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採石場跡、あるいはお腹が鳴ること

花野原が終わる場所に、気づいたらいた。


終わり方がわからなかった。花があって、草があって、空が青くて、足元が軟らかかった。次の一歩を踏んだら——空気が変わった。温度が落ちた。草の感触がなくなった。足の下が、固くなった。


岩だった。


切り立った岩壁の間に、道があった。人が二人並んで歩けるくらいの幅。上を見ると、岩が空を切り取っていた。空が細い。遠かった。ここが内側で、空が外側、という感じがした。


「谷ですか」英理はそのものに聞いた。


「谷と呼ぶ人もいる」


「他には何と呼びますか」


「試練の一つ目」


英理はその答えをひとまず受け取った。カエルが岩壁を一度見上げた。東仁が歩幅を少し狭くした。狭い道に合わせた動きだった。水軍の武人の癖だろうと思った。


愚者は変わらなかった。歩調も、笑みも、服の埃のなさも。岩の間でも花野原にいるときと同じだった。


「あの」英理は愚者の方を向いた。「試練の間も同行するんですか」


「そのつもりだよ」


「試練に影響しませんか」


「するかもしれない」


「それは……」


「そういうものだよ」愚者は言った。「邪魔をするつもりはない。ただいる」


ただいる、という言い方が、少し引っかかった。でも今はそれより——


腹が鳴った。「……」


また鳴った。今度はさっきより大きかった。


「どうした」とカエルが言った。


「鳴りました」


「今日だけで何回目だ」


「数えていません」


「俺は数えていた。もう五回だ」


「すみません」


「謝るな。腹が減っているなら言え」


「減っています」


「それは知ってる」


東仁が前を歩きながら振り返らずに言った。「宿まであと半日はある」


「半日」英理は言った。「長いですね」


「長い」カエルも言った。


東仁が何か言いかけた。その瞬間、英理の腹が、また鳴った。今度は、違った。音の種類が違った。さっきまでの空腹の音じゃなかった。もっと深いところから来た。深くて、重くて、体の芯が空洞になるような音だった。


英理は少し立ち止まった。「これが試練ですか」


「うん」とそのものが答えた。


「腹が減るんですか。もっと」


「もっと」


「……そういう試練なんですか」


「いろいろあるよ」とそのものは言った。「腹が減る。目がおかしくなる。足が遠くなる。人によって出方が違う」


東仁が立ち止まった。何も言わなかったが、顔色が少し変わっていた。カエルは黙って歩き続けた。止まる気がない歩き方だった。


 


少し進んだあたりで、英理の視界が揺れた。揺れた、というより——厚みが消えた。世界が薄い紙みたいになった気がした。岩壁がある。道がある。みんながいる。でも全部が、一枚の絵みたいに見えた。奥行きがなかった。


「……揺れていますか、ここ」


「揺れてない」東仁が答えた。声が少し遠かった。


「そうですか」


「大丈夫か」


「大丈夫とはどの程度からですか」


「立てているか」


「立てています」


「では大丈夫だ」


英理はその定義をひとまず採用した。


腹が、また鳴った。今度は音の大きさの問題ではなかった。鳴るたびに、少し視界が揺れた。腹が鳴る→視界がずれる→元に戻る。それが繰り返された。


「これ」英理は言いながら歩いた。「腹が鳴るたびに視界がおかしくなりますか」


「人による」とそのものが答えた。


「私は鳴りやすいんですが」


「知ってる」


「つまり」


「つまりそうなるね」


カエルが振り返らずに言った。「喋るな。体力を使う」


「そうですか」


「そうだ」


英理は黙った。黙って歩いた。腹が鳴った。視界が揺れた。また歩いた。


律が隣を歩いてきた。「律の書 第四節に、飢えは魂を磨くとあります」


「今は少し黙っていてください」英理は言った。


「そうですね」律は言った。傷ついた様子はなかった。


リュウが、英理の肩の上でじっとしていた。普段はよく動くのに、動かなかった。重かったが、温かかった。それだけが、はっきりしていた。


 


半分まで来たあたりで、英理は一度立ち止まった。岩壁が、溶けているような感じがした。溶けているのではなく、岩の向こう側が見える気がする、という方が近かった。岩の奥に、何かが流れていた。続いていた。名前がわからなかった。でも確かに、そこにあった。


「英理」カエルが戻ってきた。「歩けるか」


「歩けます」


「本当に」


「足が動きます」英理は言った。「ただ、視界が岩を通り抜けている気がします」


「何を見ている」


「わかりません。でも何かが」


カエルは英理の顔を見た。それから部瑠太師を見た。老人はゆっくり歩いていた。変わらなかった。岩壁を見ていなかった。前だけを見ていた。この試練を知っている人の歩き方だった。


「行けるか」カエルが聞いた。


「行けます」


「転んだら言え」


「わかりました」


「言えないくらいになったら、俺が気づく」


「どうやって」


「前しか見ていない奴を、しばらく見てきたんでな」カエルは英理を見た。「お前はまだちゃんと喋れてる」


英理はその言い方が、少し意外だった。カエルはいつも前しか見ていない人なのに。


「ありがとうございます」


「礼はいい。歩け」


歩いた。腹が鳴った。視界が揺れた。また歩いた。


 


