山の孤立
第10話
山の孤立
大歩危駅にたどり着いた時、誰もが一瞬だけ「助かった」と思った。
屋根がある。
水がある。
人がいる。
それだけで、山中の線路脇に取り残されていた人々には、まるで別世界のように感じられた。
だが、その安堵は長くは続かなかった。
*
駅前の道路は、途中で寸断されていた。
山肌が崩れ、落石と土砂が道をふさいでいる。
観光バスも、救急車も、消防車も入ってこられない。
駅員が青ざめた顔で戻ってくる。
「駅前から国道へ出る道、落石で通れません」
川原恒一は目を閉じた。
「やっぱりか……」
石原車掌が聞く。
「救急車は?」
「来られません。少なくとも今すぐは無理です」
大歩危駅。
観光地の玄関口。
けれど今は、山に閉じ込められた避難所だった。
*
旅館やホテルのスタッフは、すぐに動いていた。
「重傷者はうちのロビーへ!」
「毛布を持ってきました!」
「大広間を開けます!」
「お湯、少しなら沸かせます!」
観光地だからこそ、人を受け入れる場所があった。
それは救いだった。
けれど、医療は足りない。
薬も足りない。
包帯も足りない。
医師もいない。
負傷者の中には、骨折している者、煙を吸って苦しむ者、意識が朦朧としている者もいた。
川原は、待合室に横たわる乗客たちを見た。
助けた。
でも、まだ守れていない。
*
駅の事務室では、無線と電話が断続的に鳴っていた。
しかし、つながるのは短い時間だけ。
「こちら大歩危駅! 南風11号、14号乗客を収容! 負傷者多数!」
駅員が叫ぶ。
だが返ってくる声は、雑音に埋もれる。
『……四国内……複数列車……脱線……』
『……津波……沿岸部……』
『……救助……優先順位……』
「聞こえません! 大歩危です! 負傷者多数!」
通信は、また切れた。
駅員は受話器を握りしめたまま、肩を震わせる。
「どうなっちゅうんや……」
*
その頃、運転指令本部では、状況がさらに悪化していた。
壁一面のモニター。
列車位置表示。
赤、黄、赤。
異常を示す表示が次々と増えていく。
「予讃線、沿岸部で津波浸水!」
「高徳線、列車脱線確認!」
「牟岐線、安否不明!」
「土讃線、南風11号火災、死傷者多数の可能性!」
「四国内で走行中列車の半数近くに何らかの異常!」
指令員たちは、声を枯らして対応していた。
だが、情報は足りない。
通信は途切れる。
列車からの応答がない。
線路が無事かどうかも分からない。
日本中が揺れていた。
四国だけではない。
紀伊半島。
関西。
山陽。
九州。
至る所で列車が止まり、脱線し、津波に襲われている。
鉄道網そのものが、傷ついていた。
*
大歩危駅の待合室。
小さな男の子が、母親の膝の上で眠っていた。
その隣では、煙を吸った女性が咳き込んでいる。
「水、もう少しありますか」
旅館スタッフが尋ねる。
三谷車掌が、残量を書き込んだ紙を見つめる。
「自販機の分はあります。ただ、この人数だと……」
言葉が続かない。
避難者は列車の乗客だけではなかった。
地震で不安になった観光客。
駅周辺の住民。
道路が通れず戻れなくなった人。
次々と大歩危駅周辺へ集まり始めていた。
水はある。
しかし、十分ではない。
食料も限られている。
夜を越す準備が必要だった。
*
川原は、旅館の支配人らしき男性と話していた。
「何人受け入れられますか」
「ロビーと大広間で、五十人ほど。布団はあります。ただ、厨房の水道が不安定で……」
「けが人を優先させてください」
「分かりました」
別のホテルスタッフが言う。
「うちは外国人観光客もいます。通訳できる人がいれば助かります」
「三号車に英語ができる乗客がいました。協力を頼みます」
川原は即座に判断していく。
