夜明け前
第13話
夜明け前
夜明け前の大歩危駅は、深い冷気に包まれていた。
誰も、まともには眠れていない。
待合室では、毛布に包まった避難者たちが肩を寄せ合っている。
ホームには、うっすら白い息が漂う。
余震のたびに目を覚まし、地鳴りのたびに身を縮める。
夜は、あまりにも長かった。
*
午前五時過ぎ。
空の端が、少しずつ青みを帯び始めた。
黒かった山の輪郭が、ゆっくり見えてくる。
崩れた斜面。
落石。
歪んだ線路。
遠くに残る煙。
明るくなるということは、希望でもあり、現実を見せつけることでもあった。
*
旅館のロビーでは、煙を吸った男性の呼吸がさらに苦しくなっていた。
「息が浅いです」
旅館スタッフが不安そうに言う。
石原車掌が唇を噛む。
医者はいない。
救急車も来ない。
このままでは、助かった命がまた失われる。
その時だった。
*
駅前から、誰かの声がした。
「けが人はどこですか!」
全員が振り向く。
朝の薄明かりの中、初老の男性が駅へ向かって歩いてきていた。
白衣ではない。
防寒着にリュック。
足元は泥で汚れている。
その後ろに、看護師らしき女性が二人。
息を切らしながらも、まっすぐ駅へ向かってくる。
*
駅員が駆け寄る。
「どちらから……!」
「町の診療所の医者です。坂本と言います」
男性は短く名乗った。
「本職は内科ですが、外科の応急処置もできます」
その言葉に、周囲の空気が変わった。
医者。
その一言が、どれほど大きいか。
夜を越した避難者たちには、痛いほど分かった。
*
坂本医師は、すぐに言った。
「今からトリアージを行います」
看護師二人が手早くバッグを開く。
包帯。
消毒液。
聴診器。
血圧計。
簡易酸素。
色分けされたタグ。
川原が近づく。
「重傷者はこちらです」
「案内してください」
坂本医師は、疲れた顔のまま、しかし迷いなく歩き出した。
*
待合室と旅館ロビーが、即席の救護所になった。
「意識あり。呼吸苦あり。煙を吸っています」
「こちら、左脚骨折疑い」
「頭部打撲。意識はあります」
「子どもさんは先に体温確認を」
看護師たちが声を掛け合う。
避難者たちは、静かに道を開けた。
昨夜までの恐怖だけの空気に、少しだけ秩序が戻っていく。
*
坂本医師は、煙を吸った男性の胸に聴診器を当てた。
「呼吸が悪い。横向きにしてください。温めて。水は少しずつ」
看護師がうなずく。
「はい」
次の患者へ移る。
傷を見る。
脈を見る。
意識を確認する。
短く、確実に判断していく。
*
石原は、その様子を見て、目に涙を浮かべた。
「助かるかもしれん……」
昨夜、何度も思った。
このまま誰かが死ぬのではないか。
助けた命を、また失うのではないか。
けれど今、医療が届いた。
完全ではない。
病院ではない。
それでも、命をつなぐ手が届いた。
*
川原は坂本医師へ頭を下げた。
「先生、ありがとうございます」
坂本医師は顔を上げずに答える。
「礼は後です。まだ夜は終わっていません」
その言葉通りだった。
夜は明け始めた。
だが、孤立は終わっていない。
道路はまだ寸断されている。
救助隊の本格到着も見えない。
そして、山はまだ揺れている。
*
駅の外では、朝日が少しずつ山の稜線を照らしていた。
美しいはずの紅葉が、崩落した斜面の土色に裂かれている。
それでも、光は差した。
大歩危駅のホームに、薄い朝日が届く。
川原はその光を見つめた。
夜は越えた。
まだ終わっていない。
でも、確かに一つ、越えた。
*
その時、待合室の奥で、小さな子どもが言った。
「朝や」
誰かが、静かにうなずいた。
「朝が来たね」
たったそれだけの言葉に、避難者たちは涙をこらえた。
昨日まで当たり前だった朝。
今日は、それが奇跡のように思えた。
⸻
次回予告
第14話「全国で列車が止まった日」
夜を越えた大歩危駅に、町の診療所から医師と看護師が到着した。
だが、救護が始まる一方で、全国の鉄道被害はさらに明らかになっていく。
四国では走行中列車の半数近くが脱線・停止。
関西から九州に至るまで、津波と激震が鉄道網を寸断していた。
次回、
第14話「全国で列車が止まった日」
土讃線の惨劇は、日本中で起きた鉄道災害の一部に過ぎなかった。




