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海の声が聞こえなくても・土讃線が止まった秋  作者: リンダ


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あの日、海が牙をむいた

第9話


あの日、海が牙をむいた


 その日も、朝は普通に始まった。


 小百合はいつものように味噌汁を飲み、焼き魚を食べ、タイガースの昨日の試合結果について兄の悠斗と少しだけ言い合いをした。


「今日は交流会やろ。暴れすぎるなよ」


「暴れん! 交流するだけやき!」


「小百合の交流は、だいたい突撃や」


「兄ちゃん、失礼!」


 母の美紀が笑いながら弁当を包んだ。


「山の方へ行くがやろ? お昼、ちゃんと食べなさいね」


「うん!」


 父の勝は、いつものように静かに言った。


「先生の言うことを聞け」


「わかっちゅう!」


「ほんまに聞け」


「ほんまに聞く!」


 小百合は玄関で靴を履き、元気よく振り返った。


「行ってきます!」


「行ってらっしゃい」


「気ぃつけて行きよ」


「転ぶなよ」


「転ばん!」


 それが、いつもの朝だった。


 父の声。

 母の笑顔。

 兄のからかい。


 何も特別ではない、普通の朝。


 小百合はその時、知らなかった。


 それが、家族四人で交わす最後の朝になることを。


     *


 学校の交流会で、小百合たちは桂浜北中学校を訪れていた。


 そこは海から少し離れた場所にあり、校舎の裏手には小高い山があった。標高は百メートルほど。普段なら、ちょっとした遠足気分で登れる山だった。


 美波が隣で息を弾ませている。


「小百合ちゃん、歩くの速いちや」


「山やき楽しい!」


「小百合ちゃんは、坂でも山でも走りたがるね」


「足が勝手に前へ行くが!」


 大翔が後ろから叫ぶ。


「小百合、先に行きすぎ!」


「大翔が遅いがやき!」


 陽菜が先生に言われた列を守りながら、呆れたように言った。


「交流会なんやき、ちゃんと落ち着きなさい」


 蓮は黙って木々を見上げていた。


 隆も一緒だった。


 小学五年生のグループとして参加していた隆は、小百合の少し前を歩いていた。


「小百合、また転ぶぞ」


「転ばん!」


「その返事、信用ならん」


「隆兄ちゃんまで!」


 みんなが笑った。


 山頂に着く頃には、空はよく晴れていた。


 木々の間から、遠くに高知の町が見えた。さらにその向こうに、青い海が広がっていた。


 小百合は息をのんだ。


「見て、美波! 海、きれいやね!」


「うん」


 美波はスケッチブックを出した。


「お昼食べたら、描こうかな」


「うちも描いて!」


「また?」


「山の上の小百合!」


「タイトル、元気すぎる山頂」


「もっとかっこよくして!」


 先生が声をかけた。


「みんな、ここでお昼にします。荷物を置いて、班ごとに座ってください」


 子どもたちは歓声を上げた。


 弁当の包みを開ける音。


 水筒を出す音。


 友達同士で場所を取り合う声。


 いつものにぎやかな時間だった。


 小百合も弁当を開けようとした。


 その時だった。


 どこかで、いくつものスマホが一斉に鳴った。


 けたたましい音だった。


 聞いたことのある、でも聞きたくない音。


 緊急地震速報。


 先生たちの顔色が変わった。


「みんな、その場で低くなって!」


 次の瞬間、大地が揺れた。


 最初は、足元がふわっと浮くような感覚だった。

 けれどすぐに、それは激しい横揺れに変わった。


「きゃあああ!」


「うわっ!」


「先生!」


 立っていられなかった。


 小百合は膝をつき、地面に手をついた。山そのものが大きな獣のように震えている。木々が激しく揺れ、枝が折れる音がした。遠くの方で、何かが崩れるような低い音も聞こえた。


