表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/21

名を失う橋、あるいは誰かの顔のこと

朝、宿を出るとき、カエルが言った。「次は何だ」


「橋らしいです」英理は言った。「誰から聞いた」「そのものから」


カエルはそのものを見た。そのものは荷物も持たずに先に立っていた。


「橋を渡ると何が起きる」「軽くなる、と」「どこが」「わかりません」英理は言った。「聞いたんですが、そういう答えでした」


カエルは黙った。今朝のパンは固かった。腹が減っている。また谷みたいな目に遭うなら、せめて食ってから行きたかった。


「律」と東仁が言った。「橋について、律の書に何か書いてあるか」


「律の書 第三十一節に、『名を渡すな、されど渡らぬ者に名はない』とあります」


全員が少し黙った。「……どういう意味ですか」英理は聞いた。


「解釈が分かれています」律は言った。「渡るべきか渡らざるべきかという論と、渡ることで名が変わるという論と——」


「わかりました」カエルが言った。「もういい」「そうですね」律は言った。傷ついた様子はなかった。


愚者は少し後ろで聞いていた。笑みがあった。何も言わなかった。


 


橋は、川の上にあった。川、と呼んでいいのかわからなかった。水が流れていた。でも音がしなかった。流れているのに、音がなかった。水面は動いているのに、波紋がなかった。鏡みたいだった。鏡が、流れていた。


橋自体は古かった。石造りで、手すりがある。手すりに何か彫ってあった。読もうとしたが、近づくと文字が別の文字になった。文字が定まらなかった。


「渡るとどうなりますか」英理はそのものに聞いた。「軽くなる」「何が軽くなりますか」


そのものは少し間を置いた。「持ちすぎているものが、少し、緩む」「緩む」「なくなるわけじゃない。ただ、少し手が離れる」


英理はその言葉を頭の中に置いた。持ちすぎているもの。自分が何を持ちすぎているかは、よくわからなかった。「渡りましょう」英理は言った。


東仁が先に一歩踏み出した。水軍の武人の癖だった。踏み出して、また止まった。引き返したのではなく、確かめた。足の裏で橋を確かめた。「固い」と言った。「渡れる」「当たり前じゃないですか」「試練の橋が当たり前とは限らない」それはそうだった。英理は納得した。


一列になって、渡り始めた。


 


最初の数歩は、普通だった。固い。石の感触がある。手すりが冷たい。川の上は風があった。


五歩目あたりで、何かが変わった。変わった、というより、軽くなった。荷物が軽くなったのではなかった。荷物の重さはそのままだった。でも何かが、ふっと、外れた気がした。何かを持っていたのに、それが一瞬、手から離れた感じ。でも何を持っていたのかが、わからなかった。


止まろうとした。止まれなかった。前に進む以外の選択肢がなかった。


「止まれないですか、ここ」「止まれない」とそのものが後ろから答えた。「渡るか、戻るかだけ」「戻るとどうなりますか」「また来ることになる。別の形で」


英理は前に進んだ。


名前が、少しぼやけた。自分の名前ではなかった。周りのものの名前が、少し、遠くなった。あれは岩、あれは空、あれは川——という結びつきが、薄くなった。名前と物が、少し離れた。名前がないと、物の見え方が変わった。ただそこにある、という見え方になった。


悪くなかった。ただ、少し、心細かった。


「東仁さん」と声が出た。「いる」と前から答えが来た。「部瑠太師」「うん」と隣から来た。「カエルさん」


返事がなかった。英理は振り返った。カエルが、橋の真ん中で、止まっていた。


 


止まっていた。前に進んでいなかった。でも戻ってもいなかった。ただ、橋の上に立っていた。川——鏡のように流れる水——を見下ろしていた。


「カエルさん」返事がなかった。


英理はカエルの方へ戻ろうとした。足が、前にしか出なかった。「戻れないです」英理は言った。「うん」とそのものが言った。「カエルさんが止まっています」「見てる」「どうしたらいいですか」「待てない。渡るしかない」


英理は前を向いた。でも目はカエルの方を向いていた。


カエルは動かなかった。水面を見ていた。水が鏡みたいだから、水面には何かが映っているはずだった。カエルが見ているものが。でも英理には見えなかった。


カエルが、ゆっくり、また歩き始めた。一歩。また一歩。前を向いて。止まる前と同じ歩き方で。でも、何かが、少しだけ違った。肩の位置が、違った。止まる前より、少しだけ、下がっていた。


荷物が重くなったのではなかった。逆だった。何か軽くなったものが、あるらしかった。


 


