山の孤立 夜が来た。
第11話
山の孤立
夜が来た。
十一月の四国山地は、昼とは別の顔を見せる。
冷気。
暗闇。
そして静けさ。
だが、その静けさは安心ではなかった。
余震が来るたび、山が低く唸る。
遠くで崩落音が響く。
誰も、次に何が起きるか分からなかった。
*
大歩危駅の待合室には、多くの人が身を寄せ合っていた。
毛布に包まる子ども。
横たわる負傷者。
眠れず座り込む人々。
旅館やホテルのスタッフが、簡易的な炊き出しを始めている。
だが、物資は圧倒的に足りなかった。
水。
薬。
包帯。
毛布。
食料。
何もかもが不足している。
*
「熱が上がってます」
旅館スタッフの女性が言った。
煙を吸った中年男性が、苦しそうに呼吸している。
「医者は……」
「来られません」
駅員が首を振る。
「道路が全部塞がっています」
その言葉に、待合室の空気がさらに重くなる。
救急車が来ない。
医師も来ない。
つまり――
ここで悪化したら、助からない可能性がある。
*
川原恒一は、ホームで無線を握っていた。
「こちら大歩危駅。負傷者多数。救助隊の到着見込みは!」
雑音。
混線。
そして、ようやく返ってきた声。
『……現時点で……山間部へ進入不能……』
「いつ来られる!」
『不明です』
その短い返答だけだった。
川原は目を閉じる。
分かっていた。
だが、実際に言葉にされると重かった。
*
運転指令本部では、状況がさらに悪化していた。
「予讃線、橋梁崩落!」
「室戸方面、津波で駅舎浸水!」
「沿岸部の列車、複数安否不明!」
「土佐くろしお鉄道、一部区間通信断!」
モニターには、赤い警告表示が並んでいる。
止まった列車。
脱線した列車。
津波に飲まれた沿線。
誰も、全体像を把握できていなかった。
日本そのものが、傷ついていた。
*
大歩危駅前では、無事だった数台の車が避難者へ開放されていた。
暖を取るため。
スマートフォンを充電するため。
そして、情報を得るため。
そのうちの一台。
古いワゴン車のカーナビテレビが、断続的に映像を流していた。
ノイズ混じりの緊急報道。
『……各地で甚大な津波被害……』
『……高知県沿岸部……』
『……多数の家屋が流失……』
人々が、無言で画面を見つめる。
*
映像が切り替わる。
ヘリからの空撮。
そこに映っていたのは、“町だったもの”だった。
濁流。
流される車。
屋根だけが見える家。
瓦礫。
炎。
そして、海。
巨大な黒い津波が、町を飲み込んでいた。
「……なんやこれ」
誰かが呟いた。
待合室が静まり返る。
*
その時だった。
カメラが、一人の少女を映した。
泥だらけの服。
震える身体。
呆然とした目。
消防隊員に毛布をかけられている。
だが、少女は泣いていなかった。
ただ、何かを失った顔で、海の方を見ていた。
アナウンサーの声が流れる。
『高知市沿岸部で保護された小学三年生の少女です』
『家族と離れ離れになっている可能性があります』
『名前は――』
一瞬、ノイズ。
そして、はっきり聞こえた。
⸻
「田中小百合さんです」
⸻
*
待合室の空気が凍る。
誰も言葉を発しない。
映像の中の少女は、小さかった。
だが、その目だけは、異様なほど静かだった。
泣いていない。
叫んでもいない。
ただ、海を見ていた。
まるで、何もかも持っていかれた人間の目だった。
*
三谷車掌が、ぽつりと呟く。
「……あの子、一人なんですか」
誰も答えられない。
画面では、消防隊員が少女へ声をかけている。
だが、小百合は反応しない。
唇がわずかに震えるだけ。
その姿が、あまりにも現実離れしていた。
*
川原は、画面を見つめたまま動けなかった。
自分たちは、山の中で孤立している。
だが、海沿いではもっと恐ろしいことが起きている。
列車事故。
脱線。
火災。
それだけではない。
町そのものが、消えている。
*
駅員が、震える声で言う。
「……南海トラフや」
誰も否定しなかった。
それはもう、“大きな地震”ではなかった。
国の形を変える災害だった。
*
カーナビテレビは、さらに映像を流す。
津波で押し流される漁船。
火災の上がる港町。
避難所で泣き叫ぶ人。
そして再び、小百合の姿。
今度は、救急車の横で毛布に包まれている。
アナウンサーが言う。
『少女は、家族について問いかけられても答えられない状態です』
『強いショックを受けているとみられます』
その言葉に、待合室の誰かが涙を流した。
*
石原車掌は、壁にもたれた。
真鍋を失った。
乗客を失った。
それでも、自分たちはまだ生きている。
だが、画面の向こうでは、町ごと人生が消えていた。
「……言葉が出ん」
三谷も、ただうつむく。
旅館スタッフの女性が、口元を押さえた。
「こんなん……」
その先が続かなかった。
*
川原は、ゆっくり画面から目を離した。
大歩危駅の待合室。
毛布に包まる乗客たち。
負傷者。
泣く子ども。
疲れ切った駅員。
その全員が、同じことを感じていた。
自分たちは、とてつもない災害の中にいる。
その現実を、初めて真正面から突きつけられていた。
*
外で、また山が鳴った。
余震。
駅舎が小さく揺れる。
誰かが悲鳴を上げる。
だが、もう誰も騒がなかった。
恐怖が、大きすぎると、人は静かになる。
*
川原はホームへ出た。
冷たい夜風が吹く。
遠くの山は真っ暗だった。
その向こうで、まだ助けを待つ人がいるかもしれない。
海では、田中小百合という少女が、家族を失って呆然としている。
列車も。
町も。
人の人生も。
すべてが、この一日で変わってしまった。
川原は、帽子を強く握りしめた。
「……終わらせん」
誰に向けた言葉でもなかった。
それでも、その声だけは、暗い山へ確かに響いていた。
⸻
次回予告
第12話「夜の避難駅」
夜を迎えた大歩危駅。
寒さ、空腹、不安。
避難者たちの疲労は限界へ近づいていく。
一方、煙を吸った負傷者の容体が急変。
医療のない孤立駅で、人々は命をつなぐ方法を探し始める。
そして、テレビに映った少女――田中小百合の姿が、多くの人の心へ深い傷を残していた。
次回、
第12話「夜の避難駅」
止まった駅で、人々は長い夜を迎える。




