いつもの朝、最後の朝
第8話
いつもの朝、最後の朝
台風が過ぎ去ったあと、町にはゆっくりと日常が戻り始めた。
折れた枝は片付けられ、飛ばされた看板は元の位置へ戻され、道にはまだ水の跡が残っているものの、人の声が戻ってきていた。
水産加工会社も、数日の復旧作業を経て、再び動き出していた。
床に入り込んだ海水を流し、機械を拭き、壊れたものを直し、みんなで少しずつ取り戻した仕事場。
父・勝、母・美紀、兄・悠斗は、またいつものように朝早く家を出るようになった。
*
その朝。
小百合はいつも通り、台所の匂いで目を覚ました。
味噌汁の湯気。焼き魚の香ばしい匂い。炊きたてのご飯の甘い香り。
どれも変わらない。
でも、どこか少しだけ、ありがたく感じた。
「小百合ー、起きちゅう?」
美紀の声。
「起きちゅう!」
小百合は布団から飛び出した。
台風の夜に感じた怖さは、まだ心の奥に残っていた。けれど、朝の光の中では、それは少し小さくなっていた。
台所に行くと、勝はすでに座っていた。
新聞を広げている。
悠斗は眠そうな顔でご飯をかきこんでいた。
「兄ちゃん、また寝不足?」
「復旧作業で疲れちゅうがや」
「お疲れ様」
「急に優しいな」
「今日は特別」
「いつも優しくしろ」
「考えとく」
美紀が味噌汁をよそいながら笑う。
「小百合、今日は学校やきね」
「わかっちゅう」
「久しぶりやき、はしゃぎすぎんように」
「それは無理!」
「やっぱりね」
四人で囲む食卓。
いつもの席。
いつもの会話。
勝が新聞をたたみながら言った。
「関西も大変やな」
小百合は顔を上げた。
「関西?」
「台風の被害。かなり出ちゅう」
悠斗が言う。
「北海道まで上陸したらしいで。ほぼ日本縦断や」
美紀の手が少し止まった。
「そんなに……」
勝が静かに言った。
「亡くなった人も多い」
小百合は言葉を失った。
あの夜の風。
あの音。
あの怖さ。
それが、もっと大きな形で、たくさんの人を襲った。
「……怖いね」
小百合がぽつりと言った。
勝はうなずいた。
「自然はな、場所を選ばん」
悠斗が少しだけ笑って、空気を変えようとした。
「でも、小百合は無敵やろ。台風にも勝ちそうやし」
「勝たん!」
「カニには負けるけどな」
「それ言うな!」
美紀が言った。
「ほら、暗い話はここまで。朝ごはん、ちゃんと食べなさい」
小百合はうなずいた。
怖い気持ちは消えない。
でも、家族と一緒にいると、少しだけ軽くなる。
*
「行ってきます!」
小百合は元気よく玄関を出た。
「気ぃつけて行きよ」
美紀の声。
勝は静かに手を上げた。
悠斗は靴を履きながら言った。
「帰りに転ぶなよ」
「転ばん!」
小百合は坂道を駆け下りた。
風はやさしく、空は青かった。
台風のあととは思えないほど、穏やかな朝だった。
途中で美波と合流する。
「小百合ちゃん、おはよう」
「おはよう!」
「元気戻ったね」
「うん! ちょっと怖かったけど、もう大丈夫!」
「よかった」
学校に着くと、子どもたちの声があふれていた。
「久しぶりやね!」
「家、大丈夫やった?」
「うちは瓦飛んだ!」
「ええ!」
大翔が大げさに話し、陽菜が呆れ、蓮が静かに聞いている。
隆が小百合に言った。
「小百合、台風の時、泣いたろ」
「泣いてない!」
「ほんまか?」
「ちょっとだけ怖かっただけ!」
「それを泣いた言うがや」
「隆兄ちゃん!」
みんなが笑った。
その笑い声の中で、小百合はいつもの自分に戻っていた。
*
文化祭の準備も始まっていた。
小百合のクラスは合唱をすることになった。
曲は――
「翼をください」
教室にピアノの音が響く。
最初はバラバラだった声も、少しずつ重なっていく。
小百合は歌うのも好きだった。
大きな声で、まっすぐに。
「この大空に 翼をひろげ」
美波のやわらかい声。
陽菜のしっかりした声。
大翔の少し外れた声。
蓮の小さな声。
隆の低い声。
全部が混ざって、一つの歌になる。
小百合は歌いながら思った。
この時間が好きだ。
みんなで声を合わせるこの感じが好きだ。
外では海の音がしている。
教室の中では歌が響いている。
それが当たり前のように続いていくと思っていた。
*
放課後。
小百合は校庭の隅で、空を見上げた。
青い空。
白い雲。
何も起きないような、穏やかな景色。
「小百合ちゃん」
美波が隣に立った。
「なに?」
「今日の空、きれいやね」
「うん」
小百合は小さくつぶやいた。
「台風のあとやのに、こんなに静かやね」
「うん」
美波も空を見た。
二人はしばらく黙っていた。
風が、やさしく吹いた。
*
その朝。
何気なく交わした言葉。
何気なく見た景色。
何気なく笑った時間。
それが、どれほど尊いものだったのか。
小百合はまだ知らない。
ただ、今日も一日が始まっただけだった。
穏やかな朝が、静かに始まっていた。
次回予告
第9話「あの日、海が牙をむいた」
その日は、突然やってきた。
いつもと変わらない朝。
いつもと変わらない教室。
けれど――
大地が揺れる。
止まらない揺れ。
崩れる音。
響く悲鳴。
「机の下に!」
先生の叫び声。
そして、鳴り響く警報。
「津波が来ます」
海が、姿を変える。
優しかった海が、牙をむく。
逃げる。走る。叫ぶ。
間に合うのか。
次回、
第9話「あの日、海が牙をむいた」
すべてが、変わる。




