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また使う、あるいは届けることについて

道の端に、座っているものがいた。


人の形をしていた。でも人ではなかった。膝を抱えて、岩の端に座っていた。手が、少し透けていた。透けているのに、そこにあった。光が少し通っていた。


英理が近づいた。東仁が何か言いかけた。英理はもう近くにいた。


「こんにちは」英理は言った。


そのものが顔を上げた。目があった。目だけははっきりしていた。


「見えるのか」と言った。

「見えます」

「久しぶりだ」

「久しぶりですか」

「見える者が来たのが」


英理はその前に座った。荷物を傍に下ろした。「どうしましたか」


「渡し損ねたものがある」そのものは言った。声が遠かった。水の底から来るような遠さだった。「名前だ」


英理はその言葉を頭の中に置いた。「名前を、渡し損ねた」


「誰かに渡すはずだった。でも届けられなかった。自分の姿が見えない者には、届かなかった」


橋の上のことを思った。名前と物の結びつきが薄れた。名前がなくなると、物の見え方が変わった。ただそこにある、という見え方になった。


「渡す先がありますか」英理は聞いた。

「ある。でも、もうここにはいない」

「ここにいなくても届きますか」

「届く方法が、一つある」


そのものは英理を見た。鞄の方を見た。


英理は鞄を開けた。板が二枚あった。赤みを帯びた板が、指に触れた。取り出した。


何を言えばいいかわからなかった。言葉がなくてよかった。届いてくれ、と思いながら、板をそのものの手に——透けた、手に——触れさせた。


板が、溶けた。


音がしなかった。光もなかった。ただ、板がなくなっていた。そのものの手が、少しだけ、変わった。透け方が、変わった。何かが、通り抜けた後の透け方になっていた。


そのものの目が、少しだけ動いた。安心したのかもしれなかった。軽くなったのかもしれなかった。どちらかは、英理にはわからなかった。でも、変わった。


「ありがとう」そのものは言った。

「わかりました」英理は言った。


 


しばらく間があった。


風がなかった。草が揺れなかった。道の端で、英理とそのものと、それだけがいた。後ろに東仁とカエルがいた。でも近くには来なかった。来ない方がいいと思ったのかもしれなかった。


「名前を」とそのものが言った。「知っているか」

「橋の話ですか」英理は言った。「橋の上で、名前がぼやけました」

「橋で学んだか」

「少し」

「名前を渡すことは、橋の上ではしてはいけない。でも、届けることは、別だ」


英理はその言葉を頭の中に置いた。渡すことと、届けること。橋の上では名前は薄れた。名前と物の結びつきが切れた。でも今、届けることはできた。


「渡すと届けるは」英理は言った。「どう違いますか」


そのものは少し考えた。「渡すのは、自分の手から離すこと。届けるのは、相手のところへ行くこと」


「届けた名前は」英理は聞いた。「どこへ行きましたか」


「さあ」そのものは言った。「でも、行った」


英理はその答えを受け取った。どこへ行ったかより、行ったことの方が大事かもしれなかった。


「一つ聞いていいか」そのものが言った。

「どうぞ」

「惜しくないのか」

「何が」

「板を」


英理は少し考えた。「惜しくないです」「なぜ」「使う時に使えばいいと思っているので」「それだけか」「それだけです」


そのものは、また少しだけ、目が変わった。「そうか」とだけ言った。それ以上何も言わなかった。


「帰り道に」とそのものは言った。「白い野原がある」


英理はその言葉を頭の中に置いた。「白い野原」


「急ぐな」


「わかりました」英理は言った。「ありがとうございます」


そのものは何も言わなかった。また岩の端に座って、膝を抱えた。軽くなった姿で、座っていた。


 


東仁が英理の隣に来た。「また使ったのか」と言った。

「使いました」

「今度は何だった」

「名前を、届けてほしいと言われました」

「名前を」

「橋の上で名前がぼやけた話をしましたね」英理は言った。「あれと、繋がっているかもしれません」


東仁はしばらく黙った。「橋の上で俺が確かめたのは」と言った。「水軍の武人の、東仁、という名前だった」

「確かめましたね」

「お前が聞いた。橋の上で、何が来たかを」

「聞きました」

「正直に答えた」東仁は言った。「珍しいことをした気がした。あの橋の上で、他の誰かに正直に言ったのは、初めてだった」


英理はその言葉を頭の中に置いた。東仁が正直に言った。東仁らしくない、と思ったのかもしれなかった。でも橋の上では、正直になれた。


「よかったですね」英理は言った。

「よかったのかどうか、わからない」

「でも」

「でも、言えた」


腹が、鳴った。東仁が息を吐いた。

「黄色い実が、まだある」英理は言った。「食べますか」

「……食う」東仁は言った。


 