運転士として列車を走らせていた数時間前には、こんな指揮を執るとは思っていなかった。
しかし今、この場で動ける鉄道員は限られている。
誰かが中心にならなければ、人は混乱する。
*
石原は、真鍋悠真のことを考えていた。
南風11号の運転士。
最後まで乗客を助けようとした男。
彼の亡骸は、まだ事故現場に残されている。
本当なら、すぐに迎えに行きたい。
だが、火災はまだ完全には収まっていない。
余震も続いている。
今行けば、二次災害になる。
石原は拳を握った。
「すみません……真鍋さん……」
その背中に、川原が声をかける。
「石原」
「はい」
「今は生きとる人を守る」
「……はい」
「真鍋も、それを望む」
石原は、涙をこらえてうなずいた。
*
午後五時前。
山の影は急速に濃くなった。
十一月の夕暮れは早い。
待合室の照明は非常電源でかろうじて点いている。
だが、どこまでも心細い明かりだった。
外では、旅館のスタッフと乗客たちが協力して、簡易の避難導線を作っている。
駅員は避難者名簿を作り続ける。
負傷者の名前。
年齢。
けがの状態。
家族の有無。
南風11号か、14号か。
誰が無事で、誰がいないのか。
書くたびに、現実が紙の上へ刻まれていく。
*
その時、大きな余震が来た。
駅舎がきしむ。
ガラスが震える。
「伏せて!」
川原が叫ぶ。
待合室の人々が身を低くする。
子どもが泣く。
負傷者がうめく。
外から、山が崩れるような音が聞こえた。
ドン、という重い響き。
誰かが言った。
「また道が……」
駅員が外へ出て、すぐ戻ってくる。
「駅の北側の斜面に亀裂が入っています」
支配人が顔をこわばらせる。
「ここも危ないということですか」
川原は、すぐには答えなかった。
安全な場所など、どこにもない。
ただ、今いる場所の中で、よりましな場所を選び続けるしかなかった。
*
川原は全員へ向かって声を張った。
「聞いてください!」
ざわめきが止まる。
「救助隊は、すぐには来られません。道路が寸断されています。通信も不安定です」
その言葉に、不安が広がる。
だが、川原は続けた。
「ですが、ここには水があります。屋根があります。旅館やホテルが避難者を受け入れてくれています」
一人ひとりの顔を見る。
「今は、ここで夜を越す準備をします」
誰かが震える声で聞いた。
「本当に助かるんですか」
川原は、少し間を置いた。
嘘はつけない。
でも、絶望も渡せない。
「助かるために、今できることを全部やります」
その言葉に、待合室は静まり返った。
*
夜が近づく。
大歩危駅は、孤立していた。
だが、完全な絶望ではなかった。
人がいた。
手があった。
声があった。
駅員が名簿を書く。
旅館が毛布を運ぶ。
乗客が子どもをあやす。
鉄道員が負傷者を運ぶ。
観光客が通訳をする。
誰かが誰かの隣に座る。
山に閉ざされた駅で、人々は小さな社会を作り始めていた。
*
川原はホームに立ち、遠くの山を見つめた。
暗くなり始めた山の向こうに、南風11号がある。
そのさらに向こうには、寸断された線路。
傷ついた鉄道網。
そして、同じように助けを待つ無数の人々がいる。
川原は帽子を握りしめた。
「まだ終わってない」
そう呟いた。
山の孤立は、始まったばかりだった。
次回予告
第11話「山の孤立」
大歩危駅で夜を越すことになった乗客たち。
しかし、医療も物資も不足し、負傷者の容体は悪化していく。
道路は寸断され、救助隊の到着は見通せない。
運転指令本部では、四国各地の列車被害がさらに深刻化。
そして、大歩危駅周辺の山肌にも、新たな崩落の兆候が現れる。
次回、
第11話「山の孤立」
たどり着いた先も、安全な場所ではなかった。




