帰れない線路
第16話
帰れない線路
発災から十日が過ぎた。
大歩危駅周辺の孤立は少しずつ解け始めていたが、土讃線の時間は、まだ完全には止まったままだった。
線路は歪み、橋梁は傷つき、山肌は崩れ、トンネル入口には焼け焦げた南風11号が残されていた。
そこには、まだ帰れない人たちがいた。
*
ようやく、真鍋悠真の家族に連絡がついた。
妻の裕美。
そして、一歳になったばかりの息子、龍樹。
その名前を聞いた時、石原亮介はしばらく声が出なかった。
真鍋に家族がいることは知っていた。
スマートフォンの待ち受けに、まだ小さな男の子の写真を入れていたことも知っていた。
「うちの子、最近よう歩くようになってな」
そう笑っていた真鍋の声が、耳の奥でよみがえる。
*
連絡を入れる役目は、川原と石原が担った。
通信状況はまだ不安定で、途切れ途切れの通話だった。
それでも、伝えなければならなかった。
あまりにも残酷で、酷いことを。
川原は、受話器を握ったまま、一度目を閉じた。
「……真鍋悠真さんの奥様、裕美さんでいらっしゃいますか」
向こう側で、息を呑む気配がした。
「はい……」
その声だけで、裕美がずっと待っていたことが分かった。
夫の無事を。
帰ってくるという知らせを。
玄関が開き、「ただいま」と言う声を。
*
川原は、言葉を選びながら話した。
「ご主人は、最後まで乗客の避難誘導にあたられました」
裕美は何も言わなかった。
「ご自身も重いけがを負われていました。それでも、乗客を一人でも多く外へ出そうと、最後まで職務を全うされました」
石原が、横で拳を握りしめていた。
涙をこらえるために、唇を噛んでいる。
川原は続ける。
「真鍋運転士は……立派な鉄道員でした」
電話の向こうで、長い沈黙があった。
あまりにも長い沈黙だった。
*
やがて、かすかな声が返ってきた。
「……主人は」
裕美の声は震えていた。
「最後まで……仕事をしていたんですね」
「はい」
川原は答えた。
「最後まで、乗客を守ろうとしていました」
また沈黙。
その後、絞り出すような声。
「……ありがとうございます」
それ以上、裕美は言葉にできなかった。
電話の向こうで、幼い子どもの声が聞こえた。
龍樹の声だった。
石原は、その声を聞いた瞬間、顔を覆った。
*
その日、ようやく南風11号の事故現場から、真鍋悠真の遺体が運び出された。
救助隊。
鉄道職員。
警察。
消防。
全員が、静かに帽子を取った。
川原と石原も、線路脇に立っていた。
白い布に包まれた真鍋が、担架で運ばれていく。
石原は深く頭を下げた。
「真鍋さん……」
声が震える。
「遅くなって、すみません……」
川原も帽子を握りしめ、頭を下げた。
「よう頑張った」
それだけだった。
*
改めて見る南風11号は、言葉を失う姿だった。
あれが、自分たちと同じ特急列車だったとは思えない。
真っ黒に焼け焦げた車体。
大きく折れ曲がった連結部。
潰れた先頭部。
熱で歪んだ窓枠。
焦げ落ちた塗装。
余震によってさらに車体はねじれ、床下機器は砕け、台車は無残に曲がっていた。
言われなければ、鉄道車両だと分からないほどだった。
*
石原は立ち尽くした。
自分が乗っていた列車。
自分が乗客を誘導した車両。
真鍋が最後まで立っていた場所。
そこが、黒い鉄の塊になっている。
「……これが、南風11号……」
声が出たのか、自分でも分からなかった。
川原は、隣で黙っていた。
怒りでもない。
悲しみでもない。
悔しさでもない。
その全部が混ざった感情が、胸の奥で重く沈んでいる。
*
救助隊員が言った。
「まだ車内確認を続けます」
川原は頷いた。
「お願いします」
声がかすれていた。
まだ、帰れていない人たちがいる。
家族が待っている人たちがいる。
名前を呼ばれるのを待っている人たちがいる。
この線路から、ちゃんと帰してやらなければならない。
*
遠くで、山が小さく鳴った。
余震だった。
作業員たちが一斉に身を低くする。
崩れた斜面から、小石が落ちる。
現場は、まだ危険だった。
それでも作業は止められない。
止まったままの線路に、帰れない人たちがいるからだ。
*
石原は、黒く焼けた車両へ向かって深く頭を下げた。
「皆さんを、必ず帰します」
その言葉は、風に消えた。
けれど、川原には確かに聞こえた。
*
発災から十日。
土讃線はまだ走れない。
列車の音は戻らない。
けれど、人は動き続けていた。
亡くなった人を家族のもとへ帰すために。
生き残った人が、明日を迎えるために。
そしていつか、もう一度この線路に列車を走らせるために。
次回予告
第17話「冬が来る前に」
南風11号の事故現場から、真鍋運転士と犠牲者たちが運び出された。
しかし、土讃線の復旧は容易ではなかった。
崩落した山肌。
歪んだ線路。
損傷した橋梁。
冬が来る前に、少しでも線路をつなげたい。
保線員、技術者、地元住民、鉄道員たちの戦いが始まる。
次回、
第17話「冬が来る前に」
止まった線路を、もう一度未来へつなぐために。




