者は止まっていた。
動かなかった。何かへ向かおうとしていなかった。
「何か、あるの」
英理は聞いた。自分でも意図していなかった問いだった。
愚者は答えなかった。
沈黙が続いた。英理はもう一度野原を見た。白い地面が広がっていた。それだけだった。でも欠けたものがなかった。欲しいが生まれない場所だった。ここに立っていると英理の中にもそれが伝わってくるようだった。
少し羨ましかった。
それから、自分がそれを羨ましいと思ったことに、英理は驚いた。
羨ましいと思う必要はなかった。英理はここに来ていた。英理もこの場所に立っていた。同じ空気を吸っていた。でも英理の腹は鳴っていた。内側から音が来ていた。欠けているものがあった。英理には、まだ欠けているものがあった。愚者にはないものが、英理にはあった。それが今、少しだけ重かった。
愚者が一歩、踏み出した。野原の奥へ。
英理は引き留めなかった。
引き留めるべきかどうか、わからなかった。止めることが正しいのかどうかも、わからなかった。止められるのかどうかも、わからなかった。ただ、見ていた。
愚者の輪郭が、薄れた。
最初は見間違いだと思った。でもここには光源がなかった。影もなかった。白く均等に、ただ明るかった。光の加減ではなかった。
愚者の足が、地面と混じり始めていた。
境目がなかった。靴の色が消えていた。足首が白くなっていた。足首から膝へ、膝から腿へ、少しずつ白が上へのぼっていた。急ではなかった。乱暴ではなかった。劇的でもなかった。ただ、気づいたら薄れていた。砂が水に溶けるような、霧が風に散るような、そういう静かさで、愚者の下半身が野原と同じになっていた。
英理は何も言わなかった。
言えなかったのではなかった。言葉が要らなかった。
ここはそういう場所だった。何かが消えていくことが、穏やかに許されている場所だった。怒ることも、嘆くことも、叫ぶことも、この場所の文法には含まれていなかった。
英理はそれを感じた。感じながら、少し恐ろしかった。
この場所がそうだから自分が落ち着いているのか、自分が元々そういう人間だから落ち着いているのか、区別がつかなかった。どちらでも同じかもしれなかった。どちらでも、英理は今ここに立って、愚者が消えていくのを見ていた。
愚者が歩き続けた。ゆっくりと。
急いでいなかった。逃げているわけでもなかった。行きたい場所があって向かっているのとも違った。歩く理由がなくなっているのに、それでも歩いていた。惰性ではなかった。もっと静かな何かだった。
欲しいものがなくなった存在が、それでも動いていた。
欲しいものがなければ止まるはずなのに、止まっていなかった。
あるいは、止まっているのと動いているのとの区別が、この場所ではもう意味をなさなくなっていたのかもしれなかった。
英理は見ていた。
見ながら、愚者のことを考えた。
旅の最初から、この存在はそこにいた。飢えていた。欲しかった。欲しいから集めた。集めたけれど拾わなかった。欲しいのに拾わなかった。それが不思議だった。ずっと不思議だった。でも今になって、少しわかる気がした。欲しいから向かうのと、手に入れるのは、違う話だったのかもしれなかった。向かっているあいだだけ、あの存在は飢えを持っていられた。飢えを持っていることが、この存在の形だった。
腰のあたりが白くなっていた。
腹のあたりが野原と同じ色になっていた。
肩が薄れた。腕が混じった。首のあたりまで地面と境目がなくなって——
英理の腹が、鳴った。
大きな音だった。
低くて、重くて、内側から来る音だった。この静寂の中で、それは場違いなほどはっきりと鳴った。誤魔化しようがなかった。白く柔らかな静けさの中に、腹の音だけが確かな重力を持って響いた。
英理は思わず腹を見た。
手を当てた。温かかった。
皮膚の下で何かが動いていた。内臓があった。消化しようとしていた。次を求めていた。そのために鳴っていた。そのために英理はここにいた。そのために英理は、どんな場所でも、ここにいることがわかった。
