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海の声が聞こえなくても・土讃線が止まった秋  作者: リンダ


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冬が来る前に

第17話


冬が来る前に


 真鍋悠真が、ようやく家族のもとへ帰った。


 発災から十日以上が過ぎていた。


 遺体は、JR四国の職員に付き添われ、避難所となっている学校へ運ばれた。


 真鍋の自宅は、強い揺れで大きく損傷していた。壁には亀裂が入り、屋根瓦は落ち、玄関は歪んでいた。もう、家族が暮らせる状態ではなかった。


 妻の裕美と、一歳になったばかりの息子・龍樹は、避難所の教室で日々を過ごしていた。


 黒板には、避難者名簿。

 床には毛布。

 机は壁際へ寄せられ、教室は生活の場所に変わっていた。


     *


 その日。


 裕美は、教室の隅で龍樹を抱いていた。


 龍樹はまだ、何も分かっていない。


 ただ母の腕の中で、父の帰りを待つように、ぼんやり天井を見ていた。


 そこへ、JR四国の職員が入ってきた。


 川原恒一と石原亮介も一緒だった。


 裕美は、立ち上がろうとして、足に力が入らなかった。


「……主人ですか」


 誰もすぐには答えられなかった。


 それだけで、もう答えだった。


     *


 白い布に包まれた悠真が、静かに運ばれてきた。


 裕美は近づいた。


 泣かなかった。


 泣けなかった。


 ただ、目を見開いたまま、そこに横たわる夫を見つめていた。


「悠真……」


 声がかすれた。


「帰ってきたがやね」


 龍樹が、小さな手を伸ばした。


 その手が、白い布に触れそうになって、裕美はそっと抱きしめ直した。


「龍樹……お父さん、帰ってきたよ」


 その言葉で、石原は顔を伏せた。


 川原も、帽子を握りしめた。


     *


 裕美は、しばらく何も言わなかった。


 涙も出なかった。


 教室の外では、避難者たちの声が聞こえていた。


 炊き出しの案内。

 余震への注意。

 子どもの泣き声。

 誰かを探す声。


 世界はまだ動いている。


 でも裕美の時間だけが、そこで止まった。


「最後まで……仕事をしたんですね」


 裕美がぽつりと言った。


 川原は深く頭を下げた。


「はい。ご主人は、最後まで乗客を守ろうとされました」


 石原も続けた。


「真鍋さんが声を出し続けてくれたから、助かった人がいます」


 裕美は、悠真を見つめたまま、小さくうなずいた。


「……そうですか」


 そして、震える声で言った。


「ありがとうございました」


 それ以上は、言えなかった。


     *


 一方、土讃線では復旧へ向けた調査が始まっていた。


 だが、現実はあまりにも厳しかった。


 崩落した山肌。

 曲がったレール。

 沈下した路盤。

 歪んだ橋梁。

 亀裂の入ったトンネル。

 落石で埋まった区間。


 現場に立った保線員たちは、言葉を失った。


「これを……戻すのか」


 誰かが呟いた。


 だが、戻すしかなかった。


 土讃線は、ただの線路ではない。


 高知と本州を結ぶ命綱だった。


     *


 まず動き出したのは、多度津から琴平までの区間だった。


 被害確認。


 測量。


 仮復旧。


 速度制限。


 安全確認。


 一本一本、レールを確かめる。


 橋を叩く。


 路盤を見る。


 信号設備を点検する。


 運転再開は、華やかな出来事ではない。


 泥の中で測り、汗を流し、危険な場所へ入り、何度も確認を重ねる地味な仕事だった。


 だが、その地味な仕事がなければ、列車は二度と走れない。


     *


 多度津から琴平まで、部分的に運転が再開された日。


 駅には、多くの人が集まった。


 本数は少ない。


 速度も遅い。


 それでも、列車が来る。


 ホームにいた高齢の女性が、ディーゼル音を聞いて泣き出した。


「音がする……」


 誰かが言った。


「列車の音や」


 それだけで、人々の胸に灯がともった。


     *


 しかし、問題は線路だけではなかった。


 走らせる車両が足りない。


 四国各地で脱線し、津波を受け、損傷した列車は膨大な数に上った。


 特急車両も、普通列車も、多くが壊滅的な被害を受けていた。


 車両基地も被災している。


 整備設備も一部使えない。


 動かせる車両は、被災前の半分にも満たなかった。


 結果、運転本数は被災前の二割程度しか確保できなかった。


     *


 それでも、人々は乗った。


 一日数本の列車。


 満員に近い車内。


 荷物を抱えた人。


 親戚を訪ねる人。


 避難先へ向かう人。


 病院へ行く人。


 復旧作業へ向かう人。


 列車は、以前のように快適ではなかった。


 速くもなかった。


 便利でもなかった。


 それでも、走っている。


 その事実だけが、人々を支えた。


     *


 川原は、復旧作業の現場に立っていた。


 まだ運転士として乗務できる状況ではない。


 だが、鉄道員として、できることをしていた。


 保線員とともに測量を手伝い、現場の記録を取り、被災した区間の状況を確認する。


 石原もまた、現場へ戻っていた。


 真鍋を失った痛みは消えない。


 だが、彼も分かっていた。


 止まったままでは、真鍋も浮かばれない。


     *


 夕方。


 崩落した斜面の前で、川原は足を止めた。


 あの日、南風11号が燃えた場所が見える。


 黒く焦げた跡は、まだ残っていた。


 石原が隣に立つ。


「川原さん」


「ん?」


「また、ここを列車が走る日が来るんでしょうか」


 川原は山を見た。


 崩れた土。


 曲がったレール。


 折れた木々。


 そして、遠くに沈みかけた秋の光。


「来させる」


 短い言葉だった。


 だが、石原には十分だった。


     *


 その夜。


 裕美は避難所の教室で、龍樹を寝かしつけていた。


 龍樹は父の写真を握っていた。


 まだ、意味は分かっていない。


 でも、その小さな手が写真を離さない。


 裕美は、そっと写真を見つめた。


「悠真」


 声は震えていた。


「龍樹、大きくなるきね」


 涙が、ようやくこぼれた。


「あなたが、最後まで鉄道員やったこと、ちゃんと伝えるき」


     *


 冬が近づいていた。


 山には冷たい風が吹き始めている。


 復旧は長く険しい。


 すべてが元通りになる日は、まだ遠い。


 それでも、線路の上には人がいた。


 測量する人。


 レールを直す人。


 列車を整備する人。


 運転再開を待つ人。


 家族を失っても、なお明日を迎える人。


 土讃線は、まだ止まっていた。


 けれど、その下で、人の手はもう動き始めていた。



次回予告


第18話「試運転」


 多度津から琴平へ。


 そして少しずつ南へ。


 土讃線の運転区間は、わずかずつ伸び始める。


 だが、大歩危を越える山岳区間の復旧は困難を極めていた。


 崩落斜面、損傷トンネル、歪んだ橋梁。


 そして、真鍋運転士が命を落とした事故現場。


 そこへ、ついに試運転列車が入る日が来る。


 次回、

 第18話「試運転」


 止まっていた線路に、再びディーゼル音が響く。

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