家族四人の夕ごはん
第7話
家族四人の夕ごはん
運動会の夜、田中家の食卓はいつも以上ににぎやかだった。
「今日の主役はうちやき!」
小百合は胸を張って座っていた。
母・美紀の作った唐揚げ、魚の南蛮漬け、味噌汁、炊きたてのご飯。食卓からは湯気が立ち、窓の外からは夜の潮風が少しだけ入ってくる。
テレビではタイガース中継が流れていた。
「はいはい、リレーのヒーロー様」
兄の悠斗が茶碗を持ちながら笑う。
「兄ちゃん、もっと褒めて!」
「調子乗るき嫌や」
「今日くらいえいやん!」
「じゃあ一回だけな。速かった」
「短い!」
美紀が笑いながら唐揚げを小百合の皿にのせた。
「ほんまに速かったよ。お母さん、声枯れるかと思うた」
「お母さんの応援、めっちゃ聞こえた!」
「そりゃ聞こえるろうね。小百合の親やき」
父の勝は、静かに味噌汁を飲んでいた。
けれど、その目はやわらかかった。
「よう走った」
たったそれだけ。
でも小百合は、父に褒められたことが一番嬉しかった。
「うん!」
その時、テレビの中でタイガースの打球が外野へ抜けた。
「いけー! 回れー!」
小百合は立ち上がった。
「小百合、座りなさい!」
「今は無理!」
悠斗が笑う。
「田中家甲子園、開場しました」
「兄ちゃんも応援して!」
「はいはい。走れー」
「声が小さい!」
「おまえが大きすぎるがや」
笑い声と湯気とテレビの実況。
父の静かな笑顔。
母の明るい声。
兄のからかい。
小百合にとって、そこは世界で一番安心できる場所だった。
*
運動会からしばらくして、空の様子が変わり始めた。
最初は、ただ風が強いだけだった。
洗濯物が激しく揺れ、海の方から湿った空気が流れてくる。遠くの空には、重たい灰色の雲が広がっていた。
テレビでは、台風情報が何度も流れていた。
「大型で非常に強い台風二十一号は、勢力を保ったまま北上しています」
美紀が不安そうに画面を見つめる。
「進路、高知に近いね」
勝は黙ってうなずいた。
「早めに準備する」
台風二十一号。
足摺岬に上陸した時の中心気圧は九百四十八ヘクトパスカル。最大風速五十メートル、最大瞬間風速七十メートル。
小百合には数字の大きさはよくわからなかった。
けれど、父と母の顔がいつもより硬いことで、それがただごとではないことだけはわかった。
「小百合、外には出られんきね」
「うん」
「美波ちゃんたちとも遊びに行ったらいかんよ」
「わかっちゅう」
悠斗は雨戸を閉め、勝は家の周りの飛びそうなものを片付けた。美紀は水をため、懐中電灯とモバイルバッテリー、非常食を確認した。
小百合も手伝おうとした。
「うち、何したらえい?」
悠斗が段ボールを渡す。
「これ、玄関の奥に置いといて」
「任せちょき!」
「走るなよ」
「家の中では走らん!」
「昨日走ったろ」
「それは昨日!」
いつものやり取りなのに、外の風の音が少しずつ強くなっていくせいで、笑い声はどこか不安の中に吸い込まれていった。
*
夕方になる前に、雨は横殴りになった。
窓は雨戸で閉め切られているのに、家全体が風に押されているようだった。
ごう、と風が唸る。
どん、と何かが外でぶつかる音がする。
小百合はびくっと肩を震わせた。
「今の何?」
美紀が小百合をそばに呼んだ。
「大丈夫。外の何かが飛んだ音やと思う」
「大丈夫なが?」
「お父さんがちゃんと準備してくれたき」
勝はラジオの電源を確認していた。
テレビの音は時々乱れ、画面がざらつく。風雨がさらに強くなった頃、突然、家の中が真っ暗になった。
「きゃっ」
小百合は思わず声を上げた。
「停電や」
悠斗の声が暗闇から聞こえた。
すぐに勝が非常用のライトをつけた。
モバイルバッテリーにつないだ小さな明かりが、部屋の真ん中をぼんやり照らす。
いつもの食卓。
いつもの台所。
でも、電気が消えただけで、家はまるで別の場所になったようだった。
情報源は小さなラジオだけになった。
「台風二十一号は、現在、高知県西部を通過中とみられます。沿岸部では高潮、暴風、高波に厳重な警戒をしてください」
高潮。
その言葉に、勝の目がわずかに細くなった。
小百合は父の顔を見た。
「お父さん、会社大丈夫?」
「今は家におることが先や」
「でも」
「命が先」
その声は静かだったが、いつもより強かった。
小百合は何も言えなくなった。
外では猛烈な暴風雨が吹き荒れていた。
家が揺れる。
雨戸が鳴る。
風が唸る。
海の音は聞こえなかった。
けれど小百合には、見えないところで海が大きく膨らんでいるような気がして、怖かった。
美紀が小百合の肩を抱いた。
「大丈夫。みんな一緒やき」
悠斗がわざと明るく言った。
「小百合、こんな時こそタイガースの応援歌でも歌うか?」
「歌わん」
「珍しい」
「今は……ちょっと怖い」
悠斗は小百合を見た。