 美波が泣きそうな声で叫んだ。


「小百合ちゃん!」


「美波!」


 小百合は手を伸ばそうとしたが、揺れが強すぎて動けない。


 大翔が地面に伏せて泣いていた。


 陽菜は両手で頭を押さえている。


 蓮は顔を真っ青にして、木の根元にしゃがみ込んでいた。


 隆が叫んだ。


「小百合、伏せろ!」


 小百合は言われるまま、体を低くした。


 揺れは終わらない。


 長い。


 あまりにも長い。


 地面が波のようにうねる。


 山が唸る。


 空が歪んだように見える。


「いやあああ!」


「お母さん!」


「怖い!」


 子どもたちの悲鳴が山頂に響いた。


 先生たちは必死に声を張り上げていた。


「頭を守って!」


「動かない!」


「木から離れて!」


 小百合は歯を食いしばった。


 怖い。


 怖い。


 怖い。


 台風の夜も怖かった。


 でもこれは違った。


 足元そのものが壊れていくような怖さだった。


 やがて、永遠のように感じた揺れが、少しずつ弱まっていった。


 完全に止まったあとも、誰もすぐには動けなかった。


 泣き声だけが残っていた。


     *


「全員、その場にいてください!」


 先生の声が震えていた。


 別の先生がスマホを確認している。


 その顔が、さらに青ざめた。


「津波警報……大津波警報です!」


 その言葉が、小百合の耳に入った瞬間、体が凍った。


 津波。


 海。


 家。


 会社。


 父。


 母。


 兄。


 小百合は立ち上がろうとした。


「お父さん……」


 先生が気づく。


「田中さん、座って!」


「お母さんが……お兄ちゃんが……!」


 小百合は山の下を見た。


 遠くに海が見える。


 いつもきれいだった海。


 家族が働く港へ続く海。


「うち、行かなきゃ!」


 小百合は走り出そうとした。


 その腕を、先生が強くつかんだ。


「だめ!」


「離して!」


「降りたらだめ!」


「お父さんが! お母さんが! お兄ちゃんが海の近くで仕事してるが!」


 小百合は叫んだ。


 喉が裂けそうだった。


「助けに行かんと! うち、行かんと!」


 先生は小百合の両肩をつかんだ。


「田中さん、聞きなさい! 津波が来る! 今、山を降りたらあなたが危ない!」


「でも! でも!」


「あなたの命を守るのが先!」


「いやや!」


 小百合の目から涙があふれた。


「お父さん! お母さん! 兄ちゃん!」


 その叫び声は、山の上に響いた。


 美波が泣きながら小百合にしがみついた。


「小百合ちゃん、行ったらだめ……!」


「美波、離して! うち、行かんと!」


「だめ! だめやき!」


 隆も駆け寄ってきた。


「小百合!」


「隆兄ちゃん、どいて!」


「無理や! 今降りたら死ぬかもしれん!」


「そんなこと言わんで!


 小百合は暴れた。


 先生と美波と隆が必死に止める。


 子どもたちは泣いていた。


 誰もが家族を心配していた。


 けれど、小百合の家族は海の近くにいた。


 港のそばの水産加工会社にいた。


 小百合はそれを知っていた。


 知っているから、止まれなかった。


「お父さんが言いよった……海は優しい顔ばっかりやないって……」


 小百合の声が震えた。


「でも、でも、今日は……」


 その先は言葉にならなかった。


     *


 山頂に、防災無線の音が遠くから聞こえてきた。


「大津波警報が発表されました。沿岸部の方は、ただちに高台へ避難してください」


 ただちに。


 高台へ。


 避難してください。


 小百合はその言葉を聞きながら、足元から力が抜けていくのを感じた。


 自分は高台にいる。


 助かる場所にいる。


 でも、家族は。


 父は。


 母は。


 兄は。


「先生……」


 小百合は先生の服をつかんだ。


「電話……電話したい……」


 先生はすぐにスマホを出そうとした。


 しかし、回線は混み合っていた。


 つながらない。


 何度かけても、つながらない。


 小百合は震える手で自分の小さな携帯を握った。


 父に。


 母に。


 兄に。


 でも、画面は何度も通話失敗を示した。


「なんで……なんでつながらんが……」

 涙が頬を伝った。


 美波が小百合の手を握った。


「小百合ちゃん……」


 小百合は美波の手を握り返した。


 強く。


 痛いほど強く。


 海の方から、いつもと違う音が聞こえた気がした。


 小百合は顔を上げた。


 遠くの海が、見えた。


 その色が、いつもと違って見えた。


 笑っていた海が。


 遊び場だった海が。


 家族の仕事場へ続いていた海が。


 その日、初めて恐ろしいものに見えた。


     *


 先生たちは、子どもたちをさらに安全な場所へ移動させた。


 山頂の広い場所から、崩れそうな斜面や木の近くを避ける。


 余震が来るたびに、子どもたちは悲鳴を上げた。


 小百合はもう走ろうとはしなかった。


 先生に止められたからではない。


 足が動かなかった。


 心だけが、山を駆け下りていた。


 港へ。


 会社へ。


 父のところへ。


 母のところへ。


 兄のところへ。


 何度も何度も、心の中で叫んだ。


 逃げて。


 逃げて。


 お願いやき、逃げて。


 お父さん。


 お母さん。


 兄ちゃん。


 逃げて。


 けれど、その声は届かなかった。


 山の上で、小百合はただ待つことしかできなかった。


 それが、どれほど残酷なことなのか。


 小学三年生の小百合には、まだ受け止めきれなかった。


     *


 海が牙をむいた日。


 小百合は、助かる場所にいた。


 だから生き残った。


 けれどその場所は同時に、家族のもとへ走れない場所でもあった。


 叫んでも、泣いても、暴れても。


 先生に止められ、美波に抱きしめられ、隆に腕をつかまれ。


 小百合は山の上に残された。


 遠くに見える海は、もう小百合の知っている海ではなかった。


 優しかった海が、姿を変えた。


 そして、小百合の世界はこの日、音を立てて壊れ始めた。


⸻


次回予告


第10話「先生の叫び声」


 地震の揺れが収まっても、恐怖は終わらなかった。


 余震。

 泣き叫ぶ子どもたち。

 つながらない電話。

 山の下から響く防災無線。


 教師たちは必死に子どもたちを守ろうとする。


「絶対に降りるな!」

「ここにいれば助かる!」

「命を守る行動をしなさい!」


 しかし、小百合の心は山の下へ向かっていた。


 父がいる。

 母がいる。

 兄がいる。


 助けに行きたい。

 でも、行けない。


 先生の叫び声が、小百合を現実につなぎとめる。


 次回、

 第10話「先生の叫び声」


 守られることが、こんなにも苦しいなんて。

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