試運転
第18話
試運転
発災から、日が重なっていった。
十一月の山は、日に日に冷たくなっていく。
大歩危駅で避難生活を続けていた乗客たちにも、ようやく次の道が見え始めていた。
土讃線の全線復旧は、まだ遠い。
大歩危を越える山岳区間は、崩落斜面、損傷したトンネル、歪んだ橋梁がいくつも残り、簡単には列車を通せない。
しかし、徳島線の方が先に一部開通した。
その知らせが入った時、大歩危駅の待合室にいた人々は、静かに顔を上げた。
「阿波池田まで行ければ……」
駅員が言った。
「そこから徳島方面へ輸送できます」
仮復旧した道路を使い、車で阿波池田まで運ぶ。
そして、徳島線経由で徳島へ。
医療を受けられる場所へ。
家族と連絡を取れる場所へ。
避難者たちは、ようやく山の孤立から外へ出る道を得た。
*
負傷者が先に運ばれた。
旅館の毛布に包まれ、地元の車や自治体の車両に乗せられる。
「ゆっくりでえいです」
「揺れますき、気をつけて」
看護師が一人ひとりの状態を確認する。
坂本医師は、最後まで駅に残った。
「動かせる人から順に。重傷者は徳島へ着いたらすぐ病院へ」
その声には疲労がにじんでいたが、目だけはまだ強かった。
*
石原車掌は、出発する乗客たちに頭を下げていた。
「お気をつけて」
「本当にありがとうございました」
「あなたがいなかったら、私たち……」
乗客の女性が言葉に詰まる。
石原は首を横に振った。
「真鍋運転士が、最後まで守ろうとしました」
女性は涙を流しながらうなずいた。
「忘れません」
*
大歩危駅から一人、また一人と人が去っていく。
にぎやかな観光駅だった場所は、災害の避難所になり、そして今、少しずつ人を送り出す場所になっていた。
川原恒一は、ホームに立ってその光景を見ていた。
列車ではない。
車で運ばれていく人々。
それでも、これは“輸送”だった。
人を安全な場所へ運ぶ。
鉄道員が本来列車で行うはずだったことを、地域全体でつないでいた。
*
土讃線の復旧作業は続いていた。
多度津から琴平へ。
琴平から阿波池田方面へ。
少しずつ、少しずつ、運転できる区間が伸びていく。
しかし、大歩危を越える山岳区間は別格だった。
現場に入った保線員たちは、何度も足を止めた。
「ここ、路盤ごと持っていかれちゅう」
「トンネル内にもひびがあります」
「橋梁の支承がずれています」
「次の余震でまた崩れる可能性があります」
安全が確認できなければ、列車は走れない。
走らせたいという思いだけでは、鉄道は動かせない。
川原はそれを分かっていた。
だからこそ、焦りを押し殺して現場を見続けた。
*
発災から数週間後。
ついに、大歩危周辺の一部区間へ試運転列車を入れる日が来た。
車両は、かろうじて被害を免れたディーゼル車。
五両ではない。
短い編成。
それでも、線路の上に列車が戻ってきた。
ホームに立っていた地元の人々が、言葉もなく見つめている。
「来た……」
誰かが呟いた。
ディーゼルエンジンの音が、静かな山に響く。
ゴォォォォォ……
その音を聞いた瞬間、年配の男性が涙を拭った。
「この音や……」
*
試運転列車の運転席には、川原が乗っていた。
正式な営業運転ではない。
速度も極めて低い。
全区間、慎重に確認しながら進む。
保線員、技術者、指令員、現場責任者。
全員の目が、レールと車輪のわずかな動きに注がれていた。
「速度十五」
「確認」
「橋梁進入」
「異常なし」
「次、徐行五」
「確認」
川原の手は、マスコンに静かに添えられている。
かつて何百回、何千回と走った線路。
だが今日ほど、一メートルが重い日はなかった。
*
やがて列車は、南風11号が事故を起こしたトンネル入口付近へ近づいた。
車内の空気が変わる。
誰も話さない。
窓の外には、まだ新しい補修跡が残っている。
焼け焦げた痕跡は消されていた。
だが、そこに何があったのか、川原も石原も忘れていない。
真鍋悠真。
助けられなかった乗客たち。
炎。
煙。
開かないドア。
川原は、列車をさらにゆっくり進めた。
トンネル入口の手前で、一度停止する。
石原が、後方から静かに帽子を取った。
保線員たちも、頭を下げる。
川原も運転席で帽子を取った。
「……通らせてもらいます」
小さく、そう呟いた。
*
列車は再び動き出す。
ゆっくり。
本当にゆっくり。
車輪がレールを踏む。
あの日、止まった線路の上を。
あの日、命が失われた場所を。
列車が通過する。
それは、忘れるためではなかった。
進むためだった。
*
大歩危駅のホームに戻った試運転列車を、地元の人々が迎えた。
拍手が起こった。
大きな歓声ではない。
静かで、長い拍手だった。
旅館の女将が涙を拭く。
農家の男性が腕を組んでうなずく。
駅員はホームの端で、何度も頭を下げていた。
「走った……」
石原が呟く。
川原は、運転席から降りて、線路を見た。
完全復旧ではない。
営業運転再開でもない。
まだ道は長い。
運転本数も、車両数も、被災前には到底届かない。
けれど、ディーゼル音は戻った。
止まっていた山に、列車の音が戻った。
*
その日の夕方。
阿波池田へ向かう最後の避難輸送車両が出発した。
大歩危駅で夜を越した乗客の多くは、徳島方面へ向かい、医療と休息を得ることになった。
川原と石原は、駅前で見送った。
車の窓から、小さな男の子が手を振る。
「運転士さん!」
川原が手を振り返す。
「また列車、乗れる?」
川原は少しだけ笑った。
「乗れるようにする」
男の子は大きくうなずいた。
*
車が見えなくなると、石原が言った。
「川原さん」
「ん?」
「また、走らせましょう」
川原は線路を見た。
秋の山に、夕日が沈みかけている。
冬が来る前に。
少しでも前へ。
少しでも線路をつなぐ。
「あぁ」
川原は静かに答えた。
「走らせる」
次回予告
第19話「再び走る土讃線」
試運転列車が、大歩危の山間部を走った。
それは完全復旧ではなく、ほんの小さな一歩だった。
しかし、その音は沿線の人々に確かな希望を与える。
運転本数は被災前の二割ほど。
車両も人員も足りない。
それでも、土讃線は再び動き始める。
次回、
第19話「再び走る土讃線」
列車の音が、人々の止まった時間を少しずつ動かしていく。




