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海の声が聞こえなくても・土讃線が止まった秋  作者: リンダ


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先生の叫び声

 第10話

 先生の叫び声


 2062年11月1日、午前11時58分。


 高知県沖、土佐湾。


 マグニチュード9.2。


 南海トラフ巨大地震、発生。


 その日は、田中小百合の九歳の誕生日だった。


 *


 山の上では、まだ子どもたちの泣き声が止まらなかった。


「お母さん……」


「帰りたい……」


「怖い、怖いよ……」


 余震が来るたびに、地面が小さく揺れ、子どもたちは一斉に身を縮めた。


 先生たちは声を張り上げ続けていた。


「低くなって!」


「木のそばから離れて!」


「絶対に山を降りない!」


 小百合は先生の腕の中でもがいていた。


「離して! お父さんが! お母さんが! 兄ちゃんが!」


「田中さん、だめ!」


「会社、海の近くなが! 行かんと!」


「今降りたらあなたが危ない!」


「でも!」


 小百合の声は、泣き声とも叫び声ともつかなかった。


 つながらない電話。


 鳴り続ける防災無線。


 遠くに見える海。


 そのすべてが、小百合の心を引き裂いていた。


「絶対に降りるな!」


 先生の叫び声が、山の上に響いた。


「ここにいれば助かる! 命を守る行動をしなさい!」


 守られている。


 助かる場所にいる。


 なのに小百合は、そのことが苦しくてたまらなかった。


 *


 同じ頃。


 港近くの水産加工会社では、午前中の仕事がひと段落していた。


 田中勝、美紀、悠斗も、他の社員たちと一緒に二階の食堂へ向かっていた。


「今日は小百合の誕生日やき、帰りにケーキ取りに行かんとね」


 美紀が言った。


 悠斗が笑う。


「どうせ小百合、タイガースの飾りつけがえいとか言うろ」


「言うやろうねえ」


 勝は静かに言った。


「赤い百合の花も、買うか」


 美紀が目を細めた。


「あの子、この前気に入っちょったもんね」


 悠斗が照れくさそうに笑う。


「俺からはグローブでえいか」


「また走り回るね」


「元気な方がえい」


 その時だった。


 スマホが一斉に鳴った。


 緊急地震速報。


 次の瞬間、建物が激しく揺れた。


「伏せろ!」


 誰かが叫んだ。


 食堂の机が跳ね、椅子が倒れ、食器が床に叩きつけられた。


 立っていることなどできなかった。


 勝は美紀の腕をつかみ、悠斗は近くの柱にしがみついた。


「お母さん!」


「大丈夫、悠斗!」


 天井が軋み、壁が悲鳴を上げる。


 棚から物が落ちる。


 照明が砕ける。


 揺れは収まらない。


 長い。


 長すぎる。


 建物全体が、ねじられるように歪んでいく。


 やがて揺れが少しずつ弱まった時、食堂はめちゃくちゃになっていた。


「外へ出るぞ!」


 勝が叫んだ。


 しかし、階段へ続く扉は開かなかった。


 梁が歪み、扉が枠ごと噛み込んでいた。


 悠斗が何度も体当たりする。


「開け! 開けよ!」


 びくともしない。


 別の社員が窓へ駆け寄った。


「海が……!」


 その声に、全員が窓の外を見た。


 海が、引いていた。


 異様な速さで。


 港の水がなくなり、海底が黒く見えている。


 船が傾き、魚が跳ね、遠くの沖に、信じられないほど大きな水の壁が見えた。


 美紀が震える声で言った。


「津波……」


 下の階から、煙が上がった。


 地震で配線がショートし、出火していた。


 火。


 津波。


 閉じ込められた二階。


 逃げ道はなかった。


「小百合……」


 美紀が小さくつぶやいた。


 勝は扉を叩き続けた。


 悠斗も叫びながら体当たりした。


「開けよ! 小百合が待ちゆうがや!」


 しかし、扉は開かなかった。


 窓の外で、水の壁が近づいてくる。


 轟音。


 地鳴り。


 下からは火と煙。


 海からは巨大な津波。


 美紀は泣きながら叫んだ。


「小百合!」


 悠斗も叫んだ。


「小百合ー!」


 勝の声が、最後に重なった。


「小百合!」


 次の瞬間、巨大な水の塊が建物を飲み込んだ。


 *


 山の上で、小百合はその声を聞いた気がした。


 もちろん、実際に届いたはずはない。


 距離があった。


 海の轟音も、防災無線も、泣き声もあった。


 それでも小百合は、胸の奥で確かに聞いた。


 お父さんの声。


 お母さんの声。


 兄ちゃんの声。


「小百合」


 小百合は顔を上げた。


「今……呼んだ……」


 美波が泣きながら首を振った。


「小百合ちゃん……」


「呼んだが! 今、呼んだ!」


 小百合はまた立ち上がろうとした。


 先生が抱き止める。