そして、からかわずに言った。
「怖くて普通や」
勝も静かにうなずいた。
「自然は、甘く見たらいかん」
小百合は、父のその言葉を胸に刻んだ。
*
夜は長かった。
台風は家の外で暴れ続けた。
何度も何度も、風が壁を叩く。雨戸が悲鳴のような音を立てる。遠くで何かが倒れる音も聞こえた。
小百合は眠れなかった。
布団に入っても、目を閉じると風の音が大きくなる。美波の家は大丈夫だろうか。隆の家は。大翔は。陽菜は。蓮は。
「美波、大丈夫かな」
小百合がつぶやくと、美紀が答えた。
「みんな、ちゃんと家でじっとしちゅうよ」
「明日、会える?」
「台風が過ぎて、安全になってからね」
小百合はうなずいた。
小さな明かりの下で、家族四人は身を寄せるように夜を過ごした。
いつものにぎやかな田中家とは違った。
でも、父がいて、母がいて、兄がいた。
それだけで、小百合は何とか怖さをこらえることができた。
*
朝。
風の音が少しずつ弱まった。
雨も小降りになり、空が白く明るくなっていく。
勝が慎重に雨戸を開けた。
外を見た瞬間、小百合は息をのんだ。
町が、いつもの町ではなかった。
道には折れた枝が散らばっていた。看板が曲がり、どこかの家のトタンが飛ばされ、電柱が傾いている場所もあった。
「うそ……」
小百合は窓の外を見つめた。
昨日まで普通にあったものが、壊れている。
いつもの道に、見知らぬものが落ちている。
水道も出なかった。
「断水やね」
美紀が蛇口を閉めた。
停電もまだ続いていた。
勝はすぐに会社へ行く支度をした。
「見てくる」
美紀が心配そうに言う。
「気をつけて」
「わかっちゅう」
悠斗も立ち上がった。
「俺も行く」
小百合も反射的に言った。
「うちも!」
勝は首を横に振った。
「だめや。まだ危ない」
「でも」
「小百合は家におれ」
いつもより厳しい声だった。
小百合は唇を噛んだ。
「……はい」
勝と悠斗が出ていく。
小百合は窓からその背中を見送った。
昨日まで、兄の背中はかっこよく見えた。
今日の背中は、少しだけ重く見えた。
*
数時間後、勝と悠斗が戻ってきた。
作業着は泥と水で汚れていた。
美紀がすぐに玄関へ駆け寄る。
「会社、どうやった?」
勝は短く答えた。
「高潮が入っちゅう」
美紀の顔が曇った。
悠斗が続ける。
「床が水浸し。いろんなものが倒れちゅう。機械は確認せんとわからん」
「そんな……」
「片付けに数日かかると思う」
小百合は黙って聞いていた。
会社。
父と母と兄が働く場所。
自分もいつか働きたいと思っていた場所。
そこが水に浸かった。
その事実が、小百合の胸に重く落ちた。
「お父さん」
「ん?」
「会社、直る?」
勝は小百合を見た。
疲れた顔だった。
でも、目は折れていなかった。
「直す」
「ほんま?」
「みんなで直す」
悠斗も言った。
「数日くらいで負けん」
美紀も深く息を吸って、うなずいた。
「そうやね。できることからやろう」
小百合は拳を握った。
「うちも手伝う」
勝は少し考えた。
「危ないところはだめや。でも、家のことは手伝ってくれ」
「うん!」
小百合は大きくうなずいた。
台風は過ぎた。
けれど、町には傷が残った。
電気も水も、すぐには戻らない。
会社も、すぐには元通りにならない。
それでも田中家は、また夕ごはんの支度を始めた。
明かりはまだ小さなライト。
水はためておいた分。
食卓はいつもより質素だった。
でも、四人で囲む食卓だった。
勝がいて、美紀がいて、悠斗がいて、小百合がいる。
小百合はその夜、初めてはっきりと思った。
自然は、優しいだけではない。
海も、風も、雨も、時々とても怖い顔をする。
それでも、人は片付けて、直して、またご飯を食べて、生きていく。
小百合にはまだ、それがどれほど大変なことかはわからなかった。
けれど、父の背中と、母の手と、兄の泥だらけの作業着を見て、少しだけわかった気がした。
家族四人の夕ごはん。
それは、ただ温かいだけではなかった。
嵐のあとにも残る、小さな灯りだった。
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次回予告
第8話「いつもの朝、最後の朝」
台風の傷跡が少しずつ片付き、町に日常が戻り始める。
水産加工会社も復旧作業を終え、勝、美紀、悠斗は再び仕事へ向かう。
小百合も学校へ行き、美波や隆たちといつものように笑い合う。
濡れた道路。
修理された看板。
まだ少し残る台風の爪痕。
それでも朝は来る。
いつものように、家族は食卓を囲む。
「行ってきます」
「気ぃつけて行きよ」
何気ない挨拶。
何気ない笑顔。
何気ない朝。
それが、どれほど尊いものだったのか。
小百合はまだ知らない。
次回、
第8話「いつもの朝、最後の朝」
穏やかな朝が、静かに始まる。