愚者を見たのは、そのときだった。一秒だけだった。


カエルが前に出て、リュウが動いて、英理の視界がまた揺れた、その瞬間に——愚者が、何かを見ていた。笑みがなかった。笑みがなく、準備がなく、ただ、何かを見ていた。目線の先に何があるかは見えなかった。でも目の強さがわかった。欲しいものを見るときの目だった。腹が鳴るよりずっと深いところ、骨より奥から来るような欲しさの目だった。


大きかった。欲しいものが。その目に映っているものの大きさが、人の体に収まらない大きさだった。谷よりも、この岩壁よりも。輪郭がわからない大きさのものを、愚者はずっとここで見ていた。


その目が、英理に向いた。一秒だけ。次の瞬間には、笑みが戻っていた。


「大丈夫?」愚者は言った。準備された声で。「顔色が悪い」


「少し」英理は言った。「視界がおかしいです」


「そうか」


「今のは」英理は続けた。「何を見ていましたか」


愚者は少し間を置いた。笑みがあった。


「何か見えたかい」


「見えました」


「何が」


「答えるより先に聞いた方がいいと思ったので」


愚者は英理を見た。笑みがあった。でも一瞬、その笑みの形が、変わり方をした。笑みが薄くなったわけではなかった。薄くなったのではなく——遠くなった。


「鋭いね」


「鋭くないです」英理は言った。「見えたから聞きました」


愚者は答えなかった。笑みだけがあった。英理も追わなかった。追っても今は無理だと思ったし、視界がまた揺れたので、足元を見るのが先だった。


 


谷を抜けたのは、日が傾いてからだった。出口に出た瞬間、空気が戻ってきた。温度と、厚みと、匂いが。世界が三次元に戻った感じがした。


英理はその場に膝をついた。膝をつくつもりはなかったが、足が止まった。


「大丈夫か」東仁が来た。


「大丈夫です。膝をついただけです」


「つかなくていいところで膝をついている」


「そうですね」


カエルも来た。何も言わずに、水筒を差し出した。「ありがとうございます」「飲め」


飲んだ。水だった。ただの水だった。でも今まで飲んだどの水よりはっきりしていた。体の中に、水が入っていく感触があった。谷の中では何もかもが薄かったのに、水だけが実体を持っていた。


腹が鳴った。「……まだ鳴るか」カエルが息を吐いた。


「鳴ります」


「化け物め」


「褒めてますか、今」


「褒めていない」


「そうですか」


部瑠太師が隣に来た。立ったまま、谷の出口を見ていた。


「師」「うん」「あの谷、何度来ても同じですか」


老人は少し間を置いた。「出方は変わる」


「何が変わりますか」「何を持って入るかで、出るものが変わる」


英理は考えた。今回持って入ったもの。荷物。本。板が二枚。みんな。それから、腹の空き具合。老人が谷の方を見ている目が、少し細くなった。それが答えだと英理は思った。聞かなかった。


そのものが、英理の隣に来た。「よく出た」


「そうですか」「あの谷、途中で引き返す者もいる」「引き返してどうなりますか」「また入ることになる。別の形で」


英理はその言葉を頭の中に置いた。


「宿は近いですか」「近い」「どのくらいですか」「もうすぐ」「もうすぐというのは——」「一般は関係ない」「わかりました」


東仁が前を向いて歩き始めた。カエルもそれに続いた。英理も立ち上がった。膝に土がついていた。払った。荷物を持ち直した。本の重さが、ちゃんとあった。谷の中では薄かった感触が、また戻っていた。


よかった、と英理は思った。本がちゃんとある。


腹が鳴った。「本当にまだ鳴るんだね」とそのものが言った。「止まりません」「谷の中でもずっと鳴ってた」「鳴っていましたね」「鳴るたびに、ここにいるってわかった」そのものは言った。「お前の場合」


英理はその言葉を少し考えた。ここにいる。腹が鳴るから、ここにいるとわかる。谷の中で視界がおかしくなって、世界が薄くなっても——腹が鳴った。その音だけは、変わらなかった。


「……なるほど」英理はゆっくり言った。「腹が鳴るのは、悪いことじゃないかもしれないと思いました」


「思ってなかったの?」「今まであまり考えていなかったです」「そうか」とそのものは言った。少し楽しそうだった。


金属の音が、した。谷を抜けて初めて聞こえた音だった。谷の中では止まっていた。でも今、また始まっていた。リズムは変わらなかった。一定で、静かで、確かだった。数えていた。何を数えているのかは、まだわからなかった。


 


夕方、宿に入った。卓に座ってすぐ、スープが来た。温かかった。


英理は一口飲んで、目を閉じた。一秒だけ。それだけでよかった。「……おいしいです」


「当然だ」カエルが言った。「今日はよく歩いた」「カエルさんも」「俺は歩いただけだ」「十分です」英理は言った。カエルは何か言いかけて、スープに向かった。


愚者は少し離れた席に座っていた。スープには手をつけていなかった。必要がないのかもしれなかった。こちらを見ていなかった。でも、いた。英理はそれを確認して、スープに戻った。


腹が鳴った。スープを飲んでいるのに鳴った。


「……飲んでいる最中に鳴るのか」東仁が言った。「鳴りました」「原理がわからない」「私もわかりません」英理は言った。「でもなんとかなるけん」


東仁は天を仰いだ。部瑠太師が、口元を少し緩めた。


金属の音が、宿の外で静かに続いていた。



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