再び走る土讃線
第19話
再び走る土讃線
試運転列車が、大歩危の山間部を走った。
それは、完全復旧ではなかった。
速度は遅い。
運転本数も少ない。
使える車両も限られている。
それでも――列車は走った。
ディーゼルエンジンの音が、紅葉の山に戻ってきた。
ゴォォォォォ……
その音を聞いた沿線の人々は、手を止めた。
畑にいた農家が顔を上げる。
旅館の女将が玄関先へ出る。
駅のホームに立つ人々が、静かに列車を見つめる。
「走りゆう……」
誰かが呟いた。
たったそれだけで、涙を流す人がいた。
*
運転席には、川原恒一がいた。
速度は抑えられている。
線路状態も、まだ万全とは言えない。
だが、川原の手は確かだった。
マスコンハンドルに添えた指。
前方確認。
速度計。
信号。
揺れ。
音。
すべてを感じながら、列車を進める。
石原亮介は車掌として乗務していた。
「次は、大歩危、大歩危です」
そのアナウンスの声は、少し震えていた。
だが、最後まで言い切った。
大歩危駅のホームが近づく。
駅には、人がいた。
静かに列車を待つ人々。
拍手は、列車が完全に停まってから起こった。
大きな歓声ではない。
けれど、深く、長い拍手だった。
*
土讃線は、少しずつ動き始めた。
多度津から琴平へ。
琴平から阿波池田へ。
阿波池田から大歩危へ。
そして、さらに南へ。
ただし、被災前の姿には遠かった。
車両の多くは失われた。
整備施設も被害を受けた。
人員も足りない。
運転本数は、被災前の二割ほど。
それでも、列車が一本走るたびに、沿線の人々は思った。
まだつながっている。
まだ終わっていない。
*
大歩危駅には、小さな献花台が設けられた。
南風11号の犠牲者。
殉職した真鍋悠真。
そして、助けられなかった人々。
石原は乗務の合間に、必ずそこへ手を合わせた。
「真鍋さん」
静かに語りかける。
「今日も、走りました」
風が、山から吹き下ろす。
石原は顔を上げる。
いつか、この線路をもっと安全に。
もっと確かに。
もう二度と、あのような思いを誰にもさせないために。
その思いが、彼を前へ進ませていた。
*
年月が流れた。
山は、何度も秋を迎えた。
崩れた斜面には新しい緑が芽吹き、補強されたトンネル入口には、当時を知る小さな慰霊碑が建てられた。
土讃線は、完全な形ではないにせよ、再び四国の山を越える路線として人々を運び続けていた。
そして――
真鍋悠真の息子、龍樹は大人になっていた。
*
真鍋龍樹。
幼い頃、避難所の教室で父の写真を握っていた男の子。
その彼が今、制服に袖を通し、運転士として運転席に立っている。
引き締まった表情。
まっすぐな眼差し。
父と同じように、指差確認を丁寧に行う。
「前方よし」
「速度よし」
「信号よし」
マスコンハンドルを握る手は、若いが迷いがない。
特急列車も、普通列車も、彼は誇りを持って走らせる。
父が命を懸けて守ろうとした鉄道。
父が最後まで職務を全うした線路。
その志を、龍樹は受け継いでいた。
*
ある日。
龍樹は、土讃線の山岳区間を走っていた。
大歩危へ近づく。
車窓には、紅葉の山。
吉野川。
トンネル。
鉄橋。
そして、あの慰霊碑のある場所。
龍樹は、前方を見つめたまま、ほんの少しだけ息を整えた。
運転中に感情を乱してはいけない。
けれど、この区間を走るたび、父のことを思う。
真鍋悠真。
会話の記憶はほとんどない。
だが、母・裕美から何度も聞いた。
父は、最後まで乗客を守ろうとした。
父は、鉄道員として誇りを持っていた。
父は、帰ってこなかった。
でも、その志は帰ってきた。
自分の中に。
*
列車が、大歩危駅へ入る。
ホームには、年老いた川原恒一と石原亮介が立っていた。
今は現場を退き、後進を見守る立場になった二人。
龍樹は、運転席から二人の姿を確認する。
停車。
ブレーキ確認。
扉扱い確認。
そして、ほんの一瞬だけ、運転席から深く頭を下げた。
川原も、石原も、静かに頭を下げ返した。
言葉はいらなかった。
*
石原がぽつりと言う。
「真鍋さん、見てますかね」
川原は、線路の先を見た。
「あぁ」
短く答える。
「見ちゅうよ」
*
発車時刻。
龍樹は再び前方を見据える。
信号。
安全確認。
出発。
ディーゼル音が響く。
ゴォォォォォ……
列車がゆっくり動き出す。
紅葉の山へ。
トンネルへ。
未来へ。
あの日止まった土讃線は、再び走っていた。
そして今、その運転席には、あの日帰れなかった運転士の息子が立っている。
列車は、人を運ぶだけではない。
記憶を運ぶ。
誇りを運ぶ。
志を運ぶ。
止まった時間を、少しずつ前へ運んでいく。
次回予告
最終話「土讃線、止まった秋」
あの日から長い年月が流れた。
再び紅葉の季節。
大歩危の山を、真鍋龍樹が運転する特急列車が走る。
川原恒一、石原亮介、裕美、そして多くの遺族たちが慰霊碑の前に集まる。
失われた命。
守られた命。
受け継がれた志。
最終話、
「土讃線、止まった秋」
止まった秋のその先へ、列車は未来を乗せて走り続ける。