愚者が、英理の隣に来た。いつの間にかいた。足音がなかった。気配もなかった。ただ、気づいたら隣にいた。


笑みが、なかった。


今日一日、笑みが薄くなっていた。朝から薄くなっていた。板を使うたびに、少しずつ薄くなっていた。そして今、笑みがなかった。笑みのない愚者の顔は——ただの顔だった。


「愚者さん」英理は言った。

「うん」

「今日、何を見ていましたか」


愚者は少し間を置いた。「お前を」

「何を見ようとしていましたか」

「自分にはないものを」


英理はその言葉を頭の中に置いた。自分にはないもの。「惜しくない、ということですか」英理は聞いた。


愚者は答えなかった。


笑みが、また薄くなった。薄くなって——今度は、戻らなかった。


「飢えていると」愚者が言った。声が少し違った。笑みのない声だった。「止まれない」

「そうですね」

「止まれないから、ずっと来た。欲しいものへ向かってきた」

「向かってきましたね」

「向かうことだけが、自分の形だった」


英理はその言い方を頭の中に置いた。向かうことが形。欲しいものがあるから動ける。動いているから、形がある。


「今は」英理は言った。「どうですか」


愚者は少し間を置いた。笑みがなかった。「わからない」とだけ言った。


それ以上は、何も言わなかった。英理も続けなかった。


並んで歩いた。腹が鳴った。愚者は何も言わなかった。笑みがなかったから、笑みが変わることもなかった。ただ、並んで歩いた。


愚者が、鉱石の一枚を踏んだ。音がした。金属の音が、一度だけ。愚者は立ち止まった。足元を見た。鉱石を見た。拾わなかった。欲しいものを見るときの目ではなかった。ただ、見ていた。


見ているだけの、目だった。


「愚者さん」英理は言った。

「うん」

「花野原で、花を見ていましたか」

「……見ていた」

「何を見ていましたか」

「花を」

「花が、欲しかったですか」


愚者は少し間を置いた。「欲しいとは、少し違った」


「違う?」

「ただ、見ていた。欲しいより手前の、何かがあった」


英理はその言葉を頭の中に置いた。欲しいより手前。欲しいという気持ちが生まれる前の、ただそこにあるという感覚。英理はそれを、白い野原で感じるかもしれなかった。感じるとしたら——


腹が、鳴った。


「……また鳴るね」愚者が言った。笑みはなかった。でも声に、何かがあった。笑みがあるときとは違う、何かが。


「鳴ります」英理は言った。「ここにいます」


愚者は少し、何かを言いかけた。言わなかった。でも顔の形が、少し変わった。笑みではなかった。でも、何か別のものだった。


白い野原が、見えてきた。


 


散歩が終わった。


そのものが先を歩いていた。白い野原の手前で立っていた。大きすぎる外套が、風もないのに少し揺れていた。


「ここまでか」英理は言った。

「ここまで」そのものは言った。「向こうはまた別だ」

「別の場所ですか」

「別の時間」


英理はその答えをひとまず受け取った。向こうは別の時間。白い野原の先に、帰り道がある。


「ありがとうございました」英理は言った。「散歩に付き合ってもらって」


そのものは少し間を置いた。「付き合ったわけじゃない」

「ついてきましたよ」

「ついてきたわけじゃない」

「ではなぜいたんですか」

「読めないものの隣は、居やすい」


英理はその言い方を頭の中に置いた。以前も同じことを言われた。読めないものの隣は、居やすい。居やすいから、いた。それだけだった。


「またいつか」英理は言った。

「さあ」そのものは言った。「わからない」

「わからなくてもいいですか」

「わからなくていい。ただそうなる時に、そうなる」


英理は頷いた。それで十分だった。


腹が、鳴った。そのものが少しだけ、目を細めた。笑ったのかもしれなかった。「行け」とだけ言った。


英理は白い野原の方へ、一歩踏み出した。



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