橋を渡り終えた。向こう岸に出た瞬間、名前が戻ってきた。あれは岩、あれは空——名前と物が、また結びついた。でもそれと同時に——


英理は少し立ち止まった。自分の名前を、確かめようとした。英理。言葉より先に、顔が来た。真理矢の顔だった。名前を呼ぼうとしたら、顔が来た。英理という言葉より先に、門の前で泣きそうな顔のまま笑っていた真理矢が来た。


「……」


おかしかった。自分の名前を確かめようとしたのに、他の人の顔が出てきた。でも、それが間違いとも思えなかった。


「どうした」カエルが横に来た。「自分の名前を確かめたら、真理矢の顔が出てきました」


カエルは少し黙った。「……そういうものか」「わかりません。あなたはどうでしたか」


カエルは前を向いた。「自分の話は、しない」「そうですか」「そうだ」


英理は頷いた。聞いた自分が少し間違えたと思った。聞いていい問いと、聞いてはいけない問いは、違う。これは後者だった。


部瑠太師が隣に来た。音がなかった。いつものように。


「師は何が来ましたか」


老人は少し間を置いた。「忘れた」「忘れましたか」「前に渡ったとき、何が来たかを、もう忘れた」「覚えていなくていいんですか」「覚えていなくていいものは、忘れる」


英理はその言葉を頭の中に置いた。覚えていなくていいものは、忘れる。覚えているものは、まだそこにある。


「真理矢の顔が来たのは」英理はゆっくり言った。「覚えていていいからですか」


老人は答えなかった。でも、少しだけ、肩が動いた。それで十分だった。


 


東仁が、英理の隣に来た。「さっき、カエルが止まっていた」と言った。「見ていました」「何も聞かなかったな」「聞いていい話じゃなかったので」


東仁は頷いた。それから低く言った。「あいつ、理解している」「何をですか」「戻らないということを」


英理はその言葉の意味を、少し考えた。カエルが水面を見ていた。水面に映っていたもの——それはきっと、戻してしまったら失うものだった。あるいは、戻してしまったら消えてしまうもの。橋の上で、一度だけ、それを見た。そして、また歩き始めた。


「東仁さんは」英理は聞いた。「橋の上で、何が来ましたか」


東仁は少し沈黙した。「名前だ」と言った。「ご自分の名前ですか」「東仁。水軍の武人の。それが来た」「それだけですか」「それだけだ」と東仁は言った。それで終わりだった。


英理は追わなかった。東仁が「水軍の武人の」とつけたことが、少し気になったが、今は気にするだけにした。


 


愚者は、橋を渡る間、変わらなかった。変わらなかったことが、少し不思議だった。他の全員が何かを感じていた。でも愚者は橋を渡り終えても、笑みを変えなかった。


「愚者さん」「うん」「橋の上で、何かありましたか」


愚者は少し間を置いた。笑みがあった。「軽くなるべきものが、ないのかもしれないね」「なぜですか」「持っているものが、すでに一つしかないから」


英理はその言葉を頭の中に置いた。一つしかない。欲しいものが一つで、それが大きすぎて全部を覆っている。だから橋が軽くするものが、ない。


「それは」英理は言った。「つらくないですか」


愚者が、少し間を置いた。笑みが動かなかった。動かなかったが——今度は遠くならなかった。


「つらい、という言葉を使ったことがないね」「使わないですか」「使う必要がなかった」「なぜですか」「欲しいものが、ずっとあったから」


英理はその答えを聞いて、少し考えた。欲しいものがあり続けることと、つらくないことが、どう繋がるのかが、まだわからなかった。でも今すぐわかる必要もなかった。「わかりました」と英理は言った。


腹が、鳴った。


愚者は、笑みのまま、少し息を吐いた。「今日も鳴るんだね」「鳴ります」「橋の上でも鳴っていた」「鳴っていましたか」「鳴ってた。渡りながら」


英理は少し考えた。渡りながら鳴っていたなら、名前がぼやけていても、腹は鳴っていた。「それは」英理は言った。「よかったです」「そう?」「ここにいるとわかるので」


愚者は少し間を置いた。笑みが、一瞬だけ、静かになった。遠くなったのでも崩れたのでもなかった。ただ、静かになった。一秒だけ。「そういう受け取り方をするんだ」と愚者は言った。


「違いましたか」「違うとも言えない」「そうですか」英理は言った。


前を向いた。道が続いていた。常世境が、また近くなっていた。金属の音が、また聞こえていた。橋を渡る前と、リズムは同じだった。でも少しだけ、音が澄んでいた。渡る前より、はっきりしていた。何かを数えていた。あるいは、何かが軽くなったことを、静かに確かめていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