腹が鳴るたびに、わかる。
ここにいる。ここにいる。わたしは、まだ、ここにいる。
第一章のことを思った。
もっとずっと前から知っていたことを思った。腹が鳴るたびにわかることがあった。どこにいても、どんな場所にいても、腹が鳴るたびに、ここにいるとわかった。ここにいるとしかわからなかった。でもそれで十分だった。それだけで十分だった。白い野原があろうと、愚者が消えていこうと、英理の腹は鳴った。英理はここにいた。
「……っ」
息が出た。
声ではなかった。ただの息だった。でも確かに自分の口から出た息だった。肺があった。空気があった。心臓が動いていた。あの音が鳴っていた。
愚者が振り返った。
顔だけが、まだあった。
体はほとんど野原と同じ色になっていた。境目がなかった。地面に消えかけていた。でも顔は残っていた。表情があった。いつもの、あの表情があった。
やれやれ、というような顔だった。
しかたない、というような顔だった。
呆れているようでいて、でもどこかに親切心がある、あの顔だった。
英理は何か言おうとした。言えなかった。
「……まったく」
愚者が言った。遠かった。水の底から来るような遠さだった。でも聞こえた。
「結局、本を渡すだけになったね」
英理の手が、まだ腹の上にあった。温かかった。
「君にとってはただの本になったのだろう」
やれやれ、という口調だった。
途方もなく大きな何かが、人間の言葉を使っているような、あのギャップがあった。最初からそうだった。ずっとそうだった。この存在はいつも、巨大さと小さな言葉のあいだにいた。それが不気味で、それが親切で、それがこの存在のやり方だった。
英理は何か言おうとした。
ありがとう、と言おうとしたかもしれなかった。さようなら、と言おうとしたかもしれなかった。ちょっと待って、と言おうとしたかもしれなかった。でも言葉が来る前に、愚者がまた言った。
「これじゃ足りない」
顔が薄れ始めた。輪郭が滲んだ。
「そのうちきみたちのところにも何か送っとくよ」
最後だった。
宣言でもなかった。脅しでもなかった。約束とも少し違った。ただ、そう言った。何かをすることを決めていて、それを伝えた。次に何をするかを、ごく当たり前の口調で告げた。巨大なものが次に何をするかを、そんな口調で言った。
不気味だと思った。
親切だとも思った。
どちらかは、わからなかった。どちらでもあった、のかもしれなかった。この存在はいつもそうだった。不気味さと親切心を、区別させてくれなかった。それがこの存在のやり方だった。最初からそうだった。これからもそうなのだろうと、英理は思った。
愚者の顔が、消えた。
野原だけがあった。
英理はしばらく、そこを見ていた。
何もなかった。白い地面が広がっていた。欠けたものがない静けさが、満ちていた。風もなかった。音もなかった。
腹が、鳴った。
英理はここにいた。
また鳴った。
まだ、ここにいた。
英理は目を閉じた。まぶたの裏に光がなかった。暗くもなかった。ただ、閉じていた。閉じていても腹が鳴った。ここにいるとわかった。閉じていても英理はいた。
目を開けた。
野原があった。愚者はいなかった。それだけだった。
英理は立っていた。どれくらい立っていたかわからなかった。ここでは時間の感覚がなかった。でも腹が鳴るたびに確かめることができた。ここにいる。まだいる。まだいる。それが続いていた。
気づいたら歩いていた。
野原の中を歩いた。足の下に感触がなかった。でも進んでいた。白い地面が後ろへ流れた。どこかで野原が終わった。
気づいたら石が戻っていた。
岩の感触が戻っていた。押し返してくる地面が戻っていた。足元に重さが戻っていた。
木があった。
葉があった。
光が葉のあいだを差していた。
斜面があった。降りていく道があった。
来た道の続きが、そこにあった。
英理は止まらなかった。歩き続けた。
腹が鳴った。また鳴った。鳴るたびに英理はここにいた。それだけが続いた。それだけでよかった。