「田中さん!」


「呼んだ! お父さんらが呼んだが!」


「だめ! 行かせられない!」


「なんで! なんで止めるが!」


 先生の目にも涙が浮かんでいた。


 それでも、先生は小百合を離さなかった。


「あなたを死なせないため!」


 その叫び声に、小百合は一瞬だけ動きを止めた。


 先生は震えながら続けた。


「今、私たちができることは、生きることだけなの!」


 小百合の目から、大粒の涙が落ちた。


 生きること。


 それが、こんなに苦しいなんて知らなかった。


 *


 時間が経つにつれ、山の上にも別の苦しさが押し寄せてきた。


 十一月の風は冷たかった。


 昼の恐怖と混乱の中では気づかなかった寒さが、夕方に近づくにつれて子どもたちの体を冷やしていく。


「寒い……」


「水、飲みたい……」


「トイレ行きたい……」


 弁当はあった。


 水筒もあった。


 けれど、全員分が十分にあるわけではない。


 先生たちは水を少しずつ分け、食べ物を確認し、体調の悪い子どもを集めた。


 泣き疲れて眠ってしまう子。


 余震のたびに叫ぶ子。


 家族と連絡が取れず、震える子。


 山の上にいた者たちは助かった。


 けれど、助かったからといって、苦しみが終わるわけではなかった。


 寒さ。


 喉の渇き。


 空腹。


 トイレ。


 不安。


 恐怖。


 そして、家族の安否がわからない地獄。


 小百合は自分の弁当を開けられなかった。


 朝、母が包んでくれた弁当だった。


 誕生日だからと、少しだけ豪華にしてくれていた。


 小さな卵焼き。


 唐揚げ。


 赤いウインナー。


 そして、ラップに包まれた小さなおにぎり。


 小百合の手が震えた。


「お母さん……」


 弁当箱のふたに、母の手書きのメモが貼ってあった。


『小百合、9歳おめでとう。いっぱい食べて、いっぱい笑いなさい』


 小百合は声を出そうとした。


 でも、喉から出てきたのは、かすれた泣き声だけだった。


 美波が隣で泣いた。


 隆は唇を噛みしめ、何も言えなかった。


 *


 夜が近づいていた。


 町の方角には、黒い煙のようなものが見えた。


 海の方からは、もういつもの波音は聞こえなかった。


 代わりに、遠くで何かが壊れる音、サイレン、防災無線、そして人々のざわめきが混じっていた。


 先生たちは必死だった。


「みんな、集まって!」


「体を寄せて、寒さを防いで!」


「勝手に動かない!」


 小百合は膝を抱えて座っていた。


 誕生日。


 九歳になった日。


 朝には、家族がいた。


 夜には、家族の声が届かない。


 父がいるはずの場所。


 母がいるはずの場所。


 兄がいるはずの場所。


 そこへ行けない。


 確認もできない。


 助けにも行けない。


 ただ、山の上で生きている。


 その事実が、小百合を押しつぶそうとしていた。


 先生が近づいてきて、小百合の前にしゃがんだ。


「田中さん」


 小百合は顔を上げなかった。


「寒くない?」


 返事はなかった。


「少しでも食べよう」


 小百合は首を横に振った。


「……お母さんが作った」


「うん」


「お母さんが……作ってくれたが」


 先生は何も言えなかった。


 小百合は弁当箱を抱きしめた。


「食べたら……なくなる」


 先生の目から涙が落ちた。


 それでも、先生は小百合の肩に毛布をかけた。


「なくならないよ」


 小百合は小さく首を振った。


「なくなるが」


 その声は、昼間まで町じゅうを明るくしていた小百合の声ではなかった。


 か細く、震えて、消えそうな声だった。


 *


 先生の叫び声は、小百合を山の上に留めた。


 それは命を守るための声だった。


 けれど、小百合にとっては、家族のもとへ走る道を塞ぐ声でもあった。


 守られることが、こんなにも苦しいなんて。


 生き残ることが、こんなにも痛いなんて。


 九歳の誕生日に、小百合は初めて知った。


 海はもう、笑っていなかった。


 風も、優しくなかった。


 そして夜は、あまりにも寒かった。


 次回予告

 第11話「高台へ走れ」


 夜が来る。


 寒さが増す。


 余震は続き、子どもたちは疲れ果てていく。


 それでも先生たちは、さらなる安全を求めて動き出す。


 山頂から、避難場所として指定されている高台の広場へ。


「歩ける子は、先生の後についてきて!」


「絶対に列を乱さない!」


「手を離さない!」


 泣きながら歩く子どもたち。

 友達の手を握る美波。

 言葉を失いかける小百合。


 その頃、町では津波の被害が少しずつ明らかになっていく。


 生き残った者たちもまた、極限の夜を迎えていた。


 次回、

 第11話「高台へ走れ」


 助かった命は、まだ安全ではなかった。

